思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ハイデガー哲学とは、逆立ちした発想をもつ無益な思想=学であることを知ろう。敗北の告白

2016-09-02 | 恋知(哲学)

 ハイデガーの「形而上学入門」(1935年)ーーⅡ「ある(ザイン)という語の文法と語源学とによせてーーの冒頭には、次のように書かれています。
 

 「存在がわれわれにとっては、かろうじてむなしい語であり、ふわふわした意味であるにすぎないとすれば、いよいよもってわれわれは、少なくとも存在の関連のなごりであるこの語だけでも、すっかり捉えようと努めざるをえない。」

 ハイデガーが「存在がむなしい語だ」というのは、存在を言葉で明確に定義ができないことを指しているわけですが、
しかし、誰でも存在を知っています。わたしは、さまざまな物、動植物、個々の人間の存在について明瞭に知っていますし、それぞれの違いについて分かっています。

 ただし、それを言葉で定義することが難しいだけです。けっして、「ふわふわした意味にすぎない」のではありません。それぞれの存在の意味は、明瞭です。わたしの主観性は、さまざまな存在を明瞭に意識しています。ただ、その主観性の世界を「カチッ」とした言葉で定義できないだけのこと。

 ハイデガーは、主観性の領域で明瞭に捉えられていることを、まるで客観知のごとく厳密に定義できないことに「いら立ち」、結局はフィロソフィーを放棄してしまいましたが、それは、彼の意図が不毛な逆立ちした発想に基づいていたからです。言葉で存在を明瞭に定義できるかのような逆立ちした発想ーありえないことに挑戦して勝手に挫折したのがハイデガー哲学、さらには近代西ヨーロッパ哲学(キリスト教により変質した哲学)の結末です。悲劇(悲喜劇)は終わっています。それは、彼自身が最後に告白した通りです。

  「哲学は、現在の世界の状態に影響を及ぼしてこれを直接的に改変するというようなことはできないでしょう。・・かろうじて神のようなものだけがわれわれを救うことができるのです。われわれ人間にはただ一つの可能性しか残っていません。すなわち、思惟において詩作において、この神の出現のための、あるいは没落期における神の不在のために一種の心構えを準備するという可能性です。没落期と言いましたが、われわれは不在の神の面前で没落しているのです。・・・われわれは、その神を思惟で呼び寄せることはできません。われわれはせいぜい期待の心構えを呼びさますことができるだけです。」(1966年シュピーゲルとの対話)
 (訳文は、すべて川原栄峰さんによるー平凡社 )



 プロソピア(ギリシャ語・ソクラテスの造語)=フィロソフィーとは、主観性の知であり、客観学とは根本的に次元を異にする知なのに(それゆえにソクラテスは書き言葉で伝えることはできないと強調した)、「厳密な学としての哲学」(師であったフッサールの書名)という「厳密に」をはきちがえたハイデガーの敗北宣言ですが、これを受けて、わたしたちは新しい「根本的に考える」営みをはじめたいと思います。世界の息を詰まらせてきた「キリスト教化した哲学」は、その命を終えています。フィロソフィーは飛躍してあらたな階段を上ります。広々とした豊かな「主観性の知」の世界が開けるのです。

 わたしは、そして白樺は、もうとっくにその実践をはじめていますが、みなさまもぜひご一緒に。


武田康弘 

 

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