岩波コラム

精神科医によるコラムです

「代田橋のベケット」

2009-12-25 16:30:10 | 日記
このコラムは2008年4月14日に東京新聞「放射線」に掲載されました。

 幾分曖昧な記憶によれば、1980年代前半のことである。場所は京王線の代田橋だった。新宿から電車で十分ほどの距離であるのに、駅前に水道局の大きな敷地があるためか、どこか打ち捨てられたような街並が続いていた。
その小劇場は、倒産した町工場の建物をそのまま使っていたのである。季節は真冬だった。場内にはいくつかストーブが置いてあったが、空気は冷え切っていて、粗末な長椅子に腰掛けた二十名ほどの観客は寒さで震えていた。
 俳優の豊川潤氏らが出演した二時間あまりの芝居は、素晴らしいできだった。サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を潤色した不条理劇である。ベケットのこの作品は、神を暗示するゴドーを待ち続ける二人の老人が主人公だが、キリスト教には縁の薄い日本でも人気が高い。
 十年あまり後ロンドンに滞在中、ウェストエンドの劇場でいくつかの舞台を見る機会があった。こうした演劇は豪華な演出で役者陣も魅力的だったことは言うまでもない。しかし芝居そのものの魅力という点では、代田橋のベケットや十条の映画館を劇場にした斜光社の解散公演は、決して劣ってはいなかった。
 英国では俳優が職業として認知され、失業保険も長く給付されるという。これによって演劇を目指す若者はオフウェストエンドなどの小劇場で腕を磨く余裕も持てた。当時の英国は不況のどん底にあったが、こうした助成はやめなかった。文化を育てるという点からは、見習うべきなのかもしれない。

「メンターリング」

2009-12-14 18:21:55 | 日記
このコラムは2008年4月7日に東京新聞「放射線」に掲載されました。

 病気というものは万国共通のものだ。しかし広く精神現象を扱う精神医学では、国民性のような要因が重要な役割を持つ場合もみられる。例えば失業率は必ずしも高くないのに、日本の自殺率は先進国の中で際立って高い。さらに学校におけるいじめや不登校、広い世代にわたる社会的引きこもりの増加も、日本に独特な現象である。
 このような状況を生む日本とは、どういう国なのか。日本人論の先駆である『菊と刀』は、日本人は集団に依存的で自己の内面に倫理的基準を持っていないと論じた。最近の社会学でも、日本社会は相互拘束の人間関係が強く、閉じた集団では強い「安心」が得られる一方、外部に対する不信感が大きいことを指摘している。つまり日本人には、辛い状況にある人が目の前にいても、その人が集団の外部の存在なら、救いの手を差し伸べようとしない傾向があると言うのである。そういう観点で見直すと、自殺の既遂者や引きこもりをする人たちは、既成の社会的集団から阻害され、ドロップアウトしていることが多い。
 では行政が主導して状況を変えるべきかというと、それは良策ではない。むしろ林壮一氏が著書で紹介したアメリカの「ユース・メンターリング」のような制度ができないものかと思う。これは一世紀の歴史を持ち、ボランティアの大人が何らかの問題を抱える未成年の子供と一対一の時間を共有し、歳の離れた友人として子供と向き合うものだ。全米で数十万の人々が、週一日子供たちのビッグブラザー、ビッグシスターとして過ごしているのだという。

「フロイトの呪縛」

2009-12-08 11:23:34 | 日記
このコラムは2008年3月31日に東京新聞「放射線」に掲載されました。

 オーストリアの医師ジクムント・フロイトは、精神分析の創始者として高名である。意外に感じる人も多いだろうが、フロイトの学説は、医学におけるものより、人文科学に対する影響がはるかに大きい。
 第二次大戦後の一時期、アメリカではナチズムに追われた分析家たちによって、神経症などの治療法として精神分析が流行した。しかし1950年代後半から精神疾患に対する治療薬(向精神薬)が開発されると、この現象は終焉した。薬物の有効性は明らかだったのに対し、精神分析の効果ははっきりせず客観的なデータを出すこともできなかったからである。
 科学的には否定されているにもかかわらず、哲学や文芸批評などの分野において、フロイトの概念は依然として威光を保っている。フロイトの説が、当前の前提のように語られていることも多い。進歩したはずの脳科学が未だに人の情念や思索のメカニズムについてほとんど語る言葉を持たないのに対し、精神分析は「人の心」を一見明快に説明している印象がある。さらにフトイトはすぐれたコピーライターでもあった。スーパーエゴ(超自我)、イド、エディプス・コンプレックスなど、フロイトの用いた多数の用語は、印象的でキャッチーだった。
 古来より人間は、自分たちが何ものであるか答を求めてきた。その答が得られない状態は不安であり、宗教に救いを求めることも多い。一見科学的な「心の理論」を持つ精神分析が、多くの人々に誤った安心感を与えたことは頷ける。しかし現実が不確かなものであろうと、何かにすがらずその不確かさを認める勇気が必要だと思う。