日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

岡崎めぐり(4)八柱神社の築山御前の首塚

2019-05-24 | 史跡


岡崎市欠町石ヶ崎の八柱神社には、徳川家康の妻であった築山御前の首塚があります。





築山御前は、今川方の出身であり、織田信長に武田方と内通しているとのとの嫌疑をかけられ、殺害されてしまいました。

八柱神社拝殿


八柱神社本殿



築山御前首塚




築山御前は関口刑部少輔義廣殿の御息女瀬名姫で今川義元の養女になり家康公の御正室になられました。長男の岡崎三郎信康公は織田信長公の御息女徳姫を御正室に迎へられましたので母と嫁は全くの仇敵となってしまいました。徳姫の父信長公は今や隆々の勢力を有し天下を治めんとして居り、徳姫も父の権威を背景に我侭の振舞もあり、家康公も信長公を恐れ浜松城に移っても築山御前を迎へようとはせず、築山御前の怒りは火の如く燃へ信康公と徳姫を離間させようと狂乱に近き挙動もあったと思われる。されど主害に値するほどの罪悪であっただろうか。十二条の罪条により天正7年8月29日築山御前は浜松城西来寺にて御主害なされました。其後岡崎御城代石川伯耆守菅生郷投村祐傳寺境内に築山御前の御首を埋葬し築山神明宮を勧請する。其後正保3年水野大監物殿欠村石ヶ崎に御移しして現在に至る。
戦国の世とはいへ、信長公の権威を恐れ我が妻我が子を亡した家康公の心中いかならん、あまりにもむごく悲しい出来事である。
当神社の氏子一同築山御前の御霊が安かれと御首塚を改築する。

昭和52年10月18日 八柱神社




御由緒
当神社の創立年は不詳であるが、往古より紀伊国熊野の里に居住した清和源氏の流れを汲む鈴木一族が、源平の戦いに加わり戦利無く難を逃れて三河国碧海郡桜井村に渡り住む。其の後一族が別れて額田郡根石原欠村に移住する。此の時日頃より崇敬する熊野権現(五男三女神)を同村広見の森中に奉齋し奥宮を同村北方の山頂に祀る。以来鈴木一族の氏神をして尊崇されて来たが、村の発展と住民の増加等の永い年月のすえ欠町の鎮守の神様として崇められて来た。明治5年村社に列し、明治42年に神饌弊帛料供進神社の指定を受ける。昭和4年に御鍬神社を本殿下陣に合祀し、昭和9年に欠町広見西通りより欠町石ヶ崎に移転遷宮をし、築山神明宮を本殿下陣に合祀する。築山殿(瀬名姫)の御首塚は、今も境内の西側に老杉に囲まれて三百有余年の間静かに奉齋されております。(駒札より)

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岡崎めぐり(3)若宮八幡宮・徳川信康の首塚

2019-05-16 | 神社

愛知県岡崎市朝日町にある若宮八幡宮には、徳川家康の長男・徳川信康の首塚があります。




信康は、永禄2年(1559)3月6日、駿府で生まれました。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごし、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移ります。

永禄10年(1567)織田信長の娘・徳姫と結婚し、家康が浜松城に移った元亀元年(1570)に岡崎城主になり、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗りました。信長は、信康の母・築山御前が今川方の出身であり、武田方と内通しているとの理由で、築山御前と信康の処断を家康に迫り、信康は、天正7年(1579)遠江(浜松)の二俣城で「我れ天道に逆らって父に謀反し勝頼に一味するという汚名こそ死出の防げぞ。このことだけは父上によく聞こえ上げてくれよ」と言い残し、21歳の若さで自刃しました。

その後、重臣の石川数正が岡崎城代となり、供養塔の首塚を建てました。







御由緒
御祭神 仁徳天皇 岡崎三郎信康公

当神社の創立年月日不詳であるが 往古より名栗天神と言い仁徳天皇を奉斎する神社であった。その後天正7年(1579)9月15日 徳川家康公の御長男岡崎三郎信康公は織田信長の御口難により 遠州二股城にて御時21才を此の世の果と御自害され 御首は信長方へ實験の上岡崎へ御差戻しとなった いかに戦国の世とは言へ 子を失った親の気持は計り知れない 家康公は涙をこらへ 清水万三郎に仰せ付け 当地に奉埋する その後岡崎城内には種々の怪異変化が度び重なり 諸人等は恐れ入り 信康公の御霊を当神社に合祀する 当時は信長の権力により 公には出来ず社名を菅生八幡宮と改める その後若宮八幡宮と改め明治5年村社となる(駒札より)

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岡崎めぐり(2)伊賀八幡宮 その弐

2019-05-09 | 仏閣

随身門をくぐります。

拝殿

寛永13年(1636)三代将軍・徳川家光によって本殿に増設し、造営されました。
国の重要文化財

同じ年に日光東照宮も改築完工されています。

本殿は、慶長16年(1611)徳川家康によって造営されました。
権現造りの本殿は入母屋造が普通ですが、伊賀八幡宮は流造りになっています。(国の重要文化財)

「本殿」「幣殿」「拝殿」の三連で権現造りとなっています。

さざれ石


国家『君が代』に歌われた石です。

 

毎年1月の大寒の日に、28mはなれた場所から矢を放ち檜の的板のわれ具合によってその年の豊凶を占う「武者的神事」が行われ、「矢が的に当たる」「当たるが割れない」「2つに割れる」「3つ以上に割れる」の4段階で判定されます。 

 

 

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岡崎めぐり(1)伊賀八幡宮 その壱

2019-05-01 | 神社
松平家の4代親忠が、文明2年(1470)に松平家(徳川家の祖)の子孫繁栄・武運長久の守護神、氏神として伊賀八幡宮を創建しました。
 
 
5年後に氏寺(菩提寺)として創建の大樹寺と共に、江戸時代にわたっても将軍家の厚い崇敬をうけました。
 
天下人となった徳川家康により社殿の改築が行われ、家康も、大きな合戦の時には必ず参詣したといわれています。
 
のちに3代将軍・家光が社殿を拡張し、家康(東照大権現)を祀りました。
 
 
 
石鳥居
 
明神鳥居で、国の重要文化財。
 
石橋
 
蓮池にかかる石橋です。
 

寛永13年、境内が整備された際、架けられました。
現在は渡ることはできません。国の重要文化財
 
随身門
 
神域を守る随神様を門の両側に祀っています。
 

また門の表と裏両方の左右に力神が門の屋根を支えています。
国の重要文化財
 
7月には、はすの花も開花し、はすの名所としても人気があります。
 
 
 
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