東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

我家の裏山は桜並木が満開、「瀬戸の郷」の移り変わり

2020年04月10日 | 樹木,果樹

 あちこちの公園の桜が満開ですが、我家の裏山の尾根に沿う桜並木も満開です。去年、どなたかが裏山の反対側斜面の竹林をきれいに伐採しました。そのため、桜並木の向こう側の青空が透けて見えるようになりました。そのため、桜の花と青空がとてもきれいに映えています。裏山の尾根にシートを広げて、桜並木を見上げながら酒盛りができるのではないかと思います。

         青空に映える裏山尾根の桜並木


 裏山尾根の桜並木の下を歩いてみました。裏側反対側斜面の竹林がきれいに伐採されているため、斜面下の「瀬戸の郷」団地がよく見下ろせます。この景色は、「瀬戸の郷」団地が開発されつつある頃に見下ろした記憶があります。その後、竹林が茂って見えなくなっていました。久しぶりに見た光景です。

  桜の花びら       天高く桜の古木     うねる桜の古木
  

 「瀬戸の郷」団地ができたのは30年位前の1990年代でしょうか。もともとは田んぼだった場所が埋め立てられて、「瀬戸の郷」の広告塔が立ちました。通天閣のような派手な塔でした。その団地ができる少し前、高塔地区から八海地区の国道188号線に抜ける道路が開通していました。この開通と連動して開発された団地ではないかと思います。

 2001/12/31の裏山尾根(桜まだ低い)  同日、裏山尾根から見た「瀬戸の郷」
 

 そもそも、この高塔地区は戦時中は太刀洗飛行場の集積所でした。当時はまだ高塔地区の名前はありませんでした。そのため、「瀬戸の郷」団地は、集積所が解放されて高塔地区になってから開発されました。私が子供の頃、団地の場所はは田んぼが広がっており田んぼの中央に小山がありました。いつも湿った田んぼで、冬には凍った田んぼの上でスケートまがいの遊びをしていました。

       「瀬戸の郷」昭和43年(1968.6.20)


 高塔地区は麻郷にありますが、私が子供の頃はいわば麻郷の周辺地でした。そして、とても不便な地域でした。平生町や柳井市に行こうとすると、高塔山の暗い峠を越えなければなりませんでした。

 「瀬戸の郷」昭和56年(1981.10.4)      同 平成2年(1990.5.1)
 

 国木田独歩の紀行文「帰去来」に、この高塔山のことが書かれています。国木田独歩も、高塔山の暗い峠を越えて仮寓していた吉見家に帰省していたのです。

    同 平成7年(1995.5,8)        同 平成10年(1998.4.26)
 

 高塔地区は今、田布施町の自治会で最も世帯数が多い地区になっています。その理由の一つは、高塔山を切り崩して峠を道路にしたことだと思います。ダイレクトに国道188号線に出られるようになり、交通の便利が良い通勤圏となったことです。私が高塔地区を去った時、40世帯もなく班も四つしかありませんでした。ところが今や、200世帯を超えて班も14あります。40年ぶりに高塔に帰ってきた私にとって浦島太郎の気持ちでした。今だに名前を知らない高塔の住人がいるほどなのです。

      平成20年(2008.5.6)の高塔地区「瀬戸の郷」周辺

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする