日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

修学院離宮(2)下離宮から中離宮へ

2019-12-25 | 庭園

下離宮の参観を終え、松並木を眺めながら中離宮へ向かいます。



明治天皇が行幸する際に、赤松を植樹し、砂利を敷き整備したことから御馬車道とも呼ばれているそうです。



この辺りは、田園風景が広がり、比叡山、東山、北山が一望できます。







離宮内には田んぼがあるとはびっくりでした。

近くの農民が離宮内にあるた田んぼで作った米を献上していたそうで、今も宮内庁が農家と契約し、米・野菜を作っているとか。

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修学院離宮(1)下御茶屋 寿月観

2019-12-13 | 建築物

2015年の12月、修学院離宮の見学をしてきました。

なかなか予約が取れなかった離宮ですが、秋の紅葉シーズンが終わったあたりで、運よく参観予約の空きがありました。

修学院離宮は、17世紀中頃、1653年(承応2年)~ 1655年(承応4年)に後水尾上皇の指示で造営された離宮で、上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかのおちゃや)、下御茶屋(しものおちゃや)という3か所の庭園からなります。面積は54万平方メートル。
 
見学は、下御茶屋からスタートです。
 
 
池泉観賞式庭園のなかに、後水尾院の御座所となった寿月観が建っています。
 
表総門を入り、北に進むと、石段上に御幸門があります。
 
 
屋根は柿葺、花菱紋の透かし彫りが施されされています。
 
 
御幸門を入り右折すると中門があり、池を掘った土を盛り上げた高みに寿月観があります。
 
 
 
寿月観

後水尾院行幸時の御座所となった建物。
 
当初の建物は岩倉殿(顕子内親王)の山荘から移築したものでしたが、享保年間(18世紀前半)に失われ、文政7年(1824年)に再建されました。
 
「寿月観」後水尾天皇の宸筆の額
 
東側に「一の間」、その西に「二の間」、その南に「三の間」と続き、三の間の西には5畳の茶室があります。二の間の北には4畳半、その北には10畳半の「玄関の間」が突出し、建物の北西端に式台玄関(御輿寄)があります。
 
屋根は杮葺で、一の間側が寄棟造、三の間側の南妻は入母屋造。
 
一の間は15畳で、三畳の上段が設けられ、襖絵は岸駒(がんく)による虎渓三笑(こけいさんしょう)の絵が描かれています。
 
 
 
 
 
茶室は5畳で北側に床を設けており、裏には物入と水屋(だいどころ)があります。
二の間は12畳で、西側南寄りの杉戸に夕顔の絵があります。
その南の三の間は6畳で、従者の控えの間であったそうです。
茶室は5畳で北側に床を設け、裏に物入と水屋があります。
 
 
上段の間
 
杉戸
 
 
細かな装飾も豪華です。
 
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岩佐又兵衛の「浄瑠璃姫物語絵巻」その弐

2019-12-05 | 浄瑠璃姫
今回は、岩佐又兵衛の三大絵巻を同時公開ということで、前々から楽しみにしていました。
 
展覧会は、もちろん撮影禁止なので、私が事前に購入したMOA美術館所蔵「岩佐又兵衛作品集」から何場面が紹介します。
 
『浄瑠璃物語』
 
奥州へ下る牛若と三河矢矧の長者の娘浄瑠璃との悲恋物語。

15歳の春、鞍馬を出た牛若は奥州を目指す。
 
 
浄瑠璃姫と出会い、恋に落ちる牛若
 
 
 
 
 

 
しかし、先を急がなければならない牛若は、浄瑠璃姫と別れる。
その悲しさと旅の疲れからか、牛若は病に。
 
源氏に伝わる宝物が、大蛇、白鳩、烏、小童に姿を変え、牛若を守る。
 

後に浄瑠璃姫を再会した牛若は、平家討伐の暁には、浄瑠璃姫を北政所にすることを約し、大天狗・小天狗に姫を送り届けるように頼む。
 

といった展開で進んでいきます。
 
又兵衛の絵は、愛と復讐の物語というテーマで、凄惨な合戦場面や惨酷な殺戮場面が描かれている点が共通しています。
 

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