市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

ではその具体像は何なの

2008-02-20 | Weblog
  フリーターの若者の疲れ果てた、無気力な写真は、有無をいわせない現実感を与えてくる。しかし、それは巨大都市東京のきわめて限られた場所と時刻でのいっしゅんの映像にすぎないのだ。その写真は、著者三浦展のの分析を強化するために用いられた映像の力である。映像は映像であって、若者そのものではない。それは一つの論を支える証拠資料にすぎない。それは統計の数値に似ている。繰り返すが、そこには、生きている人の多様な、複雑な、絶え間なく変転しつづける人間の本質は、排除されているといえないか。

 この「下流社会」になると、もっとも具体的に知りたいことが、ますます抽象的な概念となってくる。下層社会を形成しつづける自分探しの失敗者ともいうべき、フリターの仕事とはどんな仕事なのか具体的には語られない。どうじに自分探しより仕事探しという、こちらの仕事とは、具体的にどんな仕事かは語られない。

 フリターという近未来に下層に陥落する若者たちの心理や性格や行動様式や人生観は、各章、各節と、その欠陥が語られる。では、その対極に位置する上流階層の
心理や性格、その行動様式、人生観は語られなず、不問にふせられたままである。

  かくして、読者は、この本を読んでいくと、ろくでもない若者が、ろくな仕事もせずに、自分探しという夢を追って自堕落な日々を送る情けない現状を思いうかべるだろう。そして、その結果、生活貧困者となりやがて下層階層に落ち込んでいく恐怖感を覚えることになろう。反対に、正社員とは、なんやら上場企業や外資企業、公務員などの社員のイメージを抱いてしまう。

 またこういうフリーター志向の若者の知性と教養の欠落,社会正義への無関心が
批判されてもいる。ここでも、では教養とは何かが、具体的にしめされていない。知性の欠落というが、知性とはなんなのだろうか。いったい、若者がうまれたときから抱え込んでいる音楽、映像について、われわれ大人はどれだけ知っているのだろうか。われわれの教養、知性といっても、それは戦前から一部にうけつがれてきた文学中心の教養主義であった。そこには漫画もクラシック以外の音楽も入り込む余地も無かった。その教養がないからといって教養がないといえるのか。知性ががないということをどこで断言できるのか。ここも極めて、あいまいなのである。親父の説教や人生観の視点では、問題の核心には迫れない。


 
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