読書の記録

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生命海流

2024年01月08日 | 旅行・紀行・探検

生命海流

福岡伸一
朝日出版社


 「動的平衡」でおなじみの生物学者、福岡伸一のガラパゴス諸島旅行記である。彼の文章は難解ではないが描写が大仰で、サイエンス畑の研究者のイメージを覆す文豪みたいな文体が特徴だ。しかも本書は開始後全体の3分の1に至ってもまだ旅行に出発していない、という不思議な構成の本である。その前半3分の1では、作家と編集者の関係の話とか、本の値段と本の中身の企画の関係の話とか、とにかく右に左にと迂回ないし脱線しながら語られていく。

 しかも、ガラパゴス旅行記とはいえ、そこは生物学者のそれ。通常のガラパゴス観光旅行ではない。なにしろガラパゴス諸島を観光で訪問するならほぼすべての人が拠点となるはずのサンタ・クルス島はほぼ無視である。彼らは小型クルーザーをチャーターし、かのチャールズ・ダーウィンがビーグル号にて訪れたのとなるべく同じ航路と上陸を追体験しようというコンセプトなのである。

 本書の前半3分の1は、この企画が実現するまでの長い長いエピローグとその他注釈なのである。

 では、残り3分の2がめくるめくガラパゴス諸島旅行記かというとどうもそれとも違う。ガラパゴス諸島の最大の特徴はその特異あまりある生物相にあるわけで、生物学者である著者だからそれらイグアナやアシカやカメや鳥たちとの邂逅に膨大な記述を割いているかというと必ずしもそうではなく、むしろ船における手狭で操作が難しいトイレの話とか、ゴムボートで島に接近しての浜辺やの上陸の困難な話とか、チャーターした船とともに雇ったシェフの料理の芸術的な手際の良さとその美味さとか、を変わらずの福岡節で書かれていく。そして島の人文地理や自然史由来に相当な説明を費やしている。それと比較すると島の生物たちとの邂逅の話は、かなりエキセントリックなエピソードいくつかしか語られない。むしろ、動物や植物の様子は同行したフォトグラファーによる挿絵写真にすべて委ねてしまったかのようだ。

 要するに見聞記ではなくて思索記なのである。

 本書のキーワードは「ロゴス」と「ピュシス」、すなわち理性的論理と自然的本能において、前者が勝る現代生活においてナチュラリストを曲がりなりにも自称する著者が、この旅行を通じて己れのピュシスに否が応でも向き合わなかざるを得なくなる話なのだ。若者のインド旅行みたいだなと思わなくもないが、それを特異な生物相であるガラパゴス諸島で体験する、というところが本書のミソであろう。本書はガラパゴス諸島およびその海域という特異な場所をモチーフにした生命とは何かを思考する本である。その思考の対象はダーウィンの進化論そのものである。ダーヴィニズムから考えるとガラパゴスのイグアナやカメやアシカや鳥たちの生物相は説明がつかないことが多々あるという。進化論はロゴスによって突き詰められたが、生命体そのものが持つピュシスの可能性を捨象しすぎたのではないか、と著者は考える。

 その最大が、ガラパゴスの生物たちが人間に恐れをいだかず、むしろ好奇心をもって絡んでくるということだ。「人間を脅威とする記憶がないからだ」という論はあてはまらないという。後天的に「人間は怖いもの」として得られた知識は簡単に遺伝しないからだ。ガラパゴスの生物たちは人間に恐れをいだかず、無関心でもなく、攻撃対象でもなく、むしろ積極的にちょっかいを出してくる。それはまるで「意思」があるようだと著者は表現する。遊んでいると描写する。なぜそんなふるまいをするのか。

 著者の仮説は、ガラパゴス諸島の生物たちは「ニッチがスカスカだからだ」というものである。本格的な検証を経ているわけでも実験をしているわけでもないから、仮説以前といったほうがいいかもしれないが、ガラパゴスに生息する諸生物たちは、餌や住処を奪い合う関係もなく、食物連鎖としてもつながっていない。ウミイグアナとリクイグアナは、食べるものも棲む場所も異なる。アシカもオットセイもペンギンもリクガメもウミガメもそれぞれ棲み分けられており、利害が衝突しない。そして彼らの生命を支える資源は、ふんだんにこの島と海域に存在するのだ。つまり彼らの生活には「余裕」がある。この「余裕」が異なものに対し、好奇心と利他の心をつくるのだという。それはロゴスではなくてピュシスがふるまうものなのだそうだ。

 何事も余裕が大事よねーとなると結論としてつまらなくなるが、ガラパゴスゆえにその閉じた世界相の中で余裕こいた生活ができたとなると、まるで一時の日本みたいである。そういやガラケーのガラはガラパゴスのガラであった。ガラパゴスがエクアドルの領土として保全され、アメリカからもイギリスからも植民地支配として逃れられたのは、20世紀の覇権主義の世の中にあって幸運であったと本書も指摘している。「ガラパゴス化」はまるで悪いことのように語られがちだが、食うか食われるかのあくなき競争に巻き込まれないという意味ではこれはこれで進化と生存の道ではあったんだなと思う。「余裕」と「ガラパゴス化」が実は表裏の関係だったとすると、「過当競争」と「デファクトスタンダード」がそれの対ということになる。プラットフォーム化とかトランスフォーメーションとかAIとか、均質化を志向する動きは相変わらず加速気味だが、どこかにガラパゴス的なものを残しておいたほうが「余裕」という資源を確保する意味では大事かもしれんなどと思った次第である。

 

 


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