読書の記録

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シフト

2016年01月05日 | 政治・公共
シフト

著:マシュー・バロウズ 訳:藤原朝子
ダイヤモンド社



 未来予測本のひとつ。帯のコピーは「2035年、米国最高情報機関が予測する驚愕の未来」。著者はNIC(国家情報会議)にいた人。

 いろいろ示唆に富んではいるが、なかなか日本人に気付きにくいのが中東と中国であろう。前者はどうしても我々の日常と疎遠のところであり、剣呑なところであることだけがイメージとして伝わってはきているものの、その実何がどうなってあのような危険なことになっているのかは我々はなかなか頭に入ってこない。僕としても教科書的な近代史をふりかえってはみても、変数が多くてちっともわからない。民族と宗教と軍事技術と資源をカードにしての貸し借り、敵の敵は味方、敵の味方は敵なんてのが複雑に絡み合っていて、そう簡単にはひもとけない。しかし本書を読んでいると、イランとサウジアラビアの潜在的敵対関係に触れていて、そうなんだイランとサウジアラビアは敵対しているのか、なんて改めて確認していたら、まさに新年早々イランとサウジが国交断交に至るってしまった。バロウズすげえ。
 イスラエルとサウジアラビアという親アメリカと、イランとパレスチナという反アメリカがあそこにはあるけれど、アメリカがシェールガス革命でエネルギー自給率を高め、中東依存度を減らすとこのへんのパワーバランスがかわるわけだけど、アメリカに去ってほしくない中東の国もあるわけだ。

 中国のほうはもっと気づきにくい。日本人のメンタリティとして気づきたくないバイアスが働いているようにも思えるが、事態はもうすでに進行していて、端的にいうと、未来のグローバルは中国のご機嫌にかかっているということ。
 これまでの経済史観に照らし合わせれば、あと5年もすれば中国では民主化革命が起こるとのことである。それが成功するか失敗するかはわからない。民主化革命に成功しようと失敗しようと、あるいは何事もおきずに中国共産党がさらにパワーアップしようと、いずれにしても日本を含むアジア周辺諸国、そしてグローバル全体にわたっての影響力は良いことも悪いことも含めて相当に大きいことは間違いない。

 問題なのは、それが今までのわれわれの価値観や規範の想像を超えたカタチをしていることである。

 たとえばGDP。われわれ日本人はいくら中国のGDPが日本を抜いて世界2位になろうとも、一人当たりGDPは全然ダメじゃん、とか思って優越感を保つ。だがこれの本質は、そもそもこのGDPという経済指標が従来のような意味を持たなくなってきているということだ。確かに、GDPというのは「国民一人あたりGDP」×「全国民数」ということになるのだけれど、かつての経済史観だと、国民ひとりひとりの生産力の増強がひいては国力の物差しすなわちGDPとしてみることができた。ひとつの国が抱える人口規模というのがある種の想定内にあったということである。しかし、21世紀以降、かつてない人口爆発の国が次々現われると、一人ひとりがほんのちょっとした生産性向上でも、国のGDPは跳ね上がることになる。だからアメリカと中国のGDPがほぼ同じになったとしても、その内訳がまったく異なる。中国だけではなくて今後はインドや中南米やアフリカ諸国にこういうGDP強大国が現われる。つまり、ひとりひとりの生産力はたいしたことがなくても、桁外れの人口がゆえにGDPが大きい国という、経済史上現われたことのない国が今後続々と出現する。で、そういう国はいったいグローバルにどのような影響を与えるのか。経済や環境や外交にどういう力学を働かせるのかは、実は誰も経験がないのである。

 もうひとつ重要なことは、これらの国のほとんどが非西欧文化圏であるということだ。
 このことは日本にとっては実にやっかいで、というのは日本という国はアジアではあるけれど、基本的には西欧文化圏に属している。もちろん日本は日本独自の規範や文化や常識知があるわけだけれど(そしてもっとも英語が通用しない国でもあるのだけれど)、大きなグループで考えれば西欧文化圏である。法律の考え方、行政の進め方、道徳の持ち方、国家間での秩序の約束事は、キリスト教を中心とした西欧文化の範疇にある(つまり明治時代以降、国際法とか国際化というのは西欧化のことだったのだな)。
 しかし、中国はじめ、これから台頭してくる新興国のほとんどは非西欧の国である。法律の考え方、行政の進め方、道徳の持ち方、国家間での秩序の約束事が、非西欧的ということである。尖閣諸島や南沙諸島をめぐる中国の動きは、西欧の目から見れば非常識極まりないが、アジアの目から見れば、あれはあれでひとつのやり方であったりする。我々はイスラム諸国の商慣習やあるいは法律のありようがまるで理解できないが、彼らにとってはあれがスタンダードである。

 本書の指摘にもある通り、生物分子学や遺伝子技術や量子物理学といったテクノロジーをどう有用に使い、悪用を防ぐかというのも、この規範の問題に関係してくる。われわれ日本人は、何にどう使うのが人類史の上で良いことであり、何に使うのはやりすぎだ、あるいは良くないことだというのはぼんやりとは線引きできるだろう。そしてそれは西欧諸国の線引きとそれほど大差はないと考えるだろう。たとえば子どもを産むときは、優秀な遺伝子を持つものだけ選別して受精させる、なんてのは倫理上よろしくないと思うだろう。だがこれらはすべて「西欧の規範」にのっとったものである。しかし、非西欧のある国が、国民すべてを優秀にしたいと考え、選別受精に乗り出すかもしれない(実際のところ「一人っ子政策」というのは現代人類史においてかなりいびつとしか言いようのない政策である)。環境問題も教育問題も、われわれ日本人が認識しているのは「西欧の規範」である。(もちろん例外はいくらでもある。「死刑制度」は日本人的感覚ではあってしかるべしと思う人が大半であるが、西欧ではそうではない)。

 非西欧の規範を持つ国が中国を筆頭にいま世界を覆いつつある。インド、コロンビア、インドネシア、メキシコ、トルコ、ブラジル、南ア、ナイジェリア、さらにイランやエジプトが台頭してくる。そのときの「国際秩序」はまったく「西欧秩序」ではないのである。

 これは日本にとってそうとう未知の恐怖だ。日本は数少ない「アジアなのに西欧文化の国」なのである(あとは韓国・フィリピン・シンガポールくらいか)。だから、日本はアメリカが離れていくのをもっとも恐れている(ヨーロッパもアメリカが離れていくのを恐れている)。非西欧の台頭に太刀打ちできるのはアメリカくらいだろうと「西欧諸国」はみんな考える。しかし、アメリカがエネルギー自給を達成し、エネルギー純輸出国に転じれば、もう「世界の警察」なんてやる必要もないだろう。冷戦はとっくに終わっているし、最近の「ポスト国家的」な勢力は、どうにもアメリカも手を焼いていてめんどくさいし国内からの支持も得られにくくなっている。実際のところ、アメリカという国は歴史を振り返れば孤立主義をとりたがる遺伝子を持っている。歴代の日本の首相は実はみんなアメリカが離れていくのを恐れてきたんじゃないかと思う。
 日本と韓国の、強行とも思える慰安婦問題決着(手打ち?)も、今年は大統領選のあるアメリカからなんらかの牽制があったんかもしれんなあ。


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