なあむ

やどかり和尚の考えたこと

賞味期限なんていらない

2008年10月23日 20時47分11秒 | 地球環境

保存可能期間5日を超える加工食品には全て「賞味期限」記載が義務づけられている。

賞味期限を過ぎたものは食べられるのか食べられないのか。

2008年に厚生労働省が出した新聞広告では、「賞味期限はおいしく食べられる期限で、期限を過ぎても食べられなくなるとは限りません」と発表している。

似たような表示に「消費期限」がある。

これは保存期間5日以内の生鮮食品で、こちらは「安心して食べられる期限」で、期限が過ぎると食べられないことになっている。

しかし、皆さんは、「消費期限 ○月○日△時×分」と表示されている弁当が、△時×分までは食べられて、△時×分を過ぎたとたんに食べられなくなると本当にお思いだろうか。

多くの人に聞いてもたいがいは首を横に振る。それでも、多くの人は数字に引っ張られて棄ててしまうことになる。

この「賞味期限」「消費期限」が義務化された歴史は新しい。

それまで一部の食品の「品質保持期限」を除いては、義務化されていた食品の表示は「製造年月日」だった。

それが「賞味期限」に統一されて義務化されたのは1995年、なんとわずか13年前のことだ!

しかも、消費者や生産者の反対を押し切る形で制定された背景には、賞味期限表示が一般的な諸外国(おそらくアメリカが強力だったのだろう)からの外圧があったという事実。曰く「製造年月日の表示は、自由貿易への障害である」と。

つまり、「製造年月日」というスタート時点での競争ではどうしても勝てない輸入食品を、「期限」というゴールに表示を変えることによって勝たせようという意図なのだ。

それでは「製造年月日」しかなかった頃に日本人はどうやって食べられるか食べられないかを判断してきたのか。

それは、猿の時代から引き継いできた判断能力だった。臭いをかぎ、味見してみて食べられるかどうかを判断してきた。それは生きるための大事な能力だ。

それがここ十数年の間で、その能力を失わせてしまう危険があるのが「期限」表示だ。

食べられるかどうかを、そのもの現物を見ないで数字だけを見て判断するようになってしまった。そのいい例(良くはないのだが)が最近起こった冷凍食品の事件だろう。食べる前に、調理をしながらなぜその異常な臭いに危険を感じなかったのか。

日本という国は、食料自給率39%、6割を外国から輸入している。それなのに3割の食品を棄てているというおかしな国だ。

「賞味期限」「消費期限」表示をやめて以前のように「製造年月日」に戻すべきだと考える。

そうすれば、自給率は高まり、食べられる食品を棄てるために使われる燃料が無駄にならず、二酸化炭素の排出も少しは減らせる。そして何より、今後やってくると思われる食糧危機の時にも、食べられるかどうかの判断能力を持ち続けることができるという、いいことずくめだと思うのだがいかがだろうか。

そうしないと、人間までも中身ではなく数字で判断されてしまうだろう。75歳は人間の賞味期限か。


アイヌ語と地名 3 谷地

2008年10月18日 19時16分30秒 | アイヌ語と地名

22年前に河北町谷地に住んで何年かしてから、「谷地」という地名が「アイヌ語」だということを知り、それ以来地名とアイヌ語に興味を持つようになった。

正確にはアイヌ語というよりは、アイヌ語と同じ言語の地名と言うべきだが、ここ東北地方では「谷地」はほとんど「湿地帯」というそのままの意味で使われているように思う。

谷地、谷地田、谷地小屋など、地名も散在する。

古代の日本の地形は葦が生い茂った湿地帯が多かった。だから、湿地帯を指す言葉が多く生まれた。「ニタ」「サラ」なども湿地の意味で、仁田山、皿沼なども、これらの転用かと思われる。

アイヌの人々も、縄文の人々も、言語はあっても文字を持たなかった(文字に代わるものがあったのかどうかは知らない)。それらの人々が住み、呼び習わしてきた土地の名前に、後の人々が外来の漢字をあてたのが現在の地名だ。もちろん後からやってきた人々がつけた地名や改名した地名もある。

古い地名で、現在の日本語では意味がよくわからない場合など、アイヌ語で読んでみるとその地形にピッタリの意味が浮かび上がってくることがある。

そんな時、古代の人々がここでどんな生活をしていたんだろうと想像するとワクワクしてくる。

厳しい自然環境の中で、子を産み育て、争ったり協力をしながら子孫を残してきた。それが我々の祖先だ。

地名にはそんなことを考えさせてくれる魅力がある。


地域のパワーが結集

2008年10月18日 10時31分56秒 | 集中講座

P1010943 第3回松林寺集中講座は盛会だった。

200名を超す老若男女が本堂を埋め尽くした。3回目で定着してきたという感がある。

オープニングの三浦光雄老師による相撲甚句の歌声に心しびれ、露の新治師匠のアンコール人権高座に笑いながら考えさせられ、佐野俊也老師の法話に涙がほろり、新治師匠の落語では抱腹絶倒、影法師のライブには「わかる、わかる」と頷きながら耳を傾けた。

今年も盛りだくさんの内容で楽しんでいただいた。しかし、スタートからラストまで約5時間半!80過ぎのおじいさんおばあさんまで、よく頑張って座っていたものだ。えらい!

40名のスタッフも、「帰るときの観客の満足した顔をみると、やってよかったなとうれしくなる」と言ってくれた。それが何よりもうれしい。

今年あまりに評判が良かったものだから、来年の内容をどうしようかと今から頭を悩ませている。

三浦老師が相撲甚句でよんでくれた松林寺の歌詞を紹介しよう。

  ハアー ドスコイ ドスコイ

  ここ最上の松林寺  甚句によめばヨー

  心やさしい冨澤の  老若男女が合い集い

  先祖の御霊(みたま)を供養して

  本尊様にこい願う  家族の健康安全を

  方丈様にめぐまれて  法話や落語のお話に

  お地蔵様もほほえんだ 地域のパワーが結集し

  松林寺様の繁栄を 本日おいでの皆様で

  あげて尽力いたしますヨー

  ハアー ドスコイドスコイ


裏ばかり

2008年10月07日 05時47分50秒 | 松林寺

10月4・5日、最上町を会場に「日本再発見塾」が開催された。

県外から120名の塾生が訪れ、町内各地7箇所に分かれて「日本」の良さを見つけようという企画だ。

松林寺にも、スタッフを入れて30名が宿泊し、寺の生活を体験してもらった。

寺に泊まったり坐禅をしたりという体験が初めての方がほとんどで、「いい経験をした」「寺がこんなに明るいところだとは思わなかった」「寺が身近になった」という感想を聞いて、喜んでもらえたと、こちらが喜んでいる。

喜んでもらえるには、やはり喜んでもらえるような準備が必要で、本堂や庫裡の割り振り、お膳やお椀での食事の準備、掃除用具の配置、内外の清掃など、どうしたら気持ちよく過ごしてもらえるかを考えて準備をしてきた。

また、事務局のスタッフも見えないところで受け入れの準備を重ねてきたのだろう、疲れ果てて控え室でうたた寝をする姿も見受けられた。

当日に成功するかどうかは、当日には見えない裏方の準備と心配りによって決まる、と言っていいだろう。

茶の湯の世界には「裏」だとか「表」だとかがあるようだが、お寺の心には「裏」ばかりで「表」がない。

「おもてなし」と言いたいだけだが・・・。