思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

プライドを肯定しエリート意識を否定するー民主制社会における倫理

2008-01-30 | 恋知(哲学)
幼い子供たちを見ていると、「プライド」の塊です。
彼らは、【命の自負心】とでも呼んだらいいようなプライドを持っています。
だから、わたしは子供たちが大好きです。
自負心・矜持・プライドがあるから命が燃え、生き生きと輝いて、個人の自由がぐるぐると渦巻くのです。日々、人間として向上するのは、このプライドの力です。
大人でも精神の健全な発達をやめない人は、みな豊かなプライドを持っています。

ところが、個人を成長させるこのプライドを潰し、外的価値による序列意識に変質させてしまう教育がおこなわれると、プライドは歪んで病的になり、上下意識―序列主義へと変化してしまいます。いわゆるエリート意識です。

エリート意識は、民主主義の思想と社会を土台から破壊してしまう愚かな想念ですが、このことに気付いている人は、少ないように思えます。「エリート」という言葉をプラス価値だと思い込んでいる人が多いようです。驚くべきことに、「公共哲学」運動を進める代表的な学者の一人である桂木隆夫さん(学習院大学法学部教授・法哲学と公共哲学を教授)は、自著(「公共哲学ってなんだろう」)で、これからのあるべき民主主義の姿として、「大衆の中のエリート」とそれとは区別された「エリート」の双方の育成が不可欠だ、と論じていますが、こういう思想が生まれるのは、日本社会が、学歴を信仰する東大病とも呼ぶべき病にかかっているからでしょう。明治の超保守主義(天皇主義)の政治家である山県有朋らがつくった官僚制度(キャリアシステム)もまた、この信仰=病の中で生き延びてきたのです。

もし、公共と民主主義とが背反することになるならば、「公共哲学」とは、詐欺の名称に過ぎないと言わざるをえません(注)。なぜならば、個々人の自由に考える営みに依拠するのが哲学であり、哲学成立のためには、民主主義が必要であり、また逆に民主主義は哲学に支えられなければ形骸化するほかないからです。単なる理論の体系や思想ならば、独裁国家にもありますが、個々人の深い納得に支えられる哲学するという営みは、民主主義社会でなければ成立しないのです。史上はじめて民主制を敷いた古代アテネで哲学が誕生し、キリスト教が国教となった古代ローマで哲学が禁止された{ミラノ勅令により900年以上続いた『アカデメイア』(プラトンが創設した私塾の延長のような自由な学園)が閉鎖―「以後、何人も哲学を教えてはならぬ」}という歴史的経緯を見てもそれは明らかでしょう。

プライドなくして哲学する営みは成立しませんが、エリート意識に支配されれば、哲学は消え、単なる理論や知の体系による支配が生じてしまいます。健全で豊かなプライドの肯定・育成は個々人を輝かせ、民主的な公共社会を生みますが、病的に歪んだプライド=エリート意識の支配する社会は、序列主義・様式主義・管理主義しか生みません。

(注)もし、民主主義(対等な個々人の「自由の相互承認」に基づくルール社会)ではない公共性や公共社会について語るのであれば、「公共哲学」とは呼ばずに、「公共学」ないし「公共社会学」、ないし「公共理論」とでも言うべきです。

追伸・猫はプライド高き動物として有名ですが、彼らは序列社会をつくりませんし、飼い主とも対等です。犬とは大違いですね。


武田康弘
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする