なあむ

やどかり和尚の考えたこと

父の血

2013年01月13日 22時41分25秒 | 師匠の遷化

幼くして父親を亡くした父の幼少期は、筆舌に尽くしがたい苦労の中にあったと聞いています。

貧しさはもちろんのこと、その故のみじめさ、残酷さは、その時代の必然とは言え、他人には計り知れないものがあったのでしょう。

その後、まさに仏縁によって寺の住職となり、後半生は人並みの穏やかな日暮らしができたものと思います。

しかし、子どもの頃の体験がそうさせたものでしょうか、高学歴や裕福な相手に対しては、卑屈なぐらいに低姿勢になる父の姿がありました。

反面、貧しい暮らしの家に行くと、気を許してその場にいるように子どもの目には映りました。

30歳から39年間民生児童委員を務められたのも、単に暇だからというわけではなく、貧しさや困難な生活の人の苦しみが我が事として感じられたからではなかったかと思われます。

そんなことを今ひるがえって考えてみて、自分がボランティアなどの関係に身を置いているのは、実は父のDNDから来るものかと思われたことでした。

あれほど嫌いな父でしたが、その血が自分の体の中に間違いなく流れているのだと感じられます。

今では嫌いであったことすら忘れてしまいそうです。

父が亡くなって、今更になっていろんな事が考えられます。

生きていた頃よりも、死んでからの方がずっと素直に父のことが受けとめられます。


茶盆

2012年12月19日 19時45分19秒 | 師匠の遷化

父が、亡くなるどれくらい前のことだったろうか。

もう既に言葉は失っていたものの、ゆっくりと歩くことはでき、毎食海苔巻きにしたご飯を右手に握って食べていた頃だと思う。

母親が出かけていて、寺でのお勤めが一件入っていた。

読経が終わり、茶の間でお茶を出して、帰るのを玄関で見送って茶の間に戻ると、父が飲み終わった湯飲みを茶盆に載せようとしていた。

おそらく、母親はいないし、息子一人で大変だろうから、何かできることを手伝おうかと思ったのだろう、と思った。

だから、たどたどしく、危なっかしく、心配だったけど、「ありがとね、手伝ってくれるの、水屋に持っていくだけでいいからね」と言って、手を出さずに任せることにした。

着替えをしていると、水屋から「ガチャン」と大きな音がした。

「あー、やっちゃった」と思って行ってみると、父の足下は砕け散った湯飲みのかけらとお茶でビチャビチャになっていた。

その時の父の顔が忘れられない。

空になった茶盆を手に持ったまま、泣きそうな顔、いや、泣いていた。

涙を流してはいなかったが、心の中では間違いなく泣いていたのだろう。

あんな悲しそうな父の顔を見たことはなかった。

「何の役にも立てない」

そんな自分が、歯がゆくて、惨めで、情けなく、悔しかった。

ダラリと斜めになった茶盆が父の気持ちを表わしているようで忘れられない。

茶盆を受け取り、足下を拭くと、父はとぼとぼと水屋を出て行った。

片付けを終えて行ってみると、父はベッドに潜り込んで丸い背中を見せていた。

人間が自尊心を失う時、その瞬間に立ち会ったのかも知れない、と今思う。

人間は悲しい生きものだ。老いるということは苦しみに違いない。

その悲しみは、残念ながら若い者に実感することはできない。

でも誰でもいつかは実感することになる。

誰かの役に立てる内、役に立っておかないと。悔しくなるんじゃないかな。


師匠の1周忌と写真集

2010年11月01日 21時59分55秒 | 師匠の遷化

昨日、師匠の1周忌法要も無事に終わり、怒濤の10月を何とか過ごしました。
永平寺から他出してきた息子をはじめ、娘や甥姪たちも全員顔をそろえ、師父に対する申し開きもできたと思います。こういう時でないと家族全員が集まることも困難になってきました。改めて法事の意義、効用のようなものを感じています。
家族のつながりの希薄化、無縁社会が叫ばれる昨今、だからこそ、もっと法事を利用すべきではないかと思います。
住職の法事は大変です。寺のつきあいもありますから、寺院僧侶が20名、総代や親戚を合わせると総勢60名あまり、方方の支払いも済ませ一段落です。

そうそう、法事の前日荷物が届きました。

見覚えのない送り主からの段ボール箱を開けてみると、それは、2年前にアフガニスタンで亡くなったペシャワール会の現地スタッフ伊藤和也さんのご両親からのものでした。

無事に3回忌を済ませましたというお手紙と、和也さんが撮ったアフガニスタンの子どもたちの写真集と著書でした。

その写真集の写真がとてもきれいなのです。こんな暖かい笑顔を見せるのは、子どもたちが和也さんを心から信頼していた証拠でしょう。心が和みます。機会があれば是非ご覧下さい。

こんな子どもたちの上に爆弾を落としてはなりません。飢えさせてはなりません。

和也さんのご冥福を祈ります。


言語と思い

2010年04月19日 18時05分58秒 | 師匠の遷化

今日法事のお経を読んでいて、唐突に一つの妄想が浮かんできました。

「あっ!」と言ったきり、突然に言語を失ってしまったらどうなるだろう。

お経も読めなくなるから仕事ができなくなる、話もできない。家族との会話もできない。言語そのものを失った場合は、字も書けなくなるのではないだろうか。

パソコンで文字を打つこともできない。筆談もできない。字を読むこともできなくなるだろうか。

そうなってしまったら、いったい周囲の人々とどうやってコミュニケーションをとるのだろうか。自分が伝えたいこと、してもらいたいこと、胸の中に湧き上がってくるとめどない「思い」はどのように処理すればいいのだろうか。胸が張り裂けそうな焦りと、頭が爆発するような苛立ちで、気が狂いそうになるのではないだろうか。

精神安定剤を処方されて、ドンヨリした意識で、欲求さえも抑え込まれてしまうのでしょうか。

そう考えると、人間が言語をもっているということはすごいことなんだなと考えさせられました。

実は、今思えば、父親の症状がそのようなことだったのだと思います。

父親の場合は、パーキンソン症候群の症状で、次第に言語が失われていったのですが、当初、字は読めるのだろうと思い、50音表を作ってそれを指さすように提案してみましたが、結局一度も使うことはありませんでした。おそらく読むことさえできなかったのだろうと思います。

何か言いたそうにしている時、こちらから「こうか?、ああか?」と聞いてみて、ぴったり合っていた時のホッとした喜びの表情を思い出してみると、伝えたい思いはたくさんあったのでしょう。

逆に、それが何度も何度も自分の思いと違った時は「バカ!」と起こってしまって席を外していました。「バカだけははっきり言えるんだね」と笑っていましたが、本人はどれほどつらかったのだろうかと思います。

胸にある思いをこうして伝えられることの幸せを思います。


父親の見方

2010年04月15日 17時29分38秒 | 師匠の遷化

近ごろ父親のことが頭に浮かびます。
中学から大学に入る頃までは、父親が嫌いで敵でしかありませんでした。
親元から離れ、成人して、自分が少しずつ大人になっていくにしたがい、父親の弱さやら、悩みやらが少しずつ理解できるようになり、許せるというか、いとおしくも感じられるようになった気がします。
それでも顔を見れば、素直に口がきけるような状態までには至らず、長い時間、距離を置いた関係が続きました。
最近ふと感じるのは、父親という存在を自分との関係において見るのと、父親その人の人生として見るのとの違いについてです。
若いころは、自分にとっての関係でしか父親を見ることができず、性格が合わない、価値観が違う、言い方が気にくわない、などという、うっとうしい存在にしか感じられませんでした。
それが、年齢を重ねる毎に、「義照(幼名千代亀)」という人の人生として父親を見られるようになってきたような気がするのです。
年を経る毎に、前者から後者へ、その割合が多くなっていって、亡くなって、完全に一人の人生として対峙することができるようになったように思います。
今では、嫌いだったという感情すらもどこかへ消え失せてしまって、父親の人生を考えることができます。
本人は自分の人生をどう思っていたのだろう。生まれた価値を自覚できたのだろうか。総合して、幸せな人生だったと感じていたのだろうか。
身近な家族のことも、客観視することで、冷静に立ち向かうことができるように思います。


親の痛みを知れ

2009年11月17日 21時04分33秒 | 師匠の遷化

なかなか本葬の疲れがとれません。もう眠くなったので「雲水道中記」はお休みです。
残務整理というものが結構あるもので、毎日奔走しています。
また今日は歯医者に行ってきました。
01de0b1b4b1e9818 師匠が亡くなる少し前から左の奥歯が痛んで歯科医に行っていたのですが、親知らずの痛みだろうということで、口腔外科で手術の日取りまで決めていました。
外科の先生は、手術をすると、口が開きにくくなる、腫れる、痛む、痺れるなど、症状が出るだろうと言う。右の親知らず歯も同じような状態で痛まないけどどうなるのと聞くと、「痛まなければそのままでいい」という。痛まなければいいならば、左も気合いで痛まないようにしようと我慢してきたら、だんだんおさまってきた。
それで、今日歯科医に行って話したら、親知らずの手前の歯かもしれないということで治療してきたという訳です。手術しなくて良かった。
師匠が亡くなってから本葬の前々日、物を片付けていて左の足の親指に思い物を落としてしまって内出血してしまった。夜中にズキズキ痛み出し、次の日に病院で血を抜いてきた。
親知らずといい、親指といい、この時期に痛むとは、「親の痛みを知れ」という師匠の鉄槌なのだろうと受けとめています。ありがとうございます。


師匠の遷化 3

2009年11月15日 21時16分40秒 | 師匠の遷化

12日、師匠の本葬儀が執り行われました。
真に不思議なことに、当日は本当に良い天気でした。
Dscf0035前日も後日も雨風で、当日だけ、まるで台風の目のように晴れ渡りました。
師匠は、子どもたちや周囲の人々を心配し気にする人でしたから、みんなに苦労をかけたくないという思いでいてくれたことと思います。天気もそれに応えてくれたかのようでした。
11月というのに、本堂のガラス戸を取り外し、外からも参拝することができました。
ご寺院が65名、会葬者が400名ほどあったでしょうか。真にありがたいことでした。
Dscf0085 1週間で本葬の準備をするのは、実に大変なことですが、師匠も、涅槃衣、頂相、遺偈を自ら準備し、お金の面も檀家で生命保険に入っていたりと、早くから用意をしていました。
私も、覚悟はしていましたから、亡くなったら1週間か10日で本葬をしたいと、準備できるところは2ヶ月ほど前から準備を進めてきました。それが師匠の希望だったと思います。
お陰をもちまして、天気にも恵まれ、献身的なお手伝いの方々にも恵まれ、師匠の本葬らしい葬儀ができたのではないかと思います。
関わっていただいた方々、ご縁のあった方々、本当にありがとうございました。合掌


師匠の遷化 2

2009年11月10日 20時58分40秒 | 師匠の遷化

「大和尚さんはお経の読み声がよかったねえ」というのが、師匠に対する多くの檀家の評価でした。それが、私の読経の直後に言われたりすると、比べられているようで自信をなくしてしまいます。
もう何年もお経を読むことはできなくなっていましたので、懐かしい師匠の読経の声を聞きたいとずっと思っていました。
どこかに誰か録音している人はいないものかと、檀家さんに尋ねてもみましたが、みつからず残念ながらあきらめていました。
ところが、師匠が亡くなるちょうど1週間前、引越をする檀家さんの仏壇の心抜きを頼まれてお経を読んだ後に、「前の和尚さんと声が似てきたねえ」とうれしいお言葉。その後に、「前の和尚さんは本当にいい声だったねえ」と。「ほら、またきた」と思っていると、「何年か前に和尚さんに頼んでお経をテープに録音してもらったのよ」と。「え!あるの!」、「ある、ある」と、急きょ引越の荷物を開けてカセットテープを探してくれました。「あったあ!」。
さらにその場で、テープを買ってきてダビングが始まりました。
レコーダーからは、少し力は衰えていましたが、紛れもなく懐かしい師匠の声が流れてきました。
長年探していてようやく手に入った師匠の声を聞いたそのちょうど1週間目に遷化するというのは、不思議な因縁だと感じています。
お陰で、貴重な宝ものが手に入った心境でした。
12日の本葬の時にも、檀家の皆さんに聞いていただいて、師匠を偲んでいただければなと思っています。ますます比較されようとも。


師匠の遷化

2009年11月09日 21時29分08秒 | 師匠の遷化

11月6日、師匠が遷化しました。曹洞宗では、住職の逝去を遷化(せんげ)と言います。
今日は密葬と荼毘(火葬)でした。
会話ができなくなってからは数年経ち、2ヶ月前に入院してからはほとんど眠った状態でしたので、いつかはこの日が来ると覚悟はしていましたが、やはり肉体が消えるというのは寂しいですね。
父は、3歳を前にして父親を亡くしてから、苦労の少年時代を余儀なくされました。
縁あって10歳で寺に入り、住職として50年以上務めてきました。後半生はたくさんの皆様との出会いのお陰で穏やかな人生を送ることができたと思います。
姉と私の姉弟が子どもの頃、生意気なことやわがままなことを言うと、「明日死んでみせる」と言うのが酒を飲んだときの口癖でした。
「お前たちは、親のいない苦しみを知らないからそんなわがままなことを言えるんだ」と言いたかったのだと思います。
言葉に反して、80歳まで生きてくれたことは、子どもにとっては大変ありがたいことでした。そのために、子どもは未だにわがままのままかもしれません。
本葬は初七日に当たる12日に執り行います。
ようやく親を失った人々の寂しさが分かる仲間入りができます。