思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

テレビ朝日が一丸となって「山尾バッシング」ー小沢さんの人物破壊と同じ、恐ろしいテレビ局。

2017-11-13 | 社会批評

10時25分からのテレ朝「スクランブル」で、

公私の区別をしたいなら、政治家としての活動とプライベートを分けたいと山尾さんが考えているなら、政治家をおやめになるべき」!?!?

これが、定席コメンテーターの弁護士の結論で、司会者と3人のコメンテーターも全員声をそろえて、山尾バッシングで険しい顔、

小沢一郎への長期にわたる執拗な人物破壊を先導したテレビ局は、今度は山尾しおりをターゲットにして、みな道徳者=善人風を吹かせて、聞いていられないほどの罵詈雑言。知性派ぶった上記の弁護士は、「だいたい山尾さんの発言をそんなに紹介する必要はないはず」とまで言い放つ。

どこの国なのか?北朝鮮ではあるまいし、と思い寒気がしましたこういうヒステリックな発言は、他のテレビ局でもあるのでしょうが、先陣を切って人権侵害の人物破壊を仕掛けるのはどうもテレビ朝日が多いように思います。なぜ? 他者を激しく攻撃することで、自分たちは善人と思えるから(笑呆)「民主的倫理」とは無縁です。


以下は、一月半前の「東京新聞」です。
(資料提供は金澤修さん)


 

=========

補足として、「性」の本質論を簡潔に記してみます。

性をどのように想い、どのように遇するかは、実は倫理の問題ではないのです。
倫理は関係性から生まれるもの=つくられるものであり、性への個人の想いや態度は、その人の絶対自由の領域で、他者が口をはさむことが出来ません。
その人の性的し好それ自体は(他者の人権を侵さない限り)倫理以前の各人の固有性で、評価や批評が不可能な世界です。「語り得ぬものには沈黙しなければならない」)
性(性交以外をも含む広義の性=心身の愛の交歓)を営む二人の間での合意が得られれば、どのようなありようもすべてOKで「よい」のです。
だから、公共領域で倫理として考察したり主題化したりすることは不可能です。
性(広義の)は究極のプライベート領域で、これを侵すことは誰にもできません。
そういう領域を持つ(持てる)から個人のエロース領域は最も深い人間性の根拠になり、通常の学や知の領域を超えて、すべての有を支える無(それがほんらいのフィロソフィー=恋知)ともなるのです。
このような立体視と逆説的真理が分からなければ、人間存在については何も語ることは出来ません。
これは人間の生の原理中の原理なのです。

武田康弘

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする