SNファンタジック日報

フラメンコと音楽をテーマにファンタジーを書きつづる新渡 春(にいど・しゅん)の、あるいはファンタジックな日々の報告。

風に踊る星の瞳・第5話

2009-06-29 11:39:55 | 書いた話
初めの幾フレーズかは、ひどく静かだった。まるで店を包む夜気さながら、エストはゆっくりと舞う。ほとんど動かないように見えるが、軽く握られた両の手が、心のうちの緊張をそっと明かす。
今、踊りを彩るのは低く歌うギターのみ。フアンはエストから目を離すことなく、じっと時を待つ。
やがてギターの調子が変わる。気持ちの昂りを思わせるように、ラスゲアード(かき鳴らし)が盛り上がっていく。
それにつれて、エストが動いた。ギターとぴたりと調子を合わせた足さばき。動きが高まるにつれて、衣裳の裾が揺れる。
観客は思わず息を呑む。彼らはそこに、星にも似た輝きを見る。控え目の照明のもとでも、エストの瞳はきらきらとした輝きを帯びていた。
「……まるで、星の瞳だ……」
嘆息がてら思わず漏らしたのは、店主のミゲリートだったかもしれない。
エストは両腕を徐々に挙げていく。ナチョのギターと息を揃えて。やがて頭の上で、腕をすっと交錯させた──
「地獄……!」
裂帛の間合いで、フアンの歌が飛び込む。人々は後ろから拳でも浴びたように、フアンに目を向ける。
「お前が行くという地獄に
おれも一緒に行かねばならぬ……」
古い歌を、フアンは歌っていた。
そして人々は見る。エストの新たな変化を。エストは固く目を閉じていた。動きは決して停めていない。背後から聴こえるギターとカンテを、全身で受け止めているのが、明らかだった。
「地獄とは……」
十字を切る信心深い客がいる。
「おまえと一緒に行かねばならぬ……」
フアンの歌は続いていた。
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風に踊る星の瞳・第4話

2009-06-25 15:25:56 | 書いた話
ショーを見ようと陣取っていた客たちは、思わぬ踊り手の登場にざわついた。
「誰だ?」「見ない顔だな」「歌い手も違うぜ」「一体何が? しかし、いい女だ」
そのときミゲリートが、ステージに現れた。胴間声に、ざわめきが静まる。
「ええ、すみませんな皆様。ショーの前に、今日は飛び入りがございます。しばしおつきあいのほどを。ええと、名前は……」
「エストレージャ。歌い手は、フアン」
彼女は名前を明かし、ステージ袖からほんの一歩進み出る。長い黒髪は無造作に結い上げられており、片目は隠れたままだ。その佇まいの変化に、ミゲリートさえも息を呑む。
つい最前までエストが身にまとっていたのは、いつに変わらぬ藤紫のドレスのはずだった。しかし、今、皆の目には、それは深い紫の衣裳に映っていた。日の沈みきる前のわずかな時間にしか出現しない、残照のいろ。
「魔法のようだな……」
誰かが呟き、同意の溜め息が広がる。
エストとフアンが一瞬目配せを交わした。そして、ナチョのギターが最初の音をはなった。今ではほとんど聴くことのなくなった、古めかしいフレーズが続く。
(ほう……珍しいこともあるもんだ)
感心したのは、ミゲリートだった。ふだんのナチョのギターは、モダンで軽い。そのほうが客も好む。が、今や客は惹き込まれるように、酒を飲む手も休めて聴き入っている。
(こいつ、こんなふうにも弾けたのか)
ミゲリートの感心をよそに、ナチョはひとフレーズを弾き終えた。巧みな間合いで、歌が入る。ミゲリートはふたたび驚いた。
(……ただの小僧と思っていたが……)
フアンの声には、ナチョのギターに負けないだけの古色蒼然たる味わいがあった。踊りを呼び込む渋い節回し。アイ、アアイ……。その声に誘い出されて、エストがゆるりと舞台中央に舞いいでた。
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風に踊る星の瞳・第3話

2009-06-24 10:34:20 | 書いた話
「こんばんは」
エストの低く響く声は、重い扉をやすやすと開けさせる。
「よう、別嬪さん」
ボーイらしい男が、愛想よく出迎える。
「あと少しで、ショーが始まるところさ。見ていくかい」
「……そうね」
エストを迎え入れ、扉が閉まりかける。取り残されそうになったフアンは慌てて半身をこじいれる。ボーイは形ばかり詫びて二人を奥へ通す。
「誰かお目当てがいるかい。今夜はいい子が出てるぜ。いま街で話題のピラールにロサ、それにメルセデス。いや、あんたなら歌い手のパキが目当てかな、街一番の色男だし」
「オーナーに会いたいの」
「ミゲリートかい? そいつは変わった趣味だ。で、会ってどうするんだい?」
エストは小首を傾げ、ふっと微笑む。
「ここで踊りたいのだけど。彼が歌うわ」
「えっ、なんだい、売り込みかいあんた」
ボーイは呆気にとられ、エストの顔をもう一度見て、仕方ねえなあというふうに首を振る。
「……わかったよ。ここで待ってな」
10分ほどして、ボーイが恰幅のいい中年男を伴って戻ってきた。
「踊りたいそうだな、お嬢さん。このミゲリートに売り込みとはいい度胸だが、いったい何が踊れる?」
「……なんでも」
ミゲリートは値踏みするようにエストを眺める。息苦しい沈黙。
「……よし、チャンスをやろう。ソレアを踊ってみろ。その坊やが歌うのか。ナチョ!」
ミゲリートがギタリストを呼んだ。楽屋と思しき方から、ギターを提げた男が現れる。血色はよくないが、なかなかの美男だ。
「ナチョ、このお嬢さんがソレアを踊る。歌はこちらの坊やだ。1曲合わせてやれ」
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風に踊る星の瞳・第2話

2009-06-21 12:51:12 | 書いた話
「人を探してるのかい」
「ええ」
エストは答えて、グラスを干す。場末の小さなバル。まだ宵の口のせいか、エストとフアンのほかに客はいない。無愛想な亭主ひとりいるきりで、どんな内緒の話をしても、ほかに漏れる気遣いはなさそうだった。
「もう1杯いただくわ」
「おうよ。ちょっと待ちな」
亭主が奥へ酒壜を取りにいったのを見計らい、フアンが囁く。
「信頼できるかな」
「さあね」
エストも小声で返す。
「信頼しない理由もないわ」
亭主が戻って、二人は黙る。エストの前にすばやくグラスが差し出される。エストはゆっくりと金色の酒を口に含む。
「……で、探し人はどんな相手だい?」
「ギタリスト。できれば、この街でいちばんの腕利きを」
「なるほど」
亭主は腕を組んで少し考え込む。
「……なら、ミゲリートの店に行くといい。ここからも近いし、いいギタリストがいる。今夜もショーがあるはずだ」
「店の名前は?」
「ミゲリートの店でわかるさ」
そう言いながらも、亭主は簡単な地図を描いて寄越した。フアンが受け取る。エストはグラスを傾けている。
「……あんた、踊り手かい」
亭主がやや興味を示して訊く。髪に隠れたエストの片目が、きらりと光ったようにも見える。しかしそれは刹那のできごと。
「ええ。そうよ」
答えたときには、いつもの彼女。
「見てみたいね、あんたの踊りを」
「ありがとう。もう行くわ」
エストは酒代を置いて踵を返す。
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風に踊る星の瞳・第1話

2009-06-19 13:24:52 | 書いた話
「別嬪さん、寄っていきなよ」
「1杯どうだい。奢るぜ」
彼女が街を行けば、男たちが次々と声をかけてくる。彼女はそうした声に一瞬視線を投げ、しかし言葉を返すことはしない。
夏至を控えたせいもあって、街は賑わっていた。市場にはこの時期にしか作られないパイが並び、人々が買い物にいそしんでいる。サン・フアン・バウティスタ(洗礼者ヨハネ)の祭がやってくるのだ。あと5日もすれば、祝いのかがり火が焚かれ、祭はクライマックスに達する。街のあちこちにはすでに薪が積まれ、早くも準備は整いつつあった。
「一緒にかがり火を見ないか? 今年のは盛り上がるらしいぜ」
別の男が彼女にまた声をかけてくる。
「連れがいるから」
今度は珍しく答えた。
「その頼りない坊やかい。おれといたほうが楽しいぜ」
「行くわよ、フアン」
彼女はちらりと後ろを見て、足を速める。
「ちっ、美人だからって気取ってやがる」
男の悪態は、虚しく市場の雑踏に吸い込まれる。パイ屋の呼び声、魚屋の大声の蔭に。
「……エスト、こんなところで喧嘩しないで」
彼女の少し後ろを歩きながら、青年──フアンが気遣わしげに言う。
「莫迦にされたのはあなたよ、フアン」
彼女──エストが振り向く。長い黒髪が揺れる。髪に隠れていないほうの目が、ちらりと光る。明けの明星のように、わずかにいたずらめいた輝きをたたえて。
「それもそうか」
フアンの表情は苦笑に変わる。
「しっかりしてね、ヨハネさま」
「ぼくは、偉大な洗礼者じゃないよ」
エストは歩をゆるめ、中天から照りつける太陽の下を歩いていく。汗ひとつかかずに。あとには、昼寝覚めの雑踏だけが残される。

(つづく)
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風に踊る星の瞳・プロローグ

2009-06-17 15:19:03 | 書いた話
月のない夜、石畳を彼女は歩く。
あわあわとした藤紫のドレスの裾が、夜風に吹かれて揺れる。腰近くまで伸びた黒髪も、風に乗ってふわりと踊る。髪に隠れて片目は見えない。
彼女は気にする様子もなく歩を進める。どこかで微かに犬が啼く。夜明けまでには、まだ遠い。
「エスト、待って」
突如、世界は現実のいろを帯びる。彼女の肩に、青年が手をかける。
「ひとりで、さっさと行っちゃうんだもんなあ」
「あなたが遅いから、フアン」
それきり二人は黙り込み、暗い夜道を歩いていった。

(つづく)
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悲喜街のシェリー屋・あとがきに替えて

2009-06-16 10:57:18 | 書いた話
気がつけば、まるごと8ヵ月かかりました(爆)。
わたしが見た夢をきっかけに始まった「悲喜街のシェリー屋」でした。初回は2008年10月15日。最終回は2009年6月15日。わずか45枚の小説に8ヵ月……商業誌の連載でなくてよかったです(汗)。いつ更新されるのか作者にもわからない(オイコラ)気まぐれ小説を、気長に待ってくださった皆様、本当にありがとうございました。
わたしの作品ではよくあることなのですが、今回もキャラクターたちが途中からどんどん独り歩きしてくれました。おまえたち、どこに行くんだ~と言いつつ、キャラクターを追いかけていた印象があります(息切れ)。結局最終回は、当初の予定とはかなり違った展開に(苦笑)。まあ、最終的には甘いながらも自分の好きな話に仕上がったので、よしとさせてください(哀願)。
わたしにとっても、初めてのネット小説で、新鮮な体験をさせていただきました。またこうして作品を発表していければ幸いです。もし「こんな話が読みたい」というご希望がありましたら、絶賛受け付けております(情けない)。ではまた、次作でお目にかかりましょう。
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悲喜街のシェリー屋(13)

2009-06-15 11:21:59 | 書いた話
喜びと悲しみが相半ばする街・悲喜街には、連日賑わう小さなシェリーバーがある。
「おーい、こっちはまだかい?」
「あらっ、わたしが先よ!」
馴染み客たちの他愛のないやりとりを納めるのが、主人の歌声だ。主人が歌い出せば、どんな諍いも不思議と静まってしまう。そろそろ中年にさしかかるだろうに、充分に若々しい金髪で長身の主人は、客に会釈しながら、カウンターの中に声をかける。
「ミノリ、ちょっと急ぎめで頼むよ」
「わかってるわよ、アンヘル! 今やるわ」
気は強いがしっかり者の女主人が、すかさず言い返す。と、カランとドアベルが鳴って、新しい客がやってきた。
「ここ、いいかい?」
「すみませんお客さん、その席はちょっと」
「へえ、もったいないね、こんな特等席を」
確かにそこは、心地よく風が抜ける、店の特等席だった。アンヘルが謝りながら、穏やかに客を、別の席に誘導する。ミノリと常連客たちは、微笑みながらその光景を見守る。
「だって、あの席は……ねえ」
「トニオ爺さんの席だもんなあ」
そして彼らは一様に懐かしく思い出す。白髪頭でしゃがれ声の、トニオ爺さんを。

トニオ爺さんは、ミノリとアンヘルに店を譲ってから、肩の荷を降ろしたように老いていった。子どもたちが次々に巣立ち、がらんとした家をシェリーバーにしないかと提案したのは、トニオ爺さんだった。幾年もかかったが、3人は辛抱強く開店を目指した。
別れは突然だった。5年前、シェリーバーがいよいよ開店にこぎつけた日の朝。トニオ爺さんを起こしにいったミノリの悲鳴で、アンヘルが駆けつけたときには、爺さんは眠ったまま、旅立っていた。葬儀は街じゅうの人間が集まったような勢いで、あらためて誰もが、爺さんの人望を知った。皆でシェリーをすすっては涙し、トニオ爺さんを想った。
「……何もかも、トニオ爺さんのおかげね」
「うん、ぼくもそう思う。大事にしなきゃね、この店を。それが、ぼくたちの務めだ」
夜ごと店を閉め、ミノリとアンヘルは語り合う。そして爺さんの席に、火をつけたタバコ1本とシェリーを1杯、そっと置くのだ。

灰色の霧の中を、トニオは歩いていた。
(ここはどこだ?)
手探りで歩きながら、何か目印がないものかと辺りを見回した。
「やあ、遅かったじゃないか、トニオ伍長」
霧の中から響いた声に、反射的に身構える。だが、すぐ、声の正体に気づいた。
「……中佐殿……!」
「ずいぶん年数がかかったな。わたしは、ずっとここできみを待っていたのに」
「長らくお待たせしましたな、中佐殿」
トニオは敬礼し、ふたりは、固く抱擁を交わした。まるで、親子のように。

(了)
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悲喜街のシェリー屋(12)

2009-06-14 17:08:37 | 書いた話
アンヘルはゆっくりと、告白を続けた。
「最初は、声だった。それまでいかにも機械じみていたぼくの声が、人間の声になっていたんだ。それをきっかけに、ぼくの身体はどんどん変わっていった。手足が伸びて、髪も目も耳も、身体の中身も、人間のものになった。カタリーナの棺は小さくてかなり窮屈だったけど、それは何とか我慢できた。だけど、どうしても困ったことがあった」
「……どうしたの」
「人間って、土の中で息できないんだね!」
アンヘルは無邪気に微笑んでみせたが、ミノリは笑うどころではなかった。
「焦ったよ……大声を出しても誰も来てくれない。あとぼくにできるのは……歌うことだった。その歌を神父さまが聞きつけて、ぼくを掘り出してくれたんだ。人間って、そういうところは不便なんだね」
「……それで、ここに……」
「今思い返しても、何が起きたのかわからない。本当に、気づいたら人間になってたんだ。神父さまは初め仰天していたけど、徐々に納得してくれたよ。教会の手伝いをしてたんだけど、ある日ぼくを呼ぶ声を追って街に出てみたら、このシェリー屋に、ミノリがいた。そのとき悟ったんだ。ぼくを呼んでたのは、ミノリ、きみだったんだと。だよね?」
ミノリは頷いた。喉に砂袋が詰まったようで、言葉は出なかった。
「楽しかったよ、きみやトニオ爺さんとの日々。でも、正体がバレちゃったから、残念だけど、もうここにはいられないな」
ミノリの胸がきしむ。行っちゃうの……!?
「待ちなさい」
トニオ爺さんの、野太いしゃがれ声がした。
「アンヘル、おまえはいつ造られた?」
「ええと……150年ぐらい前だったと思う。貴族の館で大事にされていたんだけど、革命や戦争が相次いで、いろんな人の手に渡って。最後は古道具屋の片隅にいたのを、カタリーナが気に入ってくれてね。あとは、知ってのとおりだよ」
(ああ、本当に、人形だったんだ……)
アンヘルが声をかけてきた日のことが、ミノリの心によみがえった。どうしてすぐわからなかったのだろう……? 金髪、碧眼のすらりとした容姿、爽やかな歌声。あらためて眺めてみれば、アンヘルは大好きだった人形そのものなのに。
「これから、どうする気だ」
「教会に戻るか、旅に出るか……。でも、どこに行っても、この店のことは忘れないよ」
「……なら、このままここにいればいい」
トニオ爺さんのぶっきらぼうなひとことに、アンヘルもミノリもきょとんとした。
「アンヘル、おまえは何のために人間になったんだと思う?」
「え、それはミノリに呼ばれたから……」
トニオ爺さんは語気を強めた。
「そうだ。おまえを想うミノリの気持ちが、奇跡を起こしたんだ。一度おまえを失って悲しんだミノリを、もう一回嘆かせる気か! そんな真似は、このトニオが許さん。ミノリは、おれの大事な娘だからな」
「……トニオ爺さん……!」
ミノリはそう言うのが精一杯だった。
「アンヘル」
「はい」
トニオ爺さんの表情はいたって真剣だった。アンヘルも、思わず居ずまいを正す。
「人間というのは、確かに不便なものだ。食べ物や金がなければ生活に不自由するし、病気にもなる。しかも、たかだか数十年という限られた命だ。だが、おまえもせっかく人間の命を授かったなら、この限られた人生をぞんぶんに生きてみたらどうだ。生きてみると……人間も、案外悪くないぞ」
「そうだね……そうだね、トニオ爺さん」
アンヘルは相好を崩した。
「人間になってまだ1年にもならないけど、ぼくはこの店でいろんな人に会った。ぼくは人間として、もっとたくさんの経験をしていきたい。あなたたちと一緒に」
トニオ爺さんも頬をゆるめ、新しいタバコに火をつけた。立ちすくんだままのミノリを、そっとアンヘルと向かい合わせる。
「……幸せにしてやってくれ、この子を」
「はい」
アンヘルは優しくミノリを抱きしめた。ミノリは、まだ夢心地だった。

(つづく)
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悲喜街のシェリー屋(11)

2009-06-12 17:47:39 | 書いた話
「アンヘル……なの?」
ミノリは呆然として、ようやくひとことだけ口にした。けれどどこかで、納得もしていた。アンヘルがうたう歌に、道理で聴き覚えがあったはずだ。どれも、カタリーナが可愛がっていたオルゴール人形「アンヘル」がうたっていた歌だったのだ。
明るい南国の調べ、優しい子守唄……その爽やかな歌声を、カタリーナと一緒にミノリもいつも聴いていた。生来の内気な性格から誰にも言いはしなかったけれど、ミノリはその歌が、そしていつしかその人形が、大好きになっていた。この人形が本当の人間だったら、と思わず願ってしまうほどに……。
しっかり立っているつもりだったが、脚から力が抜けていたらしい。気づくとミノリは冷たいアスファルトの地面に座り込んでいた。ホルへが慌てて手を貸す。
「ミノリ姉ちゃん、大丈夫?」
「あ、ありがとう……」
ミノリはのろのろと立ち上がる。嫌というほど見慣れたはずの悲喜街の灰色の景色が、知らない街のように見えた。そうだ、と思った。ホルへをここにはいさせられない。ミノリは気力をかきあつめて、言葉をはなった。
「ホルへ、家に帰ってなさい」
「えー、だって……」
「いいから、帰りなさい!」
ミノリの声にただならぬものを感じたのだろう、ホルへはミノリとアンヘルを交互に見て、とぼとぼと路地の奥に戻っていった。代わってミノリのもとに来たのは、トニオ爺さんだった。
「……トニオ爺さん……」
爺さんは黙って、ミノリを抱き寄せる。そのまま、しばらくの間、誰も口をきかなかった。客足が途絶えていたのが、今はむしろ幸いだった。
やがて、苦しげにトニオ爺さんが言った。
「……本当、なのか」
アンヘルは、少し戸惑った顔をしてから、くしゃりと微笑んだ。
「ああ、バレちゃったなあ」
「本当なんだな」
「本当だよ」
「……なんで……」
ミノリがようやくふたりの間に入った。続きを聞きたい思いと、聞きたくない気持ちが入り乱れて、心臓が飛び出しそうだった。
「なんで、ここにいるの……カタリーナと一緒に埋められた人形のあんたが」
「さあ、わからない」
「わからないってことはないでしょ! どうして人間の姿でここにいるのよ!」
「……本当に、わからないんだ」
アンヘルは困ったように首を降る。金髪がさらりと揺れた。
「カタリーナはぼくを愛してくれたし、ぼくもカタリーナをとても大事に思ってた。だから、彼女が死んでしまったとき、一緒に埋めてもらえて嬉しかったよ。このまま土に還ろうと思ってた。……なのに」
「……なのに……?」
「誰かが、ぼくを呼んでいる気がしたんだ」
ミノリはドキッとした。密かに大好きだったオルゴール人形。どこも壊れたり傷んだりしていないのに、カタリーナに付き添う格好で埋められてしまった人形……。どうしても諦めきれなくて、毎日のようにミノリは人形を思い出した。カタリーナの墓から掘り出してしまおうかと思ったことさえある。結局勇気がなくて果たせなかったけれど、想いが消えることはなかった。どんな形でもいい、帰ってきて、と祈った。
「しかもカタリーナと違って、ぼくは朽ちなかった。土の中で、ひとりで過ごす時間はとてつもなく長く感じられた……。そのうえ、ぼくを呼ぶ気配は続いてた。不思議でしょう? ただの人形のぼくが、なぜそんなふうに感じたのか……」
ミノリはかぶりを振った。カタリーナが言っていたことを思い出していた。
「すごいのよ、アンヘルは。いつも、あたしが聴きたい曲を歌ってくれるの。どうしてわかるのかしら、まるで心があるみたい」
「そうしてしばらく経ったある日、ぼくは、自分の異変に気がついた」
アンヘルの声が続いているのに気づき、ミノリは急いで彼に視線を戻す。

(つづく)
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