なあむ

やどかり和尚の考えたこと

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ103

2017年04月16日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

4月16日日曜日です。
ようやく雪も消え、雪囲い外しや、屋内に入れていた鉢物を外に出したり、人間の啓蟄のような動きが始まりました。
農家の農作業も本格始動しています。
次から次へとやることが目に見えて、気が急いてくるのが分かります。

次から次へとやることがあって、ゆっくり休む時間が取れないという状態を「忙しい」と言うと思いますが、私はこの「忙しい」という言葉があまり好きではありません。
「忙しい」と言いたいのは、どんな気持ちなのだろうかと考えてみます。
やることがいっぱいあって、休みが取れないから「疲れる」という意味なのか。
他の用事を押し付けられないための予防線なのか。
あるいは、これだけ用事が入っているのは「自分が有能だからだ」ということを言いたいのか。
いろんな役を頼まれて、あちこちから引っ張りだこで「モテて大変だ」と自慢したいのか。
バンバン働いて「儲かっている」というアピールなのか。
はたまた、忙しそうにすることがカッコいいと思っているためなのか。
いずれにせよ、自分から「忙しい、忙しい」と連発する人には、なんか鼻高な感じ、陳腐な感じがして「だから何?」と白けてしまいます。
忙しいからエライわけでもないでしょうに。

時間というのはみんな平等に決まっていて、一日は24時間、1周間は7日間です。
その時間をどう過ごすか、時間とどう向き合うかの問題であって、忙しいという人が一日36時間動くわけではありません。
もちろん、寝る時間もないぐらい働かされる、いわゆるブラック企業があることは知っています。
でもそれは、もはや「忙しい」という部類ではなく、強制労働とも言える、犯罪に近いものではないでしょうか。「忙しい」などという言葉も出ない状態なのだと思いますよ。
そこまでいかなくとも、「寝る時間も惜しんで」働かないと生活ができない、子どもを学校にやれないという人がいることも事実です。
でも、それも「忙しい」とは少し違うのではないかと思います。
必死で働いているときには、それが精一杯で、それ以外のことを考える余裕がない。
「忙しい」と言うときには、他にしたいことがあるというような、どこか余裕がある感じがします。

自分の時間は自分以外には使えないのですから、どんな時間も自分の時間として積極的に向き合う以外にないのだと思うのです。
ひとから使われている労働の時間も、その時間を使っている、生きているのは紛れもなく自分自身であり、仕事なら仕事を嫌々消極的にやるか、自分の時間として積極的に向かうかによって成果も満足度も違ってくるでしょう。ストレスも違うと思います。
ひとから使われている時間が自分の時間ではないのだとしたら、自分の人生からその時間が削除されるようなものでしょう。そんなことはありません。
忙しそうに動いている人も、暇でアクビをしている人も、同じ時間を生きているのであり、ほとんど同じだけの数の呼吸をしています。
だとすれば、その一呼吸一呼吸をどのように生きるか、一瞬一瞬の問題であり、その前に何があろうがその後に何があろうが関係がありません。誰かと比べるようなものでもありません。
「今」にどう向き合うかの問題なのです。
それを「前後際断」と言います。

よく「仕事は忙しい人に頼め」などと言いますが、色んなことを同時にできる人は、この前後裁断ができる人なのだと思います。
過ぎ去ったことにとらわれず、未だやって来ないことにとらわれない、簡単に言えば切り替えがうまくできる人ですね。
それから、どんな用事も楽しくやれる人。
楽しいことを「忙しい」とは言いませんからね。
さあ、全てを自分の時間と受け止め、一つ一つ楽しくやりましょう!
忙しくなどありません。ボチボチです。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



©遠藤浩信エンドーフォト