「ALWAYS  三丁目の夕日」:テーマパークの心地よさ

2015-02-19 17:19:03 | レビュー系

ディズニーランドがテーマパークであることに、異論を挟む人はいないだろう。つまり、それが現実そのものだとは当然誰も考えないのである。

 

私が「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画を見たとき、ああこれは紛れもなくテーマパークだなと感じた。それには三つ理由がある。

1.建設中の東京タワーや上野駅などを再現するためにCGを多用している。

2.公害やヤクザといった当時を象徴するものが出てこない。また、貧困などもあって当時は非常に高かった犯罪(率)の影もない。
(ちなみに我が故郷熊本では、この映画の舞台である1958年の2年前にあたる1956年から水俣病問題が始まっている)

3.非常に大げさな演技や説明的なセリフの数々。
(日本の伝統と言う時、しばしば「以心伝心」が取り沙汰されるのに、これはどうしたことか)

 

要するに、ノイズを排除した空間創りをした上で来訪者に大して懇切丁寧な説明をしてくれているわけだ。これがテーマパークでないなら言葉の定義を変えた方がよいだろう。その意味において、ただALWAYSという作品の作為性や欺瞞を批判したとしても、違和感を持つ人々に共有されるだろうが、これを評価する人たちには届かないように思われる(たとえば忍者村が来訪者を惹きつけるためにキャッチーな部分は強調しつつ細部の作りがいい加減だったりすることは往々にしてあるだろう。しかしそれをもって忍者村が作り物にすぎないことを強調しても、来訪者たちは楽しみに水を差すお節介とでも思うに違いない)。

 

ただ、テーマパークの志向性という点でディズニーランドとALWAYSは対照的だ。たとえば、保守的と言われてきたディズニー映画でありながら、今日ではピクサー的要素を取り込みつつ「アナと雪の女王」で従来の女性描写(理想像)を大きく変えて提示した。言い換えれば、きちんと未来を見据えようとしている。それに対し、同じテーマパークでも後者は「昔はよかった」と過去を理想化する内容になっており、それがどう現在・未来に繋がりうるのかという視点はない(卵が先か鶏が先かという問題はあるが、かつてはウォークマンで一世を風靡したソニーが凋落し、後にジョブズがiPhoneを発表して世を席巻したのもこの差異からすればむべなるかな、である)。しかしまあそういうこともあるだろう。アメリカにだって「聖書に書いてあることは全部本当なんだ!」ということをアピールするための「創造博物館」なるものがあり、これに比すればALWAYSテーマパークはかわいいものだw

 

しかし、私が極めて問題だと思うのは、ディズニーランドが現実そのものであると考える人は皆無であるのに対し、ALWAYSはそうではない点にある(その最たるものは、首相までもがこの作品をテーマパークではなく過去の実態の反映であるかのように評価しているところだろう)。この情報化の時代、その気があれば1955年から高度経済成長が始まり、1958年から「三種の神器」が爆発的に売れ始めた(=人が物を追い求めた時代)、時を同じくして公害問題が表面化してきたことなどはすぐに調べられる。また多少なりとも考察する気があるのなら、貧しいながら豊かになるチャンスが目の前にわかりやすくあったからこそ、人はチャンスのある都会に出てきてがむしゃらに働いた(あるいは働くしかなかった。ちなみにそうして故郷から切り離された人たちの多くが創価学会に入信した結果、同会が急速に拡大していったのはよく知られた事実である)。その意味において目的がはっきりしており充実していた時代であったろうが、逆に言えば、物が満ち足りてグローバル化などを通じ成長の契機も不透明になればそのような条件が失われるのは当然である(車そのものを大量生産するフォード的なものから細部のチューニングで差異を出す=物だけを生産していても売れないポストフォード的なものへの変化に見られるように、これは特殊日本的なものではなく成熟社会の宿命である)。昔が精神面でも輝いていたように思えるのはそのためであり、今それと同じ状況を求めるのは単なる無いものねだり以上の何者でもないと言えよう・・・といったことはおよそ30分もあれば調べることが可能となっている。なるほど年齢層の高い人たちであればネットを利用することに馴染みがなく、結果として思い込みに流されてしまうことはあるかもしれない。しかし、色々なレビューを見ている限り当時を知らない若い世代にもこの作品が「過去の理想的な日本」を伝えていると捉えている=テーマパークであることに気づいていない様子だ(むしろ同時代に生きていた人たちこそ違和感を覚えてむしろこの作品に批判的な態度をとったりもしているようだ)。

 

無知や忘却を元にノスタルジーに浸るのはもちろん個人の自由だ。テーマパークに入り浸ったからと言って、他人から批判される謂れもないだろう。しかし、これが返す刀で現状への非合理的な主張・政策に結びつくのであれば全く話は変わってくる。たとえば曽根綾子のように「昔と比べて今の人間は甘やかされている(から助ける必要はない)」とでもいうような開いた口が塞がらないような言説が一定の支持を受けるのは、現状に対する不満のはけ口になっていることも去ることながら、無知と忘却によるところが大きいのではないか(たとえば、二次大戦直後の苦境において「原始時代よりはましな生活だから我慢しろ」という発言を誰かがしたとして、それがどれだけ無神経で説得力がないものととられるかは容易に理解できるはずだ。それに、「戦争前後の苦しい状況を生き抜いてきた人たちなんだから、これからは年金なんか支給しなくてもいいよね?」などと言われたらどう反論するのだろうか?)。だから私は、このALWAYSという作品そのものより、この作品をテーマパーク(ネタ)としてではなく現実(ベタ)として受け取り、そこにグロテスクさを見出すどころか幻想強化につなげてしまっている受容環境こそが最大の問題だと思うのである(ちなみに、この映画の監督が実写版「戦艦ヤマト」、そして先日取り上げた「STANS BY ME ドラえもん」の製作者であることからすれば、ALWAYSの内容に批評精神があるとは到底思えない。なお、ノイズ排除のグロテスクさを提示した傑作として、「ソウルイーター」「クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲」が挙げられる)。

 

そのような状況を鑑みると、なるほど夫婦別姓を導入したら伝統的家族が崩壊すると騒ぎ、明らかに憲法違反の非嫡出子の法的差別が継続しているのは当然であると思われる。とはいえ、目の前の違和感と過去への逃避は世代に関係なく容易に短絡しうる。このような反応を他山の石として常に心に留めておく必要があるだろう。


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