東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

快適だった、真夏の田布施町石城山ウォーキング

2013年07月23日 | 歴史探訪他ウォーキング



 21日、真夏の田布施町石城山(山頂は光市)をウォーキングしてきました。お正月6月にほぼ同じコースを下見をしました。当初は、田布施町の交流館から歩いて登る予定でした。しかしこの猛暑、交流館と石城山を往復するのは過酷です。このため、いったん交流館に集合して車で石城山駐車場まで行きました。そして、石城山山頂を取りまく古代朝鮮式山城遺跡(神護石)に沿って、石城山をぐるりと一周するウォーキングをしました。

             スタート前石城山駐車場にて、薄曇りで涼しい風が快適


 猛暑でとても暑いかと思っていたら、高度が300m位あり元々涼しいこと,薄曇りで日差しが弱いこと,そして快適な風が吹いていることなど、思っていたよりも快適にウォーキングできました。最初、神社(14社)巡りからスタートです。日本神社から柳井方面を眺めたり、葦原神社で鯉に餌を少しあげたり、石城山神社からの眺めを楽しみながら歩きました。

    水に浮かぶ葦原神社で鯉に餌を           眺めが良い石城山神社
 

 石城山神社から戻るとき、神田やその傍の船石を見ました。その後、少しばかり歩いて石城山最高峰(362m)の山頂に着きました。そして、気持ち良い風が吹く山頂の木陰で、各人好きな場所にシートを広げました。そして、わいわい談笑しながら昼食休憩にしました。

      神田と船石を見学               展望の良い石城山山頂に到着
 

 その山頂の東側は開けており、柳井市の余田,新庄,柳井市街,発電所,柳井湾,大島などが見渡せました。少し北側に視線を移すと、小行司や塩田の段々畑や田んぼなどが山間に見えました。それらの景色を見下ろしながらの楽しい昼食休憩です。12時半頃、ウォーキングを再開しました。

                           石城山山頂(362m)の開けた東側、柳井方面を眼下に


               山頂での楽しい昼食休憩後、みんなそろって


 昼食後は、古代朝鮮式山城遺跡(神籠石)を巡りながらのウォーキングです。石城山の山頂をしばらく下るとT字路に出ました。左に行くと古代朝鮮式山城遺跡巡りです。最初は東大門に行きました。
 東大門の山城遺跡の石積みをよく観察すると、古代朝鮮式石積みの工法がとても良く分かります。今の韓国に残っている古代朝鮮の山城の石積みそっくりです。この石城山は、古代朝鮮からの渡来人の影響があるのではないでしょうか。

    東大門がある古代朝鮮式山城遺跡            北門に下る長い下り坂
 

 東大門を見学すると、今度は北大門に向かって歩きました。古代山城遺跡に沿うアップダウンのある散策道は、昔に比べてよく整備されています。北大門に着く前に、北門遺跡に立ち寄りました。ここには沓石と呼ばれる大きな石が二個転がっています。明らかに人が加工した、大きな門柱の土台にしたと思われる巨岩がありました。古代ここにはどんな門柱が建っていたのでしょうか。
 この古代の山城は、日本書紀などの古文書にいっさい記述が出てきません。いつ、だれが、何のために、どう利用したのかなどが分かりません。私の想像なのですが、これだけの規模の山城を作るとなれば朝廷と関わりが無いはずはないと思います。白村江での敗戦後、日本を防御するため急遽作られた山城だったのかも知れません。その後、唐と新羅の内紛があり、大陸から攻め込まれる危険性が少なくなったため放棄されたのかも知れません。古代の謎です。石垣の一つにでも文字が刻んであれば良かったのになあ、などと残念に思います。

       東大門に比べてやや雑に積まれたようにみえる北大門石垣、数か所が崩壊


 古代の日本においては、朝鮮などから渡来してきた人がたくさんいたようです。その頃大和朝廷はありましたが、まだ「日本」と言う確固たる中央集権の国家形態がまだ形成されていなかったように思います。実際九州で磐井の乱がおきています。この当時、志ある人などは大陸から自由に雄飛して来れたのではないでしょうか。ヨーロッパの志ある人々が、自由や希望を求めて新天地アメリカに移住した状況に似ていたのではないかと思います。

       北水門の石垣下を歩く              北水門西端の高台で休憩
 

 今のような技術が無い時代、すべてが人力だったと思います。首長と技術者の下で、この山城遺跡を作ったのでしょう。古代の田布施には、これだけの山城を作る労働力や技術者集団があり、王国か部族連合のようなものがあったように思われます。実際、国森古墳をはじめとするたくさんの古墳が集中して残っていますので。

      西水門で立ち止まって休憩         神護寺跡、第二奇兵隊本陣跡近く
 

 西水門を過ぎると、かつて屋根つき休憩所があった広場に着きました。ここで、木々の間から光市方面を見下ろしました。ここは古代において、周防灘からやってくる古代船が見えたはずです。古代地中海においてアテネなど、ほとんどの有力都市国家は海に面していました。船による交易が都市文化を栄えさせていました。古代日本も同様に、海に面する拠点が栄えたはずです。古代において湾だった今の田布施は、古代朝鮮,九州,瀬戸内海,そして近畿を結ぶ、重要な拠点の一つだったのではないでしょうか。これだけ大規模な古代山城跡です。古代に栄えたこの地域は何らかの名で呼ばれていたはずです。その名がどこかにひっそりと今の地域名(例えば、周防,束荷など)として残っているのではないかと思います。
 ※田布施の語源には、今のところ三つ説があるようです。田伏,田布の瀬,そして田のお布施です。地名の不思議の一つです。古代の地形や人々の営みに何か関連があるのでしょう。

           神護寺跡と第二奇兵隊本陣跡を見た後、石城神社を参拝


 西水門近くの広場からしばらく歩くと、神護寺跡,第二奇兵隊本陣跡がありました。これらの遺跡を前にして、明治維新直後の神護寺の行く末,そして第二奇兵隊の脱走事件や反乱事件を思わずにはいられません。明治維新を見ることなく散っていった志士達は、どんな気持ちでこの石城山を駆け回っていたのでしょうか。ある志士の「維新後の日本を見てみたかった」と悔やんでいる辞世の句を思い出します。
 一年ほど前から、田布施町や平生町周辺をウォーキングしていますが、この地域は明治維新に関わるたくさんの史跡や口伝えが多いことに気がつきます。私自身も祖母から維新前後の話を口伝えに聞いています。

   石城神社、どんな願をかけたのかな?     この門を出ると目の前は駐車場
 

 下見の時は、三角点や電波塔などに行きましたが、今回は歩きやすいルートを順当に歩きました。GPS上で、歩いた距離は3.2kmでした。アップダウンのある山道でしたが、日差しが強くなく適度に風が吹く歩きやすい散策道が続きました。ウォーキングに参加された方々、お疲れ様でした。

 ところで今回参加された方々にはお知らせしましたが、8月のウォーキングは、お盆や猛暑もありスキップします。9月にウォーキングを再開致します。

     今回ウォーキングした石城山山頂を巡るルート ※田布施町交流館~石城山駐車場は車で移動

==========健康ウォーキングクラブ==========

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