ソウルイーター~「勇気」とその内実~

2012-01-25 17:54:59 | レビュー系

ソウルイーターに関して「『政治的に作られた』アニメ」、「all redacted」を書き、その続きとしてエヴァンゲリオンとの比較記事を掲載する予定だった・・・が、先にソウルイーターで登場するキーワード「勇気」を具体例として取り上げておきたいと思う(なお、これは本来「『父』と『母』、あるいは『勇気』について」の次に書く予定の記事であった)。

 

アニメ版ソウルイーターの終盤において、主人公マカは手紙を通じて母から「勇気」の言葉をもらい、アシュラとの最終決戦に向かう(一度も姿を見せず、しかし規範として機能している点が興味深い)。それにしても、この唐突に出てきた「勇気」とはなんだろうか?なるほど、それがわざわざアラビア語で書かれており、それがアシュラへ立ち向かうための土台として機能していることから、アシュラがアメリカ(=強い力を持つが、しかし異物を病的に恐れる存在)の象徴であることを暗示する符牒だ、というのは理解できる(言葉のイメージについては後でも述べる)。まあ少々あからさますぎて微妙(理由は後述)な感じはするが、ベタに内容を受け取るだけの人間があまりに多いと困るのでわかりやすいフックを用意したのだろう。しかし、「勇気」という言葉がどのような内実を持っているのかやはり判然としない。これほど重要な言葉として取り上げられているのになぜなのか?それとも単に前述の図式を示すためのツールでしかないのだろうか?

 

私がまず覚えた違和感は以上のようなものであった。その中で、さらに違和感を増幅させた出来事がある。なぜアシュラは、マカを忘我の状態からわざわざ覚醒させたのか?それを考察する前に、少し状況を整理しておこう。死神が重傷を負い、自分たちだけで戦わざるをえなくなったマカたちは、7人でアシュラへ挑む。事情があって一旦マカーソウルは離脱するが、戻った時キッドたちは動けないほど傷ついている状態になっており、結局マカ(ーソウル)とアシュラの実質一騎打ちになる。この時、アシュラに圧倒されたマカは突如新たな力(退魔の波長?)に目覚めたかのように激しい攻撃を仕掛けるのだが、それでもかなわずアシュラに馬乗りにされる状況にまで追い詰められたのであった。

 

問題はここからだ。誰の目にも、すでに勝負はついていた。あとは、マカの心臓なり頭蓋なりにただ一撃を下せばいいだけだった。にもかかわらず、アシュラは「忘我によって恐怖を滅却したか」という趣旨の発言をし、何を思ったかマカの脇腹を(悲鳴を上げるまで)圧迫してわざわざマカを覚醒させたのである。一体なぜこんな回りくどいことをしたのだろうか?なるほどこれを悪役キャラというものがしばしば持つ残忍さや悪趣味さだと考えることもできる。しかし、アシュラはそういう類の性質、より正確には「余裕」を持ち合わせていない。むしろその強大な力に不似合いなほど、異物(他者)を病的に恐れるのである。ゆえに、マカの向こう見ずさに怯えて衝動的・強迫的に殺すならともかく、痛めつけて起こすような行為は極めて不自然なのである。つまり、キャラクター造形的に行為の必然性はない。

 

だとすれば、わざわざその行為をさせる演出上の意図は何なのか?そう考えた時、先の「勇気」への違和感と疑問が繋がり、狙いが見えてきた。ヒントは、その時のマカが意識を飛ばして恐怖を感じないようにしていたところにある。その状態のマカは、対象(アシュラ)を見ていない。ただ脊髄反射的に動いているだけだ。さて、そのようにして恐怖を忘れる(=まさに「心から亡くす」)マカの行為は、例えば自らの狂気に目を向けず、なかったことにするのと同じではないだろうか。とするなら、ソウルが狂気を自らの一部として(消すのではなく)呑み込む描写をしてみせたアニメ版ソウルイーターがマカの忘我による恐怖の滅却を否定するのは当然であり、「勇気」の内実もまたそのような文脈で考える必要がある。そこからすれば、この作品で示される「勇気」とは、ノイズ(異物・狂気)や困難を見据える(それと向き合う)行為であって、そこから目を逸らしたり顧みたりしないことでもたらされる向う見ずさ・蛮勇とは似て非なるものであると言うことができるだろう(その意味で、ここでの「勇気」は「覚悟」の原義に近いものと言える)。

 

とはいえ、この説明ではピンと来ない人もいると思うので、もう少し説明しよう。「勇気」という言葉が強調されるのを見た時、私は巷に溢れている「信じれば叶う」的ナイーブなものかと疑った(「デスノート~乾いた死~」)。これは単なる作品の志向性(or作品への嗜好)の問題ではない。今は具体的に述べるつもりはないが、「精神主義という名の病」でも少し触れたように、大戦時の「神風」的発想、あるいは震災時の社会の雰囲気に象徴されるような「ノリ」=「空気」社会のあり方は、実に「信じれば叶う」的なものであり、それは今も続いている(そして今、「開国」という「ノリ」で動いているわけだ)。ことほどさように、危険性や問題点を直視しない「信じれば叶う」的な蛮勇・向う見ずさは、社会の広範を覆っているのである。ソウルイーターも結局は同じか、という疑いを持ったのである。

 

 さて再び作品の話に戻ろう。「アカギ」という漫画の中で、これに関する非常におもしろいセリフがある。確か鷲巣の言葉だったと思うが、大要「人は不利には目をつぶれるが、有利に目をつぶることは難しい」というものだ。つまり、人は現実の不利(問題)に目を閉じて蛮勇にその身を任せることはできるが、目の前の小利に拘泥しないでいることは難しい、と。その言葉を借りれば、「信じれば叶う」的発想は、まさに「不利に目をつぶる」行為に等しい。しかもそれが思考停止の産物とは気づかず、前進・決断したから良しとして蛮勇・蛮行に身を投じてしまうのである。これに関する他の例として、「終末の過ごし方」という作品もある。その中では、あと世界が一週間で滅ぶというのに日常を続ける主人公たちが描かれている。これを見ると、アルマゲドン的作品をジャンクフードのように食わされ続けた我々はもどかしく感じ、つい終末に向けて何か具体的な行動を起こそうよ、と言いたくなる衝動にかられる。なるほどしかし、「行動」とは何だろうか?そのことをよくよく考えなければ、ラジオで遠景として語られる暴徒たちと同じだ。彼らの行為は、勇敢さによるものではない。むしろ不安に駆られた行動、別言すれば「行動という名の逃避」なのである(この話題は、「人間の可能性は負の方向にも無限大」、「鞠也に首ったけ」、「キム・ギドク」のような記事、あるいは「排除と包摂」にも繋がっていくが、今回は詳しく扱わない)。

 

製作者がそのような社会状況をどこまで念頭に置いていたのかはわからない。しかし少なくとも、マカ(+ソウル)とアシュラの対照的な振る舞い、そしてマカが忘我の状態からわざわざ覚醒させられていることなどから、ソウルイーターにおける「勇気」は「信じれば叶う」的な現実(ノイズ=失敗の危険性や異物)を直視しない盲目的蛮勇ではなく、むしろそれらと向き合う態度を指すとは言えるであろう。


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