読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

南海トラフ地震の真実

2023年12月02日 | ノンフィクション
南海トラフ地震の真実
 
小沢慧一
東京新聞
 
 わが国においては、政治と科学が対立したときは政治が優先されるということがよくわかる本。むしろ、政治は科学から浮遊したところにあるのだ、と言ったほうがよいのかも。
 
 政治的判断が科学的根拠より優先されるという例はこの本に限らず、ここ数年において随所でみてきたように思う。たとえばコロナ対策だ。いま思えば、コロナ分科会長の尾身氏と政府のちぐはぐはその代表例だったろう。当時、尾身氏においては御用学者とか政府に謀反を起こしたとかいろいろ揶揄とうっぷん晴らしの的にされていたが、あれこそは政治的優先と科学的懸念の戦いだった。緊急事態宣言レベルの感染状況なのに外国人を呼んで東京五輪を断行し、そのときだけは緊急事態宣言が解除されていて、五輪が終わったらまた緊急事態宣言で人流抑制という究極のダブルスタンダードは、科学そこのけの政治的行為の極北であった。
 
 他にもある。脱炭素の国際的潮流に日本も乗るため、2030年までに二酸化炭素の排出量を46%減らすという宣言を、ときの環境大臣である小泉進次郎が行った。この46%という数字の根拠はどこから出たのか、という問いに対し、小泉進次郎は「おぼろげながら数字が浮かんできた」と、例の進次郎節でしゃあしゃあと言いのけた。なんていいかげんなともちろん炎上したが、冷静に考えればそんなわけはないのであって、この46%という数字は大いなる政治的駆け引きと思惑があって引かれた線のはずである。科学的根拠による積み上げでは39%程度がいいところだったが、欧米諸国とのバランスや関係省庁とのかけひき、企業に檄を飛ばす程度の塩梅の中で、もっとも政府がマウンティングをとれるのがこのスコアだったのである。
 こういうあまりつっこまれたくない政治的判断を公表するときにバカのふりをしてけむに巻くのは政治家に求められる気質のひとつだろう。僕は、進次郎構文に代表される彼の迷言シリーズは、案外にわかった上でうつけ者のふりをしているものではないかと睨んでいる。一種の腹芸だ。
 
 
 したがって、南海トラフ地震の「今後30年以内に80%の確率」というのが科学的見地から離れた政治的思惑の独り歩きだという本書の指摘において、まあそういうことなんだろうなあ、と思う。国としては、地震の襲来タイミングをピタリと当てたいのではなくて、とにかく経済的・人的損害が少しでも軽減するように防災対策をしておいてほしいのであろう。30年以内に20%の確率です、と言うよりは、30年以内に80%といったほうがみんな防災行動をするのは確かだ。
 
 江戸時代のことである。土佐藩では米作の害虫被害が深刻になっていた。対策を検討している過程で、ムクドリが害虫を捕食することが判明した。しかし当時はムクドリは庶民に食されていた貴重なたんぱく質だったので、ムクドリに害虫を捕食してもらうためには、人々がムクドリを獲るのをやめてもらう必要があった。しかし大事な食べ物を「害虫を食べてもらうために人間は食ってはいけない」と言ったところで、人々がムクドリを捕まえることを止めないだろう。当時は飽食の時代ではなかった。
 
 この1000羽に1羽というのが絶妙で、これが10000羽に1羽程度になると、まずは当たらないよ、といって人々は捕獲を続けるし、100羽に1羽となると嘘がばれやすい(今までさんざん食していたのだ)。
 この絶妙な数値設定のお触れによって、ムクドリは保護されたという。
 
 南海トラフの「30年以内に80%」という数値が出来上がるまでの裏話をきいて、このムクドリのエピソードを思い出した次第である。
 
 
 
 もっとも、本書だって、本当は30年以内に20%くらいなのに、80%なんて嘘をついてけしからん! と言っているわけではない。防災は大事である。本書が問題として指摘しているのはある種の既得権益・利権の構造と、人間判断の副作用である。
 
 前者でいうと「30年で80%」だからこそ、対策費や研究費として予算がおりやすくなる。国の予算は有限だから、南海トラフ対策に予算が寄せられるということは、その分なにかの予算がしわ寄せを食うということになる。あったかもしれない予算割り当ては子育て対策だったかもしれないし、感染症対策だったのかもしれない。
 
 もう一つの「人間判断の副作用」というのは、「南海トラフが危険ということは、他所では地震はこないってことだよね」という安心バイアスの発生のことである。人間というのは弱いもので、都合のよい解釈に飲まれていく。
 
 前者の既得権益の虚無感もやるせないが、後者の人間判断バイアスはけっこうバカにならない気がする。本書でも指摘しているように、日本で近い将来地震が来ると戦後昭和の時代から言われ続けたのは、首都圏直下地震であり、東海地震であった。阪神大震災も東日本大震災も熊本地震も「想定外」だったのである。自分のところは大丈夫という気分的な安心バイアスだけではなく、それを根拠に企業誘致や住宅地造成が行われるから厄介だ。
 だからといって、住民や企業を呼び込みたい自治体にとって、我が土地は安全です、とアピールしたくなるのはそりゃ当然であろう。これだって科学から離れた政治的判断であるという意味では同じだ。熊本ではいま半導体工場の建設ラッシュだが本当に大丈夫なんだろうかと思う。
 
 統計学の世界では「第1の錯誤」「第2の錯誤」という概念がある。
 「第1の錯誤」とは「本当はないのにあるとみなす錯誤(偽陽性)」であり、「第2の錯誤」は「本当はあるのかないのか断定できないのに『ない』とみなす誤謬(偽陰性)」のことだ。前者は単なる予言の失敗、というやつだが、問題は後者で、実はこの「第2の錯誤」を犯す確率はけっこう高くなりがちなのである。そして地震の話に戻れば「本当は地震が来ないのに来るとされる土地」よりも「本当は地震が来るか来ないかはわからないのに来ないとされる土地」のほうが出現頻度は多いのにそれに気が付かない、というミスリードを誘発することになる。
 
 統計的トラップ×人間の安心バイアス×政治的都合という複合によって、地震を引き合いにした安心感の引き寄せは実ははなはだ厄介な現実的局面をつくってしまうのである。行動経済学的とでも言うか、ある意味で人間が生来的に持つ判断能力の範囲を超えてしまっているのだ。明治時代の科学者であった寺田寅彦が喝破したように「災害は忘れた頃にやってくる」なのである。裏を返せば「忘れないうちにやってくる自然現象は災害ではない」ということだ。
 
 というわけで、地震の予測については、南海トラフであろうとその他の地域であろうと「わからない」というのが本当のところである。地震保険やら防災フェアやらハザードマップやら、地震をネタに観心を買おうとする例は多いが、これに関しては本当に五分五分のわからなさと考えてよさそうだ。

 

この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« スヌーピーがいたアメリカ  ... | トップ | Z世代的価値観 »