岩波コラム

精神科医によるコラムです

主人公たちのカルテ2 「火星のタイムスリップ」

2018-06-10 22:41:31 | 日記
 米国のSF作家、F・K・ディックの代表作の一つであるこの小説が執筆されたのは、1964年のことである。自閉症の少年が主要な登場人物となっているこの作品において、当時の精神科の学説に従って、ディックは自閉症を子供に生じた精神分裂病(統合失調症)として描写した。こうした見解は現在では否定されているが、ディックの筆致は鋭く、彼の描く自閉症の世界が事実であるかのようにも思える。
 
 この奇怪なSF小説の舞台は、近未来の火星である。火星で唯一の健康食品製造業者であり密輸業も行っているスタイナーの息子のマンフレッドは自閉症のため、施設に入所していた。スタイナーは、マンフレッドの病気は母親の育て方に問題があったと信じていた。スタイナーは、「…子守り歌をうたうことも、いっしょに笑いあうこともなかったし、実際に子供と言葉を交わそうとはしなかった」と妻を非難した。自閉症の原因は養育の仕方によるというのは誤った考え方であるが、以前の時代には信じられていた。
 
 小説の主人公であるジャック・ボーレンは、スタイナーの隣人で、雇われ技術者である。ジャックは、「・・・自閉症は、多くの大人がかかる精神分裂病が幼児に現れたものだ」と考え、精神分裂病にかかるのは「社会によって植えつけられた衝動に耐えていくことができない人間ということ」と確信していた。
 
 ディックがこの小説を書いた時代、統合失調症や自閉症の心因論が優勢であった。ただディックが描く精神疾患の内面の世界は、実際のそれよりもさらに重く病的である。自閉症児マンフレッドの見る世界は、次のように描写されている。

 「ガビッシュ!骨のように白いぬめぬめしたひだでできた一匹の虫がのたくっている。…ガビッシュは、女におおいかぶさると、けだるい爛熟の美がたちまち消える。…女は咳き込んで、たくさんのごみを彼の顔に吐きかける」
 
 ジャックはマンフレッドの心の中を探ろうとし、その心的風景に打ちのめされる。彼の感じていたものは、死の風景、あらゆる生あるものが崩壊していく過程なのだった。