『ベティ・クロッカーのお料理ブック』:ステルスマーケティングと、女性を家庭にいるべき存在とみなすイデオロギーについて

2024-05-08 11:21:35 | 生活

 

 

久しぶりの奇書解説動画だが、最初は単なる料理本の紹介と見せかけて(意外性)、次はステルスマーケティングの手法となり(納得)、最後は同時代のイデオロギー分析(納得を超える充実感)、という展開はさすがの一言である。

 

ここからは色々なテーマに結び付けられそうだ。例えば先日触れた、なぜ「マスゴミ論」が盛んになるのか?といった視点と絡めて、マクルーハンやボードリヤールを援用しつつ、メディア分析や消費分析、プロパガンダの手法分析にもつなげられるだろう。

 

あるいはより卑近な例で言えば、「手作り弁当」をSNSでアップするのはいいとしても、その競い合いの背景であるお手製信仰と冷凍食品での「手抜き」に対する批判などは、時に呪いともなる(動画内でいう行為者側の「手抜きの罪悪感」もあり、色々複雑な要素も絡んでいる点には注意が必要だが)。これは育児「イデオロギー」、すなわち良いことを言っている風で、その実科学的知見に乏しかったり、むしろそれに反することを押し付けるような傾向とも関わる根深い問題であるように思う。

 

また動画内で登場する役割分担や家族観はあたかも「伝統」のように語られがちだが、せいぜい近代に生まれたものに過ぎないこともよく知られている話だろう。すなわち、近代化以前においては「女性は家の中にいる存在」などではなく、むしろ畑仕事や内職などで貴重な労働力だったし(特に日本は養蚕など含め兼業農家が多い)、また子どもに関しても、学校などに囲って庇護される存在というよりはむしろ、早い段階から労働力として活用される「小さな大人」だった。

 

発展途上国で出生率が高いのは、乳幼児死亡率の高さも去ることながら、子どもを増やすことにこういった「経済合理性」があるからだ。一方の先進国=メリトクラシー化した社会では、乳幼児死亡率が低い上にその教育期間・教育費用が延長されがちで、むしろ経済的に余裕がなければ、十分な教育を施すことが困難なのである(厄介なのは、「十分な教育」というものが習い事など諸々含めると青天井であることも関係している)。

 

こういったように、バダンテールの『母性という神話』やアリエスの『子どもの誕生』などを通じて近代的な家族観を相対化するとともに、それがどのように20世紀前半のアメリカ合衆国で機能していたのかという、言説分析につなげることもできる(実際動画でも触れられているように、20世紀初頭でもそれなりに裕福な家庭だと女性は家事を直接行わず、家政婦にやらせていた)。

 

ちなみにこの動画で語られる1920年代~1950年代というのは、女性の地位向上と社会進出を準備したという観点でも非常に興味深い時期である。まず1920年代と言えば、1914年より始まった第一次世界大戦という空前の総力戦によって社会から成人男性=労働の主力が多く失われたことで、女性がその代替となり、軍需工場でも働くことになった(このあたりは、ケイト・ショパンが批判的に描き出したように、19世紀半ばに起こった南北戦争時には女性が銃後を守る存在として期待されていたのと対照的で興味深い)。

 

このような形で偶然にも女性の大々的な社会進出がなされるとともに、戦争遂行に貢献したということで参政権要求にお墨付きを与えることとなり(cf.古代ギリシアや古代ローマの軍役と参政権の結びつき)、実際イギリスでは1918年に第四回選挙法改正が行われ、女性に限定的とはいえ参政権が認められ、本動画のアメリカ合衆国でも1920年には女性参政権が付与された(ちなみにだが、教科書的には国際連盟の設立やら宣教師外交やらで取り上げられる民主党のウィルソン大統領が、女性参政権には反対していたという事実は、いわゆる「偉人」の多面性というか、あるいは現代の私たちが考える「リベラリズム」観の相対化という点でも認識しておく価値があるだろう。ちなみに、今の文脈では戦争協力→参政権付与という視点で書いているが、アメリカ初の女性議員であるジャネット・ランキンはその反戦活動で有名である)。

 

そして1930年代は世界恐慌による混乱で始まり、著名なフランクリン・ルーズヴェルトがニューディール政策を行っていったが、実はその政策自体では大きな効果はなく、第二次世界大戦による需要の創出によって経済が復活していった。

 

戦争終結後の1940年代~50年代には、社会復帰した男性たちの受け入れのため、女性は仕事から家庭へと回帰する。ちなみにこの頃のアメリカ社会における家庭内の抑圧と緊張、及び破綻を描き出したのが、レオナルド・ディカプリオとケイト・ヴィンスレットの「レボリューショナリーロード」である。

 

今回の動画で扱っているのは、言わばこの破綻の前史なわけだが、ではなぜそれが崩壊に向かうかと言うと、60年代にはベトナム戦争の勃発とそこでのアメリカの凶行がメディアによって世界的に報じられ、「Don't trust over thirty.」の合言葉の元、反戦運動やヒッピー文化が社会現象となったからである(いずれ扱う機会もあるだろうが、先日訪れたカンボジアについても、同時期のアメリカの空爆で10万以上の人間が殺されている。なお、60年代の公民権運動の高揚などもこういった時代性とリンクしている)。

 

これは「カウンターカルチャー」とも言われるように、それまで自明視されていた価値観への抵抗と、その欺瞞の告発だったわけだが、その様子を象徴的に描いたのが、ダスディン・ホフマンの「卒業」だったと言える(ちなみに主人公やエレンが退却するのは、既存の社会的価値観そのものであり、1960年代後半から1970年代半ばには、こうして映画の典型的なハッピーエンド的展開のみならず、社会の既存の価値観に抵抗する「アメリカンニューシネマ」と呼ばれる作品群が発表されていった)。

 

それとほぼ同時期にウーマンリブ運動も盛り上がっていき、その中で「女性=家庭にいるべき存在」とする価値観が批判され、見直されていったわけだが、そこから直線的に現在へといたるわけではなく、それへの反動的現象が、80年代のレーガン大統領=わかりやすい「保守」の選出だったと言えるだろう。

 

まあその後もアファーマティブアクションやらポリコレ(後者はもはや「現代の新宗教」という感さえある)やらの動向とともに、陰謀論が猖獗を極め現在のアメリカが急速に分断を深めていることはよく知られている通りだが、その前史を考える契機として、この動画は非常に興味深いと思った次第である。


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