日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

冠者殿社

2022-04-26 | 史跡

京都の冠者殿社は、四条通の八坂神社御旅所の横に建つ八坂神社の境内摂社で、素戔嗚尊の荒魂が祀られています。
また、誓文払い」の社として有名です。
(誓文払いとは、商売上の駆け引きで一年についた嘘の罪を払ってもらうという商店の安売り、すなわちセールのこと。)





一方、源頼朝の命で源義経を襲撃した土佐坊昌俊の霊を祀ったとも伝わっています。

土佐坊は熊野詣のために上京したと偽り、堀川邸を訪ねましたが、義経と弁慶に上洛の目的を怪しまれたため、義経を暗殺する意思はないという旨を誓紙に書いて神に捧げます。

誓文を書いた土佐坊を義経は宿舎に返しました。
その後、土佐坊は堀川館を急襲したものの襲撃に失敗し、土佐坊は捕らえられ、義経の前に引き出されました。

義経は「わが主人の命を重んじて、誓文をしたためてまでこの義経を狙うとは忠義なもの。命が惜しければ鎌倉に返してやる。」と言いましたが、土佐坊は「この命は鎌倉殿に捧げたもの。即刻、首をはねていただきたい。」と答え、土佐坊、息子、郎党の三人が六条河原で首をはねられました。

土佐坊は死に際に「今後は忠義だてのために偽りの誓いをした者を救ってやる」という誓文返しの願をかけ、神になったといわれています。

また、祇園や先斗町の遊女たちは、日頃お客についている嘘を帳消しにするためにお参りしたといいます。
(「義経と平家の京都」参照)


ブログランキングの応援よろしくお願いします😄

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへにほんブログ村

 

神社・仏閣ランキング

 

コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊谷直実 鎧掛けの松

2022-04-14 | 仏閣

熊谷 直実は、はじめは平家に仕えていましたが、石橋山の戦いをきっかけに源頼朝に従い、御家人となりました。後に出家して蓮生(れんせい)と名乗ります。

「平家物語」の「敦盛最期」での平敦盛との一騎打ちは、能の「敦盛」をはじめ様々な作品に取り上げられています。

京都の金戒光明寺には熊谷直実ゆかりのものがあります。



熊谷直実(法力房蓮生法師)鎧掛けの松







熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)(1141~1208)は、建久4年(1193)ここ黒谷の法然上人を尋ね、方丈裏の池(鎧池)にて鎧を洗いこの松の木に鎧を掛け出家した。庵は蓮池の畔に建てられ、現在の蓮池院(熊谷堂)である。
供養塔は法然上人の御廟前に平敦盛の供養塔と向かい合わせに建てられています。古樹は枯れ、現在の木は二代目です。(案内板より)

「平家物語」によれば

源平の戦いで、直実は、波打ちぎわを逃げようとした平家の平敦盛を呼び止め、一騎打ちをする。直実が敦盛をむんずと取っ組んで、馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子小次郎ぐらいの年の若武者だった。
直実が「私は熊谷出身の次郎直実だ、あなたさまはどなたかな」と言うと、敦盛は「名乗ることはない、首実検すれば分かることだ」とけなげに答えた。これを聞いて直実は、一瞬敦盛を逃がそうとしたが、背後に味方の手勢が迫る中、「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切った。首実検した結果、息子と同じ16歳の平敦盛であったとわかり、世の無常を感じ、出家して法然上人に師事した。


ブログランキングの応援よろしくお願いします😄

 

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへにほんブログ村

 

神社・仏閣ランキング

 

 

コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

俵藤太のムカデ退治伝説(3)御上神社

2022-04-04 | 神社

御上神社(みかみじんじゃ)は、滋賀県野洲市にある神社です。 

近江富士の別名もある三上山の山麓に鎮座し、三上山を神体山として祀る神社です。

武士の崇敬が篤く、源頼朝が建久元年(1190年)、足利尊氏が建武3年(1336年)、豊臣秀吉が天正14年(1586年)にそれぞれ神領を寄進しています。

楼門(重要文化財)

御上神社

一、御鎮座地 滋賀県野洲市三上838
一、御祭神  天之御影神(天照大神の御孫)
一、由緒
 当神社の社記によると、天之御影神は今から2千2百余年前の孝霊天皇6年6月18日三上山に御降臨になったので、神孫の御神祝等は三上山を神体山として鎮祭申上げた。
 降って養老2年、勅命によって現在の地に社殿を造営して遷祀された。
 爾来、朝野の崇敬あつく、清和天皇の御代に正一位、醍醐天皇の御代に明社大社、次に圓融天皇の御代には勅願所と定められ四海大平の祈願を行われた。
 武家政治になっても、源頼朝を始め各武将も尊崇深く神領を寄進奉った。
 明治9年郷社に、大正2年県社に、大正13年には官幣中社に御列格遊ばされたが、昭和22年2月宗教法人になり神社本庁所属の別表社となった。
一、御神徳
 御祭神天之御影神は御神徳高く霊験あらたかで、忌火神、金工鍛冶神、産業神、開運悪魔除けの神として信仰され、当地方は昔から神体山三上山を中心に忌火郷、悠紀郷、むかで退治の神話で有名で、山麓からは24個の銅鐸が発掘され、5~6世紀 の古墳群が現存している。
一、主なる祭日
 新年祭 2月17日
 春季例大祭 5月第3日曜日
 影向祭(山上祭) 旧6月18日
 秋期古例祭(ずいき祭) 体育の日
 神衣祭 忌火祭二の甲に近い土曜日もしくは日曜日
 新嘗祭 11月23日
一、文化財
御本殿(国宝) 拝殿、楼門、若宮社(各国指定重文) 三宮(県指定)
狛犬(重文) 角力人形(県指定) ずいき祭(国指定重要無形文化財)
(案内板より)

三上山は藤原秀郷(俵藤太)のムカデ退治伝説の舞台です。

三上山のムカデ退治

朱雀天皇の御代に田原藤太秀郷という剛勇の者が、ある日瀬田の橋を渡ろうとすると大蛇が橋上に横たわっていたが、田原藤太秀郷は臆することなく大蛇を踏付け通りすぎた。
その晩大蛇は小男に化け、田原藤太秀郷の剛勇を褒め称え、『吾は竜宮に住む竜神であるが、三上山を七巻き半巻いている大ムカデに悩まされているから助けて欲しい』と頼んだ。
田原藤太秀郷は承諾し、瀬田の唐橋から矢を放ち、一矢は射損じた。二矢目は鏃に唾を付け放ち大ムカデを射止めた。
竜神は大層喜び、御礼として減ることのない米俵や使っても無くならない反物や宝物を贈った。この米俵から田原藤太秀郷の名前を俵藤太と改めた。
(御上神社HPより)

拝殿(重要文化財)

本殿(国宝)

約700年前のもので、神社・仏堂・御殿の3様式が合成された御上造とよばれる建築様式です。

三宮神社

本殿に向かって右手に鎮座。社殿は室町時代の作、一間社流造檜皮葺。滋賀県指定文化財。

若宮神社

本殿向かって左手に鎮座。社殿は鎌倉時代の作、一間社流造檜皮葺。国の重要文化財

ブログランキングの応援よろしくお願いします😄

 

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへにほんブログ村

 

神社・仏閣ランキング

 

コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする