岩波コラム

精神科医によるコラムです

主人公たちのカルテ2 『ライ麦畑でつかまえて』 (サリンジャー)

2018-05-24 08:11:17 | 日記
 サリンジャーの作品の登場人物については、以前にこのコラムで、グラース・サガ(グラース家の物語)の主人公であるシーモアが統合失調症的な心性を持っていることと、作者自身にも同様の傾向があることを指摘したことがある。

 一方同じ作者による、この世界的なベストセラーについてはどうであろうか。この小説は、成績不良のため退学が決まっている16歳の少年ホールデン・コールフィールドを主人公とし、彼が学校の寮を衝動的に飛び出してからの数日間を描いた作品である。シーモアとは異なり、ホールデンには統合失調症的な特性はみられない。

 ホールデンの特徴として目立つ点は、第一に世の中の通常の決まりごとに対して否定的であることだ。この点については「大人の世界への反抗」とみなされることもあるが、彼の場合はむしろ「押し付け」に対する感情的な反応であり、ホールデンの気分は変わりやすく極端から極端に揺れ動くことが多い。

 さらにホールデンの思考は、まとまらず別の方向に散乱しやすい。歴史教師のスペンサー先生に別れの挨拶に行ったとき、成績の話をしながら彼が考えていたのは、自宅近くのセントラルパークのこと、冬になると池の家鴨たちはどこにいくのかということだった。

 また彼には衝動的な側面もあった。弟のアリーが白血病で早世したときには、拳でガレージの窓をすべてぶちこわしたために、精神分析を受けさせられそうになったという。その上ホールデンはいつも何かをしていないと落ち着かない。学校での最後の夜、彼は髭剃りをしている同室者の横で蛇口のせんをひねって水を出したり止めたりしながら、他愛のないおしゃべりを続けていたが、突然意味もなくタップダンスを始めたのだ。

 その後、「あまりに寂しくてやりきれないから」と衝動的に寮を飛び出したホールデンは、突然の思いつきで、ガールフレンドのサリーに田舎に行って結婚し一緒に暮らすことを提案したがあっさりと拒否されてしまう。

 このように見てみるとホールデンの行動は、彼の衝動的、多動的な心性と関連していると思われ、ADHD的な特性を持っているのは確かなようだ。

主人公たちのカルテ2 「煙が土か食い物」(舞城王太郎)

2018-05-17 08:40:16 | 日記

 奈津川四郎は米国サンディエゴのERに勤務する優秀な外科医。物語は病院で四郎が不眠不休で患者の治療にあたっている場面から始まる。何日も続けてろくに睡眠も休息もとっていないけれども、四郎のリズムは軽快で何の悲愴さもなく過活動的な雰囲気が濃厚だ。「チャッチャッチャ一丁あがり。チャッチャッチャもう一丁」

 四郎は外科医の仕事にはまっている。とはいっても人助けに喜びを感じているからというわけではない。四郎はただ忙しく働いて手を動かしながら歩き回ったり走り回ったりするのが好きなのだけで、暴力への志向をいつも持て余している。「俺は寝台の上の血塗れの男を切って切って切り開いて切り散らかして最後に縫い合わせて元通りの形に直してやる。……俺は神だ」

 福井県の故郷で暮らす母親が連続殴打事件の被害者となったという知らせを聞き、手術衣の上にジャケットをひっかけた四郎は、おっとり刀で日本に向かった。故郷で彼は、奈津川家の壮絶な過去と向き合うこととなる。

 四郎の兄の二郎には、四郎よりもさらにADHDの特徴が濃厚だった。子供時代、二郎は兄弟の中でもっとも落ち着きがなくそそっかしいミスを繰り返した。二郎は父親の折檻の対象となり、何度も三角形の蔵の中に放り込まれた。

 学校でもいじめの対象だった二郎はある時期に豹変し、徹底的な暴力によって激しい報復を行った。ある少年の耳にはカメムシが詰め込まれ、別の子供はボルトとナットを口に入れたまま殴られた。やがて二郎は上級生にも手を出し、毎日のように金を盗んで他人に怪我をさせるようになり、残虐性はエスカレートしていった。

 一方で二郎にはかなりの集中力があり、映像記憶の能力もあった。見たものを一瞬で記憶できるため、教科書を一冊暗記することも難しくなかった。

 ADHDがベースにあり、重大な他害行為や衝動的な行動を進展させていくケースはDBDマーチ(破壊的行動へのマーチ)と呼ばれている。奈津川二郎はこのDBDマーチに相当しているが、実際の臨床例と同様に、適切なサポートがあれば、小説の中のように忽然と姿を消すようなことはなく、家族と和解することもできたかもしれない。