なあむ

やどかり和尚の考えたこと

大震災16 お金が欲しい

2011年03月31日 09時20分01秒 | 東日本大震災

お金が欲しい、切実な願いです。

遺体搬送の活動がスタートできそうです。

被災地のご遺体は、各自治体の火葬能力をはるかに超えているので、仮埋葬が始まっています。数ヶ月後に掘り起こし、順次火葬するという計画のようです。計算では全ての火葬が終わるまでに2年かかるという自治体もあります。

本埋葬、つまり、完全に土葬というのであれば、昔はどこでも土葬だったわけですし、それが死者に対して失礼にあたる訳ではなく、むしろそのまま自然に帰って安らかに眠るということも言えるわけですが、仮埋葬は、とりあえず土の中に納めて目の前から見えなくするというだけで、後日掘り起こすのですから、ご遺体に対するご遺族の思いは残ると思います。

ご遺族としては、長い間土の下にそのまま眠らせておくのはまことに忍びない、少しでも早く火葬にしたいということで、自分の車で県内外に移送して火葬するケースが増えてきています。

しかし、火葬にしたくとも、霊柩車をたのむお金がない、自分で搬送するにも車がない、という遺族もおり、そんな遺族のために、自分の車を使って搬送してくれる僧侶を募っていました。

趣旨に賛同してくれる若い僧侶が数人、また協力してくれる葬儀屋さんも現れたので、テストもかねて4月9日から実施することになりました。

大槌町から新庄の斎場まで、当面20体を目途として、実施してみたいと思います。

しかし、搬送する車のガソリンと高速料金を合わせると、1台につき1万円ぐらいの費用がかかり、ご遺族を乗せる車と共に、20体を搬送するためには40万円かかると思われます。

そのすべてを、車を提供していただく僧侶が自己負担するのは大変で、活動が続けられなくなると思われます。

また、大槌町から新庄までは約5時間かかり、火葬の後その日の内に戻るのは困難と思われるので、最上町の温泉に一泊してもらうことも検討しています。

そこで、このブログをご覧いただいた方々に資金的な支援をお願いしたいと思います。

既に、各方面の募金活動にご協力いただいているものと思いますが、家を失い、家族を失った方々の心を少しでも安らかにしていただくために、一日でも早くご遺骨をご遺族の元へ届けたいと思います。ご協力いただけたらありがたく思います。

郵便振替口座番号

02220-4-86114 「宗教法人 松林寺」


大震災15 写真その2

2011年03月30日 18時03分51秒 | 東日本大震災

先日の写真をまとめて

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①気仙沼市浦島小学校。津波の後火災が発生し、ほとんどの家屋が焼失。地盤沈下と道路の流失で最近まで孤立していた避難所です。家内の友人もここにいました。

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②浦島小に避難していた女性が「数ヶ月前に総葺き替えしたばかりだ」という見事な茅葺き屋根家屋も無惨な姿に。「気が狂いそうだった」と話していました。

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③津波で陸に打ち上げられ、火災にあった船。気仙沼。

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④自宅に対する思いは強い。陸前高田。

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⑤線路の復旧はできるのか。

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⑥そのまま横転。天地逆転した家屋も。

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⑦気仙沼市街で被災した遠藤さん。生活スペースであった1階部分は海水の浸水で全て使えなくなった。2階で寝たきり状態のご主人と過ごしている。暖房もないのでホッカイロを布団に敷いて寝ている。近所の避難所から夕食をもらってきたところ。二人分のわずかなご飯と味噌汁だけ。それだけでも、避難所の人からは冷たい視線を感じる。

「今日、七輪を見つけて炭を買ってきたの」

「頑張るって言っちゃダメだって言われるけど、頑張るから」

家を全て流されてしまった人と比べるとまだまし、ということは言えます。しかし、今現在ギリギリの状態で生きている人は、かなりの数に上ります。

支援の眼は避難所に集中してしまいますが、その陰で困難な人々もたくさんいるのです。


大震災14 来るなら来てみろ!

2011年03月29日 21時24分27秒 | 東日本大震災

「来るなら来てみろ!」

気仙沼の浜の人間の言葉です。

一昨日の夕方松林寺を立ち、被災地を回り今朝帰ってきました。

遺体火葬の件で現地の人と話をしておきたかったのと、息子が被災地で動いてみたいというので連れて行くことにしました。合わせて、秋田のお寺の息子さんも同行することになり、加えて、家内も気仙沼の友人の顔をどうしても見たいというので、家族総出みたいな、PTA同伴みたいなことになってしまいました。

結果、家内の方は無事友人に会うことができ、また、安否確認を依頼されていた京都の松浦さんのお知り合いとも顔を合わせることができ、ありがたいことでした。

遺体の火葬ですが、大槌町吉里吉里の吉祥寺さんは、やはり、山形へ搬送しての火葬を是非にお願いしたいという強い思いでしたので、何とか実現できるよう動いているところです。

昨日の夜は、これまでお邪魔しながらゆっくりお話しすることもできなかった清涼院さんに泊めてもらい、お世話になりました。

夜半には発電機の電気も止まり、ローソクの灯りでお酒を酌み交わしました。

酒がまわるにつれ、胸の内の思いも発露され、清涼院方丈様も思わず涙をこぼしておられました。

そこで聞いたのが冒頭の言葉です。

津波の時、浜の漁師たちは真っ先に港に向かい、エンジンを掛けて船で沖に出たのだそうです。何が何でも船だけは守りたいという思いからでした。

津波で船が港に打ちつけられてしまえば壊れてしまう。沖に出れば大きな波も乗り越えることができる、長年の教えがあったのでしょう。実際、沖に出た船の9割は助かったということでした。

その代わり家はみんな壊れ、家族を失った人もいたようです。

「家よりも船を守るんですか」と聞くと、「家では金を稼げない、船があればまた稼げる」と。

船1艘には、機械類などを含めて2億から3億かかるのだそうで、家よりも大きな財産であることは間違いありません。

そして、「浜の人間は山では暮らせない、漁師は必ず浜に家を建てる」と。

「津波が来たところにまた住むんですか」と言うと、「こんな津波は1000年に一度だ、津波が怖くて漁師やってられないっちゃ、来るなら来い!ってことださ」。

山の人間とは違う、漁師の血が流れているのを感じました。


大震災13 2回目の現地入り

2011年03月27日 07時29分59秒 | 松林寺

昨日は東京SVAの総会で現地報告でした。100名を超す方々で会場は満員、真剣に耳を傾けてくださいました。多くの皆さんがどれほどこの災害に心を痛め、何をすべきかを考えているという現れだと思います。

昨晩の最終臨時便で山形に戻り、今日は法事2件と松林寺の役員会が終わった後現地に向かう予定です。

21日に永平寺の修行を終えて帰ってきた息子陽堂もしばらく現地に入ることになり同行します。また、私の永平寺修行仲間である秋田の佐々木さんの息子さんも無期限で現地入りすることになり、同行することになりました。

修行道場とは違った、また別の修行の現場になると考えています。

今回は家庭の常備薬程度の医薬品を持ち込むことにしました。多くの皆さんからご協力をいただき沢山の薬が集まりました。家内が、いくつかの箱に配分し、そのまま避難所に置いてこれるようにしてくれました。

もう総力戦です。それぞれが、できる限りの想像力を働かせ、今何が必要なのかを考えていきましょう。またはお尋ね下さい。

うーん、今とりあえず必要なのは、河北町仏教会のご寺院さんからも募金をちょうだいして薬を購入したのですが、若干資金が足りません。ハンドクリームが必要とされているという情報が今入り、購入していこうと思います。ご協力いただけたらありがたいです。


大震災12 ファイト!

2011年03月26日 09時07分32秒 | 東日本大震災

若者よ一歩を踏み出せ!

最初の一歩を踏み出すまでには誰でも躊躇するものです。

自分に何ができるのだろう、かえって迷惑にならないだろうか、周りの人から「ええかっこしい」と思われないだろうか。

人が人として生きていることを実感として感じることができるのは、意外と災害現場であったりするのです。

ひとの喜びを我が喜びとする、ひとの幸せを我が幸せとする。そのような行為ができたとき、人は心から生きている喜びを感じるものだと思います。

せっかくこの世に人間として生まれてきて、生きている喜びを感じられないのはあまりにももったいない。

門戸はいくらでも開かれています。

一歩が踏み出せれば二歩目はいともたやすく出て行くものです。

さあ、一歩を踏み出しましょう!

「闘う君の唄を、闘わない奴等が笑うだろう、諦めという名の鎖を身をよじってほどいてゆく、ファイト!」(中島みゆき「ファイト!」)


大震災11 「慈悲」と「智慧」

2011年03月26日 08時46分33秒 | 東日本大震災

昨日の夜の臨時便で山形空港をたち、今日はSVAの総会で報告をしなければなりません。

震災が起こって以来、早朝に目覚めるとすぐに頭の中が興奮状態になり、眠気も覚めて活動をはじめてしまいます。通常は良く寝るほうですが、ここのところの睡眠時間は極端に短くなっています。

ボランティアなどの活動の原動力、エネルギーは、困難な人々を見て何とかしなければならない、何かお手伝いしたい、という人間としての善意、本能に近いものだと思います。

「ボランティア」の語源は、「ボランタス」自発性であるといわれます。もう一つ「ボルケーノ」火山あるいは噴火であるという説もあります。

何かしないではおられない止むに止まれぬ思い、自らの内部から湧き上がってきた自発的な、自主的な行為、それがボランティアの原点です。

ひとの不幸に心を痛め、ひとの喜びに自らの心が喜ぶ、それが人間というものであり、他の動物との違いもそこにあるでしょう。

その心を仏教では「慈悲」と呼ぶのだと理解しています。

ひとを救おうとする発火点であり、エネルギーです。

しかし、慈悲心だけで行動してしまうと、時には暴走し、かえって相手に迷惑をかけてしまうことにもなりかねません。

そこに必要なのは冷静な判断、「智慧」です。

災害救援のような現場では特に、この慈悲と智慧のバランスがとても大事になってきます。

自分ひとりの中でのバランスが難しければ、慈悲の強い人と智慧の強い人、つまり、熱い心で行動的な人と、冷静な頭で慎重な人との、まさにチームワークを活かすべきです。

もうひとつ大事なことは、行動を起こした人は何も行動しない人を批判する傾向にありますが、それは間違いです。

全員が被災地に向かったならば社会は成り立ちません。被災地はごった返して邪魔で仕方ありません。しっかりと自分の役割を勤める人がいて行動を起こすこともできるのです。平常の役割を果たす人が批判されるいわれはありません。

むしろ、自分の行為が善意の押し売りになっていないか、本当にそれは必要なことなのか、感謝を要求していないか、謙虚に判断することが求められます。

「悪いことをするような思いで善いことをしなさい」というのは、誰だか忘れたお坊さんの言葉ですが、悪いことをしたと思う人は謙虚にもなれるが、善いことをしたと思うと人は謙虚さを失い、傍若無人になりがちだということを戒めたものでしょう。心しなければなりません。

「nobady is light」(中島みゆき)


大震災10 火葬場読経

2011年03月26日 07時58分58秒 | 東日本大震災

25日、石巻からの被災死亡者火葬前の読経へ。

お母さんのご遺体が納まった棺の上に、5歳の男の子の小さな棺が重なって運ばれてきました。

火葬場近くの葬儀社までは親戚の車で運んできたそうです。

やはり津波での被災でした。幼稚園まで車で迎えに行って、そのまま車ごと津波に飲まれたようです。どれほど恐ろしかったことでしょうか。数日後、車の中で遺体で発見されたとのことです。

ご遺族は着の身着のまま、避難所暮らし、傷だらけの長靴が痛々しいです。もう十分泣いたのでしょうか、言葉も少なく、希望のない明日をぼんやり見つめているようでした。

「仮埋葬して後から火葬することになったのですが、石巻の火葬場の能力では、全部を火葬し終わるまでに2年ぐらいはかかるそうで、それまで土の中に埋められるのが忍びなくて、菩提寺の和尚さんに相談したのでした」と力なく話してくれました。

家を失い、町を、仕事を失い、家族も失った、多くの多くの人々が、これからどこに希望の光を見出して生きていくのか、容易なことではありません。

しかし、この国はじまって以来の大災害に、国を挙げて、国民の総力を結集して立ち向かっていかなければなりません。

一時の善意だけではとても立ち向かうことができない困難です。

腹を据えて、腰を据えて、今自分がここに生きているのは、この困難を乗り越えるためなのだ、というほどの覚悟を決めて力を合わせていきましょう。


大震災9 支援のレベルアップ

2011年03月25日 18時20分52秒 | 東日本大震災

被災地の物資は、分配の問題がありまだまだ手薄なところもありながら、全体としては足りてきているように思われます。今から物資を送るのは、現地の要望を聞いてからにしましょう。携帯電話も少しずつつながるようになってきました。

近日中に、細かなニーズ調査と分配が進んでいくことと思われます。もちろん、消耗品などは、継続して供給していく必要があります。

併せて、今後避難者支援のレベルを徐々に上げていくことも検討を始めるべきだと考えます。

例えば、避難所でお酒を飲むなどということは遠慮すべきこと思われるでしょう。しかし、アルコールの力を借りて、胸の痛みを吐露し、涙を流すことによって少しでも気持ちが楽になるのならそれも必要なのではないか、被災者が遠慮して言い出せないことであるなら、受け入れる人々がそのような設定をすることもあっていいのではないか。避難所の一角に、「居酒屋コーナー」などの設置を試みてはどうでしょうか。

また、女性にとってのストレス解消の一つに「買い物」というのがあるでしょう。

所持金も店もない避難所で買い物を楽しむ方法として、例えば、援助物資をショップのように陳列して自分で選んでもらうというのはどうでしょうか。更に言えば、避難所通貨のようなものを発行し、全てが無料でありながら自らが選択して手に入れる仕組みができれば、買い物の喜びが味わえるのではないでしょうか。

要らない物の押しつけにもならないし、他人から物を与えられるという精神的な負担も軽減されるように思われます。

避難生活がいつまで続くのかみえない、長期化することが確実な状況に於いて、避難生活ではありながら通常の精神状態により近づけるための工夫がそろそろ必要になってくるのではないか、と思う次第です。


大震災8 ご遺体の問題

2011年03月23日 22時28分29秒 | 東日本大震災

大津波によって亡くなられたご遺体の扱いについて、色々なことが起こっています。

石巻市では、昨日から1日100体ずつ仮埋葬を始めたそうです。数ヶ月後に掘り起こして火葬にするという計画で、番号と名前を付けて土葬するのだそうです。

火葬場の能力を超えた遺体数と、時間との戦いで苦渋の決断をされたのだと思います。

ところが、遺族によっては、遺体のまま土に埋められることに対する抵抗が非常に強く、何とか火葬してくれる所がないものかという問い合わせが、石巻の住職さんから私のところに寄せられました。

河北町の火葬場では断っているということでしたが、新庄最上の火葬場では、「それは受け入れることになっています」という答えでした。遺族から電話していただくだけで可能という知らせに大変喜んでおられました。25日に火葬が決まり、簡単にお経1巻を読ませていただくことにしました。5歳のお子さんと若いお母さんだと伺っています。

偶然にも、昨日葬儀した最上町の葬儀社で、「明日石巻の方が火葬に来られることになっています」という情報を得ました。私は行けないので新庄市の和尚さんにお願いしたところ、立ち会ってくれたそうです。そうしたら、その他にももう1体石巻からのご遺体もあって、そちらも読経してくださったとのことでした。

150体の遺体がある大槌町では、今日ようやくいくつかの棺が運ばれてきて、身元の分かっているご遺体から納棺が行われたということを大槌の住職に聞きました。残りは未だに毛布やビニールシートにくるまったままだと聞いてやるせない思いになりました。「遺族は二重に被災されている」と住職は訴えていました。ここにも支援の偏りは起こっています。

遺体安置所で読経したいと申し入れたら上司にお伺いを立てるということで断られた和尚さんの話、喜んで読経させていただいた和尚さんの話、どちらの話も伺いました。自治体や施設によっても対応は違うようです。

遺体安置所が難しいならば、亡くなられた現場で花と線香を手向け読経してもいいのではないかと思っています。

とういうことで、どうしても気にかかり、28日何とか時間を割いて行ってみようと思っています。永平寺から帰ってきたばかりの息子も一緒に行くつもりです。


大震災7 西から東へ

2011年03月22日 20時41分15秒 | 東日本大震災

19日に戻ってから葬儀が3件あったりでPCを開く時間もありませんでした。

言いたいこと、書きたいことはたくさんあります。明日は宿用院の大般若会ですし、体力の限度もありますので、言いたいことを全部書くこともできないでいます。

さて、先のレポートに書いたように、今回の被災地は非常に縦長であるため、南から北への支援は南高北低になりがちです。ガソリンの問題もあり、南北公平な支援は難しいと考えています。そこで重要になってくるのは、西から東への横の支援です。山形秋田が頑張る出番です。

物資は被災地まで届いているようですが、電話がほとんど使えないために横の連絡が悪く、物資分配の偏り、支援の偏りもでてきています。

報道されているような大きな避難所だけでなく、地名もあがってこない隠れた被災地への細かなリサーチと支援が早急に必要だと思っています。

大槌町吉里吉里地区では、線路を境に下地区が津波で壊滅し、無事だった上地区の住民が下地区の被災者を自宅で受け入れていました。その数1200名。

避難所ではないので支援物資の配布はありません。地区の寺である吉祥寺さんに150名が避難していて、そこから1200名に物資を分配していると、吉祥寺の若い住職さんは話していました。

そんな箇所が、各地にたくさんあるのだと想像します。

細かなニーズ調査が急務だと感じる所以です。