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やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ459 能登の春

2024年03月17日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第459回。令和6年3月17日、日曜日。

11日朝7時に寺を出て、富山県高岡のお寺に寄って刺身を仕入れて輪島市門前町へ。
途中の道があちこちで崩れ、仮のう回路が作られていました。
シャンティの支援拠点になっている禅の里交流館に着いたのは夕方6時前。途中休憩や昼食を摂りはしましたが、約11時間かかったことになります。
町に入ると、報道で見た通りで、住宅がずいぶん被害に遭っています。
「門前町」という名前は、明治時代までここに大本山総持寺があったことが由来で、明治31年の火災の後、44年に横浜に移転しましたが、その跡地に伽藍が復興され「総持寺祖院」と呼ばれるようになったのです。
その伽藍が、17年前の地震でやはり大きな被害に遭い、巨費を投じて数年前に復興が終わったばかりでした。
北陸新幹線が福井県まで延伸され、その観光客の増加もを見込んで、この門前町も「禅の里」として受け入れの準備を進め、期待を膨らませていた矢先でした。
その中心である祖院も、門前の町も再び大きな被害に見舞われてしまいました。
祖院に挨拶に訪ねた時、ちょうど責任者である監院老師がいらして、山内をくまなく案内してくださいました。
回廊のほぼ全てが傾き、崩れ、お堂のほとんどが痛んで、屋根瓦が落ち雨漏りがしています。
それでも、前回の地震の後、諸堂の地盤から耐震工事を施していたのでこれで済んだのだということでした。
何せ、海岸が4mも隆起したのですから、地殻から大きく動いたわけで、薄皮のような地表に立脚している人間の建物などひとたまりもないはずです。
地元の皆さんが言うには、地面が時計回りに揺れたんだとか。
それを証明するかのように、境内の句碑が、倒れずに180度回れ右して裏向きになっていました。
小雨降る境内を眺めながら、監院老師がポツリとつぶやきました。
「伽藍がどんなに壊れても、梅は季節通りに咲くのだね」。
早朝、門前の通りを歩いていると、鶯の声が聞こえました。
季節が廻り梅が咲けば、瓦礫の山にも鶯は鳴くのでした。

 無常なり瓦礫の山にホーホケキョ (義)

私がこれまで見た震災被災地の中で、揺れの大きさは一番かもしれません。
里全体が崩れているという印象でした。
道路のあちこちが崩れ、住宅のほとんどの屋根瓦が落ち、傾き、倒壊しています。
建物の調査で「全壊」「半壊」「一部損壊」の診断がされますが、「危険」の赤紙と「要注意」の黄紙が張られている家がほとんどです。
それでも、家を離れられない住民は、片付けながら住み続けたり、避難所から通ってきたり、ビニールハウスなどに自主避難したりしています。
避難所には炊き出しがありますが、曹洞宗の若い僧侶が各地から駆け付け活躍していました。
自主避難している住民にまとめて調理して配食するグループもあって、200食の調理の手伝いをさせていただきました。
唯一の道であるトンネルが崩落して10日以上孤立状態にあった七浦(しつら)地区にも訪ねました。
元々、海岸線上に点在する集落で、トンネルも10年前ぐらいにできたばかり。それまでは船で移動するか山道を歩くかだった集落でした。
外からの支援が来るまでみんなで助け合って生きてきました。とても共生意識が強く、災害に強いのはこういう集落だなと思いました。

祖院門前の興禅寺さんにお邪魔してお話を伺いました。
前の震災で本堂が全壊し、耐震で新築していたため今回はほぼ無傷でした。
住職市堀玉宗師は俳句をやられる方です。
金子兜太さんに師事し、黛まどかさんとも交流があるようです。
震災後もたくさんの句を詠まれています。
その中からいくつか

能登寒暮山河破れてしまひけり 玉宗
朝市の焼け跡に鳴く寒鴉
人類の涙涸れよと星凍つる

15日10時間かけて帰ってきました。
被害の状況は現場に入らないと見えてきません。その場の人の話を聞かないと生の被災は分かりません。
寄り添うとは、言葉通り、肌で体温を感じられる距離に身を置くということでしょう。
人間が柔らかな皮膚しか持たない理由は人の痛みを感じるためだと、中島みゆきが言うように、全ての人は人の痛みを感じられる能力を持っているはず。
鶯鳴けども、能登の春はまだまだ先のようです。
あたたかい支援が必要です。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


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