goo

宮城 羽黒山公園のヒガンバナ

2018-10-08 19:53:24 | 東北のヒガンバナを訪ねて

 

 旅の最後の目的地、宮城県大崎市羽黒山公園に車を停めました。

 

 この公園は、私が十年以上前(平成20年頃)にホームページで「ヒガンバナの名所」を作り始めた頃からリストしていた場所です

 

 十年以上前の調査では、東北のヒガンバナ群生地は此処以外になかったように思います。

 

 以前のブログ「船岡城址公園『曼殊沙華まつり』に学ぶ」で記したように、花を目的とした旅では、その周辺に群生地や魅力的な場所があれば、必ず訪ねてみたくなりますが、此処は他の群生地と距離がある為、私がヒガンバナの季節に羽黒山公園を訪ねる機会は得られませんでした。

 

 早朝に訪ねましたが、羽黒山公園の小高い丘をヒガンバナが真紅に染めていました。

 


 

 公園の入り口に掲げられた説明によると、羽黒山公園のヒガンバナが全国に知られたのは平成10年頃からだそうです。

 

 昭和51年から地元有志が「羽黒山をきれいにする会」を結成し、除草や清掃を続けた結果、ヒガンバナが群生するようになったそうです。

 


 

 以前紹介した、源氏川堤防のヒガンバナも今では、地元有志の方々の努力で群落が維持されているそうです。

 

 羽黒山公園のヒガンバナ群落はまさに、自ら生徒が教室の清掃を行うに、郷土愛に溢れる人々が、自らの手で、自らの意思で、自らの郷土を美しく飾りたい思いで花を育ててきたのでしょう。

 

 功名心や利益の為ではなく、心の声のままに、家族や仲間が暮らす里を美しくしたい思いのみで維持されてきた群落のようです。

 


 

 新潟県長岡市に雪国植物園があります。

 

 その植物園を運営する長岡「令終会」の運営方針は

 

 会の名の意味は「人生の終わりを全うする」ということで、

 「人生の終わりを全うせしむるに自己の財産を善用し、末を誤ることなかれ」との記載があります。

 

 この長岡の「令終会」に限らず、日本は全国各地に、同様の考えに基づき、

 財がある人は財を、時間がある人は時間を投じ、郷里に花を育てる人々の姿があります。

 


 

 この羽黒山公園のヒガンバナも、まさにそのような人々の努力の賜物なのでしょう。

 


 

 この国には美しい花を咲かせる為に努力を惜しまない人々の、善意溢れる豊かな土壌が育まれています。

 

 

 

 何時の頃からか私は、花を見て暮らしたいと考えてきました。

 

 運よく平和な国の平和な時代に生き、今こうして望み通りに、花を見る日々を過ごせています。

 

 絵を描く人や彫刻家が作品を通して人々の心に感動を伝え、三浦雄一郎や脇坂順一が山に登り続けてアクティブな人生の生き様を示してくれました。

  

 私も全国に花や木を訪ね、お伝えすることを続けて行ければと願いながら、 「東北のヒガンバナを訪ねて」は、この回をもって、ひとまずの終了とさせて頂きます。

 

 ありがとうございました。  

 

東北のヒガンバナを訪ねて index

 

  旅の目次 全ての花の旅

 

ヒガンバナの名所   ヒガンバナの謎を探る

 

 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

北上市 如意輪寺のヒガンバナ

2018-10-08 16:38:57 | 東北のヒガンバナを訪ねて

 

 二戸から国道4号を南下し、北上市稲瀬町の如意輪寺へやってきました。

 

 予定ではもう少し早い時間に到着するはずだったのですが、二戸の図書館で予定外の時間を費やしましたので、今日も到着が日没間際となってしまいました。

 


 

 住所をナビに入力していたのですが、地方へ行くとよくあることですが、住所区分が大きすぎて、近くに行っても目的とする場所が分からないことがあります。

 

 今回も同様で、ナビが「目的地に到着しました」と告げても、それらしい光景が見当たりません。

 

 今回も同様に、車の窓を開けて、犬の散歩をされていたご婦人に、「如意輪寺へ行きたいのですが」とお尋ねし、何とか無事に寺の駐車場へ車を進めることができました。

 

 寺の山門の脇に、鎌倉時代初期に作られた、県指定文化財の釈迦三尊座像の説明が掲げられていました。

 

 帰宅後に分かったことですが、如意輪寺がある辺り一帯は、9世紀から12世紀の頃にかけて、平泉が栄える200年も前に北上盆地における仏教の中心地である国見山廃寺跡の一隅に位置するようです。

 

 平泉に中尊寺が完成する以前の国見山廃寺は700を超える堂塔や36の僧房を備えた大寺院だったようです。

 


 

 如意輪寺の山門から本堂へと続く参道の両側に、ヒガンバナが並び咲きます。

 


 

 山門から先へ進んで見上げると、ヒガンバナの花群れの奥で、本堂が五色幕を張り巡らせていました。

 

 如意輪寺で何か祭礼が執り行われているのかもしれません。

 


 

 石段の左右の斜面を数多くのヒガンバナが赤く染めていました。

 

     

             

 

 地元の新聞に如意輪寺のヒガンバナが報じられたようで、駐車場に次々と車が出入りし、多くの方達が、寺を赤く染めるヒガンバナにカメラのレンズを向けていました。

 

 

東北のヒガンバナを訪ねて index

 

  旅の目次 全ての花の旅

 

ヒガンバナの名所   ヒガンバナの謎を探る

 

 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

蛇沼牧場のアメリカスズカケノキ

2018-10-08 00:28:34 | 東北のヒガンバナを訪ねて

 

 十和田湖生出から発荷峠に上り、頂上の展望台で十和田湖に別れを告げました。

 


 

 国道103、104号、県道32号を経て、目的の蛇沼牧場に到着しました。

 

 

 

 牧場の玄関口に、県道に面して、見事な樹形のスズカケノキが枝を広げ、その横に。樹高34m、幹回り5.25mと記された解説板が添えられていました。

 

 牧場の方にご挨拶をと思い周囲を見回しましたが、人影がなかったので、そのまま木の観察を始めることにしました。

 

 

 

 最初に幹を確認しましたが、下の小石川植物園のアメリカスズカケノキとは異なるように思えます。

 

 

 

 次に葉を確認しました。

 

 

 

 何とも言えませんが、小石川植物園のように明らかな五角形を示す葉がなく、葉の切れ込みが深いように思えます。

 

 また、小石川植物園の木に発現する異形葉性は認められません。

 

 蔵王町と山形市で見て来た、アメリカスズカケノキが全てモミジバスズカケノキだったことから、私はかなり疑い深くなっています。

 

 高い枝を見上げ、他の葉と重ならずに、葉形が確認できる葉を、可能な限り撮影し続けました。

 

 葉脈の形態なども撮影し、92枚の葉の画像を得ることができました。

 


 

 観察を終え、周囲の環境などを確認していると、牛舎の方で人声が聞こえたので、近づいてゆき、東京から蛇沼牧場のアメリカスズカケノキを観に来たことを伝え、木の来歴などを教えて頂きたいとお願いしてみました。

 

 すると、一人の方のご案内で母屋に導かれ、お婆様からお話を伺うことができました。

 

 この木は明治45年に北海道大学から、数多くの苗木を持ち込んだうちの一つで、当時はこの周辺に街路樹として、あるいはシンボルツリーとして葉を茂らせていたそうです。

 

 苗木はアメリカから持ち込まれ、当初からアメリカスズカケノキと認識されていたそうです。

 

 この話をお聞きして、アメリカスズカケノキの可能性は高いかもしれないとは思いました。

 

 しかし、自分で直接木を観察した印象は拭い切れず、しかも、日比谷公園のアメリカスズカケノキがモミジバだと判断されたことなどを踏まえ、更なる検討が必要と考えています。

 

 牧場の方から、二戸図書館に行けば、この木に関する資料があるかもしれないと教えられたので、牧場を辞した後、予定を変えて二戸市内へと車をはしらせました。

 

 

 図書館のカウンターで訳を話し、関連する複数の資料を探し出してもらいました。

 

 その中の一つ、教育委員会編纂の「二戸の先人たち」という、小学校の副読本に、蛇沼牧場を開拓した蛇沼政恒(1849~1921)が紹介されていました。

 

 極めて興味深い内容なので、項を改めて紹介したいところですが、このブログの主題から外れますので、要点だけを記しますと、

 

 蛇沼政恒は1849年(嘉永2年)青森県三戸郡猿辺村蛇沼に生まれました。

 

 蛇沼家はその地に700年以上住む、有名な武士の一族だったようです。

 

 政恒は21歳の時に江戸に出て慶應義塾に学びました。

 

 やがて政恒は、大久保利通が奨励した緬羊飼育を二戸で行う夢を持ち、東京駒場で緬羊飼育の研究を始めました。

 

 そして明治9年、政恒は25頭の緬羊をつれて、徒歩で二戸に向かい、23日後に二戸に到着しました。

 

 順調に子羊が育ち始めたやさきの明治13年秋に突然、緬羊牧場が狼に襲われ、全滅するという悲劇に見舞われました。

 

 しかし政恒は再度江戸から徒歩で、二百頭の緬羊を連れて二戸に戻り、冷害で緬羊を失うなどの苦労を重ねながら、牧場経営を続け、1921年(大正10年)に72歳で世を去りました。

 

 この資料の末尾に、「彼の夢を見守り続けたアメリカスズカケノキは、日本一の大きさになって、今でも上野地区を見守っています。」と記されていました。

 

 二戸図書館で資料を数十枚コピーし、14時半頃に次の目的地へと車を走らせましたが、車の中でフーとため息をついて、まだ昼食を摂っていないことに気付きました。

 

 蛇沼政恒と蛇沼牧場に関連する資料に記載されていた、夢とロマンに溢れる物語は、それほどまでに私を夢中にさせてくれたのです。

 

 

東北のヒガンバナを訪ねて index

 

  旅の目次 全ての花の旅

 

ヒガンバナの名所   ヒガンバナの謎を探る

 

 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )