石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

「怒る、吼える、一匹」 金子勝 経済学者 

2015-03-13 12:04:26 | 人物

AERA2003年3月31日号 「現代の肖像」掲載

 

イラク攻撃開始、「3月危機」を前に、ボルテージ沸騰中。

小泉にブッシュに竹中に、我らに代わってパンチを見舞う。

「悪魔の予言」は悉く当たり、「学会のアルカイダ」を自称。

この人、体育会系?お笑い系?いいえ、実はロマンティスト。

50歳にして酒を断ち、追いつづける見果てぬ夢とは?

 

 金子勝(かねこ・まさる)は人間も生き方も丸ごと「ネオフィリア」である。ネオフィリアとは、好奇心を失わず、現状に満足しない動物のことだ。群れることを嫌い、ためらわずに敵に吼える。

 テレビ朝日「たけしのTVタックル」「朝まで生テレビ!」「サンデープロジェクト」などで、今や「怒る、吼える」がこの男のブランドになってしまった。経済の「3月危機説」とイラク情勢が緊迫化して、彼のもとに電波メディアからの出演依頼が続く。フジテレビ「報道2001」、TBS「サンデーモーニング」、NHKラジオ「ビジネス展望」……。

 活字では左の「世界」から右の「諸君!」、おじさんの「週刊現代」、若者の「SPA!」までが彼のコメントと分析を求める。月刊「現代」4月号で、金子は竹中平蔵に挑戦状を叩きつけたばかりだ。曰く、

 「竹中氏よ、『あしたの経済学』などという本を書く暇があるなら、まずは昨日までの経済の問題がどこにあったのか、自分の責任もふくめて総括すべきだ。」

 番組制作者も編集者も、金子勝のボルテージの沸騰を期待する。小泉に、竹中に、ブッシュに、我らに代わってパンチを見舞ってくれる。闘うのは彼で、僕ら見る人。いつの間にか人々は「金子勝依存症」になっていないか?

 3月7日、国連イラク査察団から追加報告が提出された日、私宛に金子から異例のメールが届いた。「イラク攻撃が悪い方向へ向かっています。本日の東京新聞夕刊に書いたものを読んでください」。新聞には圧倒的なアメリカ軍に歯向かう「ペンの哀切」があった。最後に「私は孤立している。しかし孤立を恐れない」という切迫した言葉で終わっていた。今やマスコミに引っ張りだこの金子が孤立?この複雑な二面性(アンビバレンツ)が彼を解くキーワードかもしれない。

 慶応の金子研究室には深田恭子のカレンダーがかかっている。学生からの差し入れだ。グラムシやヴィトゲンシュタインなどの硬い書物と共存している。乱雑な室内に入ると彼はコンピューターを立ち上げて「株価」をチェックする。「あ、下がってる!」と大声で叫んで嬉しそうだ。株価下落を喜ぶ経済学者とは、どういう人だろう。「僕は株が上がることを予想できないんです。それが出来たら、とっくに大金持ちになっています」

 テレビではよく怒るが、素顔の彼は「お笑い系」だ。ゼミ学生との旅行など笑いの連続で、その中心に必ず彼がいた。面倒見がよく、学生の就職先も博報堂、トヨタ、銀行などが決まっている。日銀を狙う一人を捕まえ、「お前、日銀に入って10年たったら、金子ゼミにいたのは人生の汚点でした、なんて言うんだろ!この野郎」とブチかます。

 去年12月20日、琉球大学・公法研究会に金子は招かれ「反ブッシュイズム」の講義をしたが、これにゼミの学生たちも参加した。そもそも金子と沖縄の関係は1971年まで遡る。

 大学に入学したばかりの金子が初めて行った「外国」が本土復帰前の沖縄だった。その時に身元引受人になった弁護士から、金子は去年、憲法記念日に呼ばれ講演した。それを聞いた琉球大学の憲法学の教授から彼は来講の要請を受けたのだ。国立大学の教室に慶応の学生も居並び、経済学者の金子が「法学特別講義」で語る。学界の流儀などお構いなしの、実に金子らしい教室風景だ。

 「沖縄は僕の原点です。イラク戦争が始まる前に、もう一度、ここに来たかった」と金子は言う。その日の午後は、ゼミの学生とのツアーで普天間、嘉手納基地を回った。「こんな独立国って、ないよな!」エンエンとつづく米軍基地のフェンスを前に金子はつぶやく。北部の沖縄美ら海水族館にも行った。あいにく閉館時刻が過ぎていた。みんなで巨大水槽を上から眺めるしかなかった。「オレが泳ごうか」と金子が言う。「見たくなーい!」のブーイングが学生たちから返る。

 『見たくない思想的現実を見る』(岩波書店・大澤真幸との共著)は彼の沖縄でのフィールドワークの書である。戦争の記憶と「沖縄県が自由に使える一般財源は、わずか7%」の経済的現実。沖縄は、ハーバード大学に留学してMBAをもって帰る、並みの経済学者とは別な人格を金子の中に作った。

 その夜、琉球大学学生と慶応大学・金子ゼミとの「交歓飲み会」が那覇の居酒屋で開かれた。泡盛の乾杯が続く。しかし金子は一滴も飲まない。学生たちに注いで回る役だ。そしてデカい声で一番盛り上がっていたのは金子だった。飲まずに酔える、それが金子の特技であり、サービス精神である。

本棚のない家 下町育ち

反エリートの文学&野球少年

東大で「たった一人の反乱」

 帰途、年末の飛行機は混んでいた。少しゆっくり話したいと、私はスーパーシートに移ることを彼に提案した。ツアーの格安料金で来ている彼は、追加料金を自分で払った。「取材費から出しますよ」という私に対して、「いや、これ僕の旅行ですから」と受けつけない。これはきっと彼の生活感覚なのだ。一体、どんな家庭環境で育ったのだろう?

 家計に学者は皆無である。東京・板橋に生まれ、父親は自動車整備部品の卸売業だった。家には本棚もなく、電話口で頭を下げている父親を何度も見ている。終わって舌を出している場合と、心底打ちのめされている、両方の父をしっかり観察していた。父は佐渡島から学問を志して上京したが、中国戦線に徴兵に取られた。学歴は夜間中学卒である。学者になってゆく息子を夢見つつ、60歳を超えて間もなく前立腺を患って死んだ。「院内感染で」と、金子は悔しげに言う。誕生日に数日足りず、生命保険は5千万円のはずが、おりたのは500万円。「実態経済」の理不尽を目の当たりにした。

 中学の頃は文学少年で、同時に野球に熱中した。東京教育大学付属駒場高校では、頭でっかちなエリートたちの「逆を張って」ハンドボールに汗を流す毎日だった。文化祭では人形劇の台本を落語風に書いて皆を笑わせていた。その頃の学友は、「TVタックル」でハマコーと漫才風にやりあって笑いをとる金子を見て「お前、ほんとにあの頃と変わってないなー」と感心した。体育会系か、お笑い系か?いや、やっぱり「左翼系」だったという貴重な証言がある。

 71年、金子は東大にストレートで入学、教養学部自治会委員長になり、学費値上げ反対闘争でストライキの先頭に立った。その運動は、どこか「たった一人の反乱」の孤独感があった。毎日一人でマイクをもってアジ演説をする金子が印象に残っていると述懐するのは、東大社会科学研究所教授・大沢真理である。

 「駒場東大前の駅を降りて正門から第一本館に学生がゾロゾロ歩く、その3分間が金子さんの勝負なのです。大事なことを手短にしゃべる力を、あそこで彼は鍛えたのでしょう。自分で書いたガリ版刷りのビラも配っていました。ゴム草履を履き、ズボンの裾を折って、手拭いをいつもお尻にぶら下げていました」

 もともと学者になりたかったわけではない。「就職なんか出来っこないと思っていたから」大学院に残り、東大社会科学研究所(社研)に進んだ。しかし学問の場が、業績の取り扱いや人事において、必ずしも知的でもフェアでもないことを思い知る。奨学金と塾教師のアルバイトでしのぐ毎日だった。

 無名で貧しいところに、知性の始祖鳥は舞い降りる。今回の取材で私を驚かせたのは、27歳の彼が書いた論文だった。イギリスとインドの関係を、財政から分析した論文「『安価な政府』と植民地財政」(福島大学『商学論集』80年1月号)。本文2行の中に注が3つ出てくるようなガチガチの学術論文だ。

 私はこの論文を混雑した地下鉄で立ったまま読み始め、降りる駅を忘れ、学問とはこういうものか、と涙ぐんだ。近代イギリスが「安価な政府」を実現したことは経済学の常識である。しかし、これに金子は真っ向から反論した。「それはイギリス側の文献だけに頼った事実誤認だ。安価な政府は、植民地への『安価な侵略』があったから実現できた」。彼は学会が無視したインド・ナショナリストたちの資料と文献を徹底的に洗った。そして、例えば次の事実を明らかにした。

 「イギリス軍の全費用はインド財政が負担した」「インドでの反乱鎮圧費用はインド財政の負担だった」。そこには「イギリス人幕僚参謀の人数と経費」が表で示され、「インド手当」に加えて本国に帰国後の「年金・退職金」までインドから送金された事実が明らかにされている。イギリス植民地政策の「カラクリ」と、アジア略奪の事実に、改めて怒りがわいてくる論文だ。大沢が語る。

 「目の覚めるような明快な論文でした。この2年後に土光臨調でサッチャーに学べ、の大合唱が起こり、中曽根内閣が出来ます。サッチャーは『ヴィクトリア時代に帰ろう』と言っていた。その遥か前に、金子さんは安価な政府の歴史的実態を暴いたのです」

学府の秩序を破壊する男

東大を駆逐され、冷や飯食い

職安に通い、妻の稼ぎに頼る

 大内兵衛、遠藤湘吉、島恭彦といった財政学の巨大な権威者の書物が論破され、論文の最後では学界の重鎮、宇野弘蔵が名指しで批判されている。まるで、「マル経も近経も、主流も傍流も、みんなやっつけちゃうぞ」の挑戦状だった。このカネの流れで世界を読み解く方法は、実は、帝国日本のアジアに対する侵略政策、「中央と地方」の関係、そしてイラク戦争を始める覇権国家アメリカの実態さえ逆照射する視座と深さをもっている。経済学を批判する若き経済学者、それが金子のデビュー作だった。

 道場破りをするが、彼の専門は何だろうと周囲は首をひねった。研究テーマはあちこちに飛び、アカデミズムで出世するのに必要な一冊の著書にまとまらない。学問上の受胎が定まらないまま、金子は東大医学部保健学科大学院出身の田村真理子と結婚した。披露宴の司会をしたのが新婦の高校の同級生でもある大沢真理である。

 「仲人の林健久先生を前に、新郎が『林さんは下り坂の学者、僕は上り坂の学者です』とスピーチしたり、新婦の友人代表の米原万里さん(エッセイイスト)が新郎の悪口を言い始めたり、まあ、とんでもない結婚披露宴でした」

 先に紹介した論文で彼は東大助手になれたが、またこれが「組織と学問の秩序を破壊する男」として東大をクビになる底流を作った。「マサルを欲しい」という一部の強い要望も、金子を嫉妬し否定する大勢には勝てず、彼は東大をお払い箱になり、長い「冷や飯」の時代がはじまった。経済的には新妻に頼り、職安に通い、失業保険でしのぐ日々。今、彼がどんなに多忙でも、秘書や事務所をもたないのは、この「干されていた時期」の痛切な体験故である。「いつあの状況に戻ってもいい」覚悟がある。

 85年、金子はようやく茨木大学に職を得た。単身赴任の不自由と、都落ちの鬱屈のなか、彼は組織内衝突を繰り返す。「すぐ、ケンカしちゃうんです」。制度論を専門としながら「人間の事実」を追って、まるで檻にいられない「ネオフィリア」として、地を這うフィールドワークを続けた。80年代はイギリスに5回、90年代はインドに8回、スリランカに3回、中国に3回、韓国に6回。1回が約1カ月間、スラムから中央銀行、地方まで徹底的に歩き、語りあい、調べた。彼は今の言論活動を「デパートに出店して試食品を配っているようなもの」と言う。思えばこのフィールドワークが、その「だしの素」を作った。

 旺盛な移動について、本人は「僕は明るい騎馬民族ですから」と笑う。現地のどこにでも寝られ、何でも食う。唯一下痢をしたのは日本大使館に招かれて食べた日本食だった。彼の官僚嫌いは、実に「腹の底から」である。

 その後、法政大学を経て「坊ちゃんと御用学者がひしめく」慶応大学に職を得た。よくもまあ、という声に彼は言う。

 「採用はモメたはずです。僕は常に賛否両論の男、学界のアルカイダです」

 悪魔の予言者のように、連続して重要問題の本質を突いてきた。経済戦略会議批判、ITバブル批判、そしてアメリカV字型回復論と景気底入れ宣言の批判など。今では「恋愛する時間もない」というほど、圧倒的に増えた著作と電波への出演依頼。当然、逆風もある。竹中平蔵・金融担当大臣の緊急プロジェクトチームのメンバー、木村剛は次のように語る。

 「リアリストの僕は理想主義者の金子さんを尊敬し、羨ましく思います。ただ、金子さんは目覚ましい言論人ですが、実践者ではない。格闘技評論家がリング上の血みどろのレスラーをアホと言えるけれど、じゃ実際に闘って勝てるのか?言っていることは極めて正論なんですが、批判するだけで世の中が変わるとは思えません。政治家や官僚を叩くのは簡単だけど、政策現場を動かすためには、それなりの苦労が要る。金子さんには得意分野で第一級の理論を構築してほしい。しかし、メジャーになったのですから、現実に闘う人間への思いやりも必要ではと思う時があります」

 実は、「理論に帰れ」という声は若い金子ファンからも聞こえる。京都大学学生・鈴木洋仁は金子の『セーフティーネットの政治経済学』(ちくま新書)に感動、1年休学してニセ学生として金子の授業に通い詰めた。今やメディアに消費されつつある金子を憂慮して語る。

 「先生には天気予報のような3月危機説の発言などやめて、早く本格的な理論構築に取り組んでほしいですね。テレビでの、あの分かり易い言い方や説得力は人々を思考停止に誘い、むしろ癒しに似た安堵感を流布させていて、金子さん本来の仕事ではないと思います」

 金子が勝負を賭ける「メジャーリーグ」とは、アダム・スミス、マルクス、ケインズなど経済学の歴史で体系を残した人物に伍することである。「そういう著作を残したいという夢があります。社会哲学、歴史哲学、経済学批判の3冊を書かずに死ねません」と金子は言う。

 酒を1日も欠かせなかった彼は2年前に禁酒した。尿道結石、肝脂肪、血糖値どれをとっても危ない、と医者から言われた。禁酒して変わったのが文体だった。それまで「と考えられる」「と言えなくもない」という学者的表現が、「だ」「である」とシャープになった。

 50歳にして酒を断って夢を追う。自分に負荷を掛け、「家庭内ホームレス」状態に自分を追い込む。東京・駒込に家を建てたが、妻と娘二人は新居に移動し、彼はそれまでの所に一人残った。あまりに乱雑を極めるそこは、時に学生が掃除にくる。家族がいる家には「もらい湯」に立ち寄る程度で、深夜まで執筆し、コンビニで買った食事で飢えをしのぐ。レトルト食品を当てるワザで「TVチャンピオン」になれる自信がある。

マスコミの検証力劣化に警鐘

「みんな、どうしたんだ!」

「ネオフィリア」は叫ぶ

 金子の発想と分析は、今や海外からも注目されている。中国社会科学院から岩波書店『反グローバリズム』、NHK出版『日本再生論』の中国語訳が刊行された。フランス国際問題研究所や韓国からも翻訳の希望が来ている。「東アジア経済圏」の確立が急務な時、金子への期待が募るが、彼はクールに言い放つ。「石原慎太郎を宰相に!なんて言ってるうちは、そんなの絶対実現しませんよ。前の戦争の総括もしないで、アジアの人たちを説得できるわけがないでしょう」

 この「状況認識」が彼をメディアに向かわせる。「おいみんな、どうしたんだ!と言いたい場面がしょっちゅうです。96年の住専問題ぐらいから新聞の検証能力がダメになり、マスコミはこぞって無責任・同調社会を増幅させています」

 流れに身を寄せて同調するのでなく、「対抗軸」、「逆張り」をゆくスタイルで来た。ナショナリズムで群れたい奴は群れろ。たった一人でも生きてゆく価値があり、そのルールや規範をどう作るかに彼は心を砕く。「引っ張りだこ」と「孤立」の矛盾した二面性を引きずりながら。

 「メディアや論壇で、無責任な輩はますます増長しています。メディアが権力に弱いものとはいえ、この国はあまりに目に余る状況ではないでしょうか。学問の世界では、もっとひどいアメリカ追随が行き交っています。とりわけ経済学は無残な状況です」

 そうして迎えた「イラク開戦」である。こうなることを洞察して1月に『反ブッシュイズム」(岩波ブックレット)を既に刊行している。ブッシュ演説があった3月18日、彼は語った。

 「歴史の転換点に、こんなに劇的に遭遇するとは思いませんでした。驚くべきは、イラク攻撃後の世界がどうなるのか、誰もそのプランも構想も持っていないということです。イラク開戦は世界の全く新しい『ご破算』です。過去の、習い性の考え方を突破して、自分をリニューアルしなければなりません」

 新しい、稀有な対抗軸を作るために金子勝は一匹の「ネオフィリア」でありつづける。

 (文中敬称略)

 

金子勝氏ツイッターアカウント


音楽の使徒として黄金の鎖につながる

2011-11-30 16:29:58 | 人物
所沢市文化振興事業団発行「Info Mart」1995年3.1 Vol.2掲載


文化のバトラーを訪ねて(2)

カザルスホール総合プロデューサー 萩元晴彦氏


 サントリーホールを建てたのはウィスキーの会社だった。魂を吹き込んだのはプロデューサー萩原晴彦だった。

 サントリーホールを世界的なオーケストラ専用ホールへと離陸させた萩元は「劇場支配人」の地位に居続けるには、あまりにプロデューサーでありすぎたのかも知れない。新しい自分自身に出会うことを面白がる本能が彼を次なる仕事に導いた。

 カザルスホールを建てたのは、主婦の友という出版社だった。この建造物にもまた、魂と哲学が必要だった。萩元のところに総合プロデューサーになって欲しいという要請が来たことに、彼は人の意思を越えたものを感じた。

 「サントリーホールのオープニングシリーズで僕はやめようと思ってたわけじゃないんです。途中からカザルスホールの相談を受け、これはやるべき仕事だと思った。神の見えざる手に導かれ、としか言いようがないのです。」

 昭和22年、夏の甲子園大会で松本中学(旧制)の投手として活躍した萩元は、1977年から3年間、押しかけコーチとして毎週土曜日、東京から長野県松本市の母校野球部のグラウンドに出向いた。その時、主婦の友社『私の健康』の女性記者が松本まで萩元を取材に来た。彼女はたまたま社内の新ホール開発プロジェクトの一員だった。萩元と主婦の友社との出会いである。

 かつて萩元は、1970年に開催された大阪万博博覧会の電電館のプロデューサーを務めたことがある。それに先立つモントリーオール万国博覧会のパンフレットに萩元は興味深い文章を見つけた。それは、いいパビリオンのための二つの必須条件だった。



 一、何をやるかを決めてからパビリオンを建てなさい。

 二、そのことを深く愛している人間をプロデューサーにして、彼に任せなさい。そして狂い死にするくらい彼に仕事をさせなさい。




 萩元は言う。「一、について、残念ながら日本では、設計図ができてから、さて何をやるのかという企画委員会を召集しますね。僕もある地方都市の文化ホールの委員を頼まれたことがあり、その席で、まず建築をストップせよと主張して物議をかもしたことがあります。僕はこう思います。建築物のコンペの前に、まずソフトのコンペをやるべきです。そのプランをオープンにしてから建築のコンペをすべきだと思います。日本では順番が逆ですね。企画コンペそのものが建物のパブリシティになるはずなのです」

 磯崎新の手により設計されたカザルスホール。萩元の頭にひらめいたのは「室内楽」だった。その時、彼にひらめいたのは「ことば」ではなく「旋律」だったかも知れない。

 「日本にはもっと室内楽が必要だ、という小沢征爾さんの意見を常々聞いていましたから、自主公演を核にした室内楽専用ホールに、というコンセプトを僕はたてたのです」

 《多目的ホール》全盛の当時、室内楽専用ホールをうたうことは無謀ではなかったか?アーチストを次々よべるのか?採算は合うのか?時には演歌や落語もいいんじゃないか?

 しかし、萩元には室内楽に特別な思いがあった。演奏の上では命令・服従の関係でなく、自立した音楽家によるアンサンブルの芸術であること。思えばプロデューサー萩元晴彦の歩みそのものがそれに重なる。

 TBSという巨大企業を離れ、テレビマンユニオンという組織を作った。株式会社にして創作集団の代表として、二律背反の組織運営に悪戦苦闘して来た。その萩元にとって室内楽は調和と創造の極み、天才たちのいとなみであった。よし、この場をアンサンブルの会堂にしよう。

 その時、ホールは器ではなく、人格となった。


 客席数511のカザルスホールが世界的な室内楽ホールの評判を得ながら、それを持続させる実務と収支の困難は想像に難くない。テレビマンユニオン主催公演など、「オーケストラがやって来た」のノウハウと、アーチスト・ネットワークがあって初めて乗り切れた部分もあっただろう。

 「スポンサーがつけばいい、と簡単に言いますけどね、アーチストの契約って、3年先の分を行わなくちゃいけないんです。そんな先のことでスポンサーなどつくわけがないんです」

 今から3年先にはカザルスホール開館10周年が待っている。そのための企画と交渉のことで萩元の頭脳は回転している。

 「ゾウリ取りをしながら天下取りを考えている若き秀吉の心境です」と笑う。

 プロデューサーは後継者の教育をどう考えているのだろう。

 「チェロ奏者のヨー・ヨー・マに会いに行く時、一緒に行ったアシスタントに、僕が事故にあって一人で彼と交渉することになったら、君は彼に何と言うか、と質問したことがあります。そういう教育をしてゆかなければいけないのかな、と最近考えることがあります。アートマネジメントの学校はありますが、現実の場面でどこまで役に立つものやら。実践的なセミナーが必要で、それから、1年ぐらい、いいホールに出向いて勉強することをしたらいいでしょうね」

 サラリーマンではなくインディペンデントなプロデューサーは、自分の考えをオーナーとスタッフの両方に、明快に説明できなければならない。哲学を持つこと、哲学なしに始めると問題が起こる。哲学があっても問題が起きることがあるのだから――。


 萩元晴彦はホールプロデューサーのモデルとして、イギリス、ウィグモア・ホールのウィリアム・ラインの名前をあげる。市の予算で運営される音楽ホールのマネジャーとして彼は、館内を案内する女性のマナーやポスターのデザインにも気を配る。そしてピアニスト内田光子によるモーツァルトのソナタ全曲演奏を「水曜日のミツコ」といった魅力的なタイトルで企画し実現させた。すべては音楽を愛するがゆえに。ラインもまた音楽の神に仕えるバトラー(執事)のこころを持って客をもてなす。

 新約聖書の冒頭は、キリストにいたる予言者たちの系図が語られている。萩元は天才音楽家たちの系図に自分がつながっていることにひそかな自負を持っている。

 カザルスホール開館公演によんだピアノのホルショフスキーの先生はレシェティツキー、その先生はチェルニー、その先生はベートーヴェン。萩元はこれを「黄金の鎖」と呼ぶ。ホルショフスキーに学んだ相澤吏江子はカザルスホールが世に送り出したピアニストだ。

 萩元晴彦は、この黄金の鎖の端を握る人として、音楽の使徒の系図に加わる。これは世俗の利得を越えた、プロデューサーへの恩寵である。

(敬称略)


わが椅子はファーストクラス 

2011-11-29 00:03:00 | 人物
所沢市文化振興事業団発行「Info Mart」1995年 Vol.1掲載

文化のバトラーを訪ねて(1) 

カザルスホール総合プロデューサー 萩元晴彦氏


 カザルスホール総合プロデューサー、萩元晴彦は「プロデューサーになるには試験も免許もいりません。印刷屋に行って名刺を作ればなれますよ」と言って笑った。

 世にプロデューサーを名乗る人は多い。企画を立てる人も多い。しかし、企画を実現させ、アーチストと聴衆の両方を満足させるプロデューサーは少ない。萩元は数少ないプロデューサーの中でも先駆的な歩みをしてきた。

 TBS社員時代とテレビマンユニオン創設を通して数多くの話題作、問題作を放送番組として世に送り出した。その中には王将戦のドキュメントもあれば、日本初の3時間ドラマもあった。いずれも放送界の常識を破る試みだった。また「オーケストラがやってきた」という番組が音楽界に与えた影響もはかり知れないものがあった。

 その萩元に、サントリーホール出発の時、総合プロデューサーの話が来た。企業名を冠した音楽ホールも珍しいが、プロデューサーを迎えることも話題となった。

 「ぼくはその話が来た時、二つのことを考えました。一つは、何をするのか、何のためにこの仕事をするのか。自分で考えなくちゃならないな、と思いました。プロデューサーという仕事は日本ではあいまいで、概念規定がありませんからね。もう一つは、引き受けるに当たっては小沢征爾さんに相談しよう、ということでした」

 最初、小沢は賛成しなかった。このホールにどれだけフィロソフィーがあるのか疑わしく、何より、企業名を冠したところに宣伝意図が見えすいていたからである。ある日、小沢はサントリーホールの社長、佐治敬三に聞いた。

 「佐治さん、あなたが死んだら、サントリーホールはどうなるの?」

 この質問が、佐治にプロデューサーの必要を一層痛感させたと考えていいだろう。

 萩元は言う。

 「世界中のホールを知り尽くしている小沢さんにして初めてできる率直な質問です。小沢さんはこの質問を通してホールの哲学を問うたのです。ウィスキーが売れに売れていた当時でも、大音楽ホール建設は企業としては重大決意であり、佐治さんがいなければできないことでした」

 サントリーホール総合プロデューサーに正式就任した萩元は、1985年5月15日、佐治の前で次のようなプレゼンテーションを行った。



 「初めに音楽ありき。音楽こそがホールの主人(あるじ)である。そこに美しい音楽がみたされなければならない。クラシック音楽専用のホールとして理想的な音響空間を有し、再現と創造の場として機能する。自主公演を企画、制作し、オープニングシリーズは音楽でいえば主題の提示部であり、通年企画は展開部である。

 ホールは音楽家にとって楽器である。そこで練習し公演するオーケストラを持つことを将来の課題とする。私企業のホールとして一切の官僚的規制を設けない。質の高いサービスも聴衆にも献身するスタッフを揃える。ここは商品開発の場であり、商品は不朽のロングセラー『クラシック音楽』であり、新しい発想によるマーケティング展開によって音楽人口の拡大を図る。以上を実現するために、私たち全員が音楽という主人(あるじ)の僕
である」



 ホールはスタートした。「小沢征爾とベルリンフィル」「内田光子とイギリス室内オーケストラ」といった一級の企画がオープニングシリーズを飾り、サントリーホールを一流のホールとして世界に知らせた。それも前述のマニフェストが血となり肉としてスタッフ全員に分かち合われたからであろう。

 準備段階の頃を萩元はこんな風に回想し苦笑する。

 「初めは、プロデューサーといえども時間給で、出勤簿に線を引かされたものです」

 雇う方も、雇われる方も試行錯誤だった。

 「ぼくなんか、ずい分なまいきと思われたかも知れません。準備やアーチストとの交渉のための海外出張はぜんぶファーストクラスを主張しました。ホールを設計した建築家の先生がファーストクラスなら、プロデューサーも同格じゃなきゃおかしい、という考えです。あとから来る人のために使命感もありました。どうも日本では建築家の方がエライということになっていますね」

 これは企画や方向性より先に建物の設計が決まってしまう風潮への警告である。同時にファーストクラスの感動に観客を誘うプロデューサーの自負も込められている。

 建造物には惜しみなく金が使われ、アーチストにもそれなりに支払われる。けれどもその二つをつなぐ知恵や志に費用が考えられていない。総じて「ソフト」と呼ばれる部分へのプライオリティ(優先順位)の低さは日本をユニークな文化国家にしている。しかしそのことを嘆いても何もはじまらないだろう。プロデューサーに戦略がないことを暴露するだけだから。

 萩元は連絡を続けている『婦人公論』の「プロデューサーは何をするか」の中で、《説得すること》こそプロデューサーの重要な仕事だとあげている。

 「プロデューサーは命令しない。技術を練磨して説得する。説得力は企画に対する確信と情熱から生まれる。まず企画。最後は魅力ある人間になること」(同誌、'94年11月号) 

 プロデューサーは文化のバトラー(執事)である。彼は芸術の神につかえる。企画も説得力も日常の実務も、すべて芸術への愛に裏打ちされている。そこではプロとアマの差もない。

 「愛情を持たないプロより、知識経験に欠けても、音楽に愛情を持ったアマチュアが一生懸命に仕事をすること、それが大事なのです。例えば、松本ハーモニーホールの館長さんは市の農政部長だった人ですよ」

 ソバやジャガイモの収穫を思案する人が、音楽に心をくだくということは自然なことだ。そこには宮沢賢治が描いたユートピアのイメージがわいてくる。現実はもちろんユートピアに遠い。だからこそ、時代は夢と現実をつなぐプロデューサーを必要としていた。童話「シンデレラ」に登場するおばあさんは、カボチャを美しい馬車に変える魔術を持っていた。私は「プロデューサー」という言葉からこのおばあさんを連想する。

 変哲のない空間も、プロデューサーの夢や企画力によって、人が集い、楽しみ、感動する場所に変えてしまう。プロデューサーは現実をおとぎ話に変える術を持っていると言うべきだろう。

 サントリーホール総合プロデューサーの席が温まる間もなく、萩元のところに新しいホールの仕事が舞い込んだ。日本で初めての室内楽専用ホールとなった「カザルスホール」。シンデレラのおばあさんは「魔術」を使ったが、萩元は何を持って新しい仕事場に乗り込んだのか。その話は次回にゆずりたい。

(敬称略)

「有期結婚」が結婚に、男と女に、そして日本社会に生命を吹き込み直す!1/2

2011-07-27 09:23:38 | 人物
ブライダル情報誌「マリッジ」1996年秋号掲載

Marrige Interview

今の結婚の在り方が日本をダメにしている!?
辛口プロデューサー、石井信平が提案する
これからの結婚のかたち。それは、「有期結婚」。
刺激的でロマンチックな男女の関係。


「有期結婚」が結婚に、男と女に、そして日本社会に生命を吹き込み直す!

マリッジ(以下M) 現在の結婚事情について思うところというと?

石井信平(以下I)  まず、「永遠の愛を誓う」ことに無理があると思います。

M のっけから過激ですね。それは、どういうことになりますか。

I 結婚式の時に、神父さんの前でも、神主さんの前でも、無期限の婚姻を誓い合いますよね。死ぬまで愛する…これが結婚の前提になってますでしょ?

 私の提案は、「有期結婚」。期限を決める。いかがです?

 例えば、5年なら5年で契約更改。マンションの賃貸契約とか、プロのスポーツ選手がチームと契約するように、配偶者と契約を更新しあう。その方が、改めて「また、この人と一緒になるんだ」「この人を選び直すんだ」という感激を味わえていいんじゃないかと思いますね。

 そして、その時のセレモニーは、派手か地味かといえば、きわめて地味でいいと思うんです。もう、2人だけのプライベートなセレモニーでいいから、「もう一度あなたを選びます」「あなたとの婚姻を壊したくありません」という気持ちを誓いあうセレモニーをやったらいいんじゃないかと思います。

 これが私の提案。ここから話をぶちかましましょう。

M 面白いですよね。

I え、そうですか?興ざめじゃありません?夢と希望のブライダル情報誌としては。

M いいえ、好きな人とは何度も結婚したいものですよ、女性は(笑)。

I ほう。

 これだと、離婚もしやすいですよ(笑)。世間も、「ああ、この人達は契約期限が切れたのか」ということで、納得しやすいし、離婚がたいそうなことにならない。

 でも、期限を決めるというのは、何かロマンチックでない、非常に即物的で、ビジネスライクで、事務的で、興ざめで…と思うかも知れない。ところが、その逆!期限を決める方が盛り上がるんですよ!

M だらだらしない!

I そう!無期限のハネムーンって、盛り上がります?三泊四日。この、期限がつけられた時の人間の盛り上がりようってないんです!

 だから、「有期結婚」。

 期限を決めることによって、よりロマンチックになろうと努力すること、努力しあう関係。その方が大切だと思います。

 それが唯一、日本の夫婦が、母親―子供関係に堕落していくことを防ぐ道ですよ。日本の夫婦関係って、親子関係になっていくんです。それは、一生だからですよ、夫婦関係が。「一生の期限」だから、男と女であることをやめちゃう。結婚というのは、やっぱり、男と女の結び付き。結婚した後も、男と女の熱いセクシーな関係であるべきですよね。

M さて、そうしますと、子供たちが親離れしていく、自立していくスピードというのも、かなり早まるでしょうね。

I 早まります。子供たちにはね、親たちの「有期結婚」の節目が、自分たちの成長の節目にもなりますから。だから、子供の人生にも、その節目をいい方向にしるしづけていくよう両親は努力すべきです。「お父さんお母さんは、この期限をもって、もっと高い方向へ飛び立つんだ」ということを、子供たちの前で宣言する。これが子供たちにいい影響を与えないはずがありません。

 3年でも、5年でも、区切りは二人で決めればいいことなんですが、どちらが継続を希望して、どちらかが「もうやめたい」と、意見が違った場合、これはとても無残で残酷なことですよね。

M  その時はどうしましょうか。

I  それは別れるといった人の勝ちです。「私は一緒にいたいからガマンして」というのは通らないんです、残念ながら。シビアなんです。

 だから、相手に「別れたい」って言わせちゃった方が負け。結局、相手にそう言わせちゃったというのは、彼、または彼女のいたらなさ、なんですよね。新しい次のカップリングで努力するしかない。

 でね、そういう勝負が何年か後に待ってると思えば、死に物狂いで磨き上げますよ、自分を。

 本当は結婚生活は何か、というと、それは財産制度。男と女が経済的に、どうサヴァイヴしていくか、という中で作り出した知恵なんですよね。でも、それだけではミもフタもないから、「永遠の愛」っていう幻想で飾る。だから、「永遠の愛」というのは、あくまでも必要なんです。今のブライダル状況では。

 だけど、どうでしょう。3日後には男も女も、もっといいのはいないかって思っちゃうんです。しょうがないでしょ?もう、そう思っちゃうような現実にあふれてるわけですよ。過ちもあるでしょう、浮気心もあるでしょう、スケベ心もあるでしょう。一体誰がそれを否定できますか?

 だから、すべては神の采配として、有期限のロマンス生活を期限内に精一杯やる、二人で演出しあう、自己演出する、自分を磨く、相手を磨いてあげる。そうやって二人の生活を、もう最高に甘くロマンチックな、素敵な、セクシーなものにしていく。そういう努力に向けての「有期結婚」提案なんです。

 しかし、考えてみれば、「永遠の誓い」なんて、そんな浮世離れしたもの、他にありますか?マラソンでいえば、永遠に走ってろってことですよ。こんなつまらない、残酷なこと、ないでしょ?

 そりゃ、80歳のおばあちゃんと91歳のおじいちゃんのカップルが、「もう無期限にしようや」っていうのなら大賛成。それはもう美しいです。でもね、20歳やそこらで「永遠の愛」を誓うって、何ですか、あれ。

 とにかく、結婚というものを、過去からの慣習ということから一歩進んで、男と女が主体的に選択する生き方なんだということを確かめる機会にしたいんです。だから、相手を選ぶ、期限を選ぶ、生活のスタイルを選ぶ。それが、結婚に生命を吹き込み直すことになりますよ!

 自分を磨き、相手が自分を磨く手伝いをしてあげる、二人で居心地のいい生活にしていく、期限内に精一杯努力をする。というのは、いいことだと思いますよ。

M  そうなると、日本は面白くなりますね。

I  社会は変わりますよ。人の選択を尊重しあう社会になります。そうなれば、タレントのくっついた、別れた、ばかりを追いかけるワイドショーの時間の無駄、エネルギーの無駄、人の人生にズカズカ入っていくという習慣もなくなるでしょう。もっと大切なことがテレビで論じたり報じられたりしなければならないのに、あんなことに電波が使われているなんて、腹が立ちますよね。





「スケベなオヤジつづけてゆきます。」 代々木忠 アダルトビデオ監督 2/2

2011-02-09 20:18:48 | 人物
撮影現場で気付いた
女たちの呼吸がおかしい
なぜ「イケ」ないのか


 女たちは代々木の前で、裸になり、セックスをする。金のため、好奇心のため、過去を断ち切るため、と様々だが、社会の常識サイドが、納得しようとする「出演理由」の詮索に何の意味があるだろう。

 私は、「理由」よりも、取材の過程で聞こえてきた、素人女性のAV出演の「結果」に興味を覚えた。

 音楽大学ピアノ科在籍、根岸えり、は私に言った。

「私って、バッハしか弾けない女でした。それが、監督のビデオに出た後、ロマン派の曲を弾けるようになったのです。それまで頭と手だけで弾いていたのが、心をこめて弾くということが分かってきたような気がするのです。……あ、それから、私、深い呼吸って出来なかったんです。監督に教えてもらって、ラクに息ができるようになりました」

 撮影現場で、女性たちの「呼吸」がおかしい。代々木は数年前から気付いていた。ちゃんとした、深い呼吸ができない。自分の呼吸をコントロール出来ない。

 彼は本を読み、座禅や瞑想も実践して独自のブリージング法を体得し、「あげまん呼吸法」と名付けた。

「前頭葉に理性があり、胸に感情があり、はらわたの闇に本能が沈んでいる。この三つを貫いて風を通してあげるのが呼吸法です。これをちゃんと教えて、そして男優とセックスする。ふだん考えられないくらい、長時間、丁寧に、中身の濃いセックスです。その間、激しく深い呼吸が繰り返し行われ、彼女の本能を抑えていた横隔膜の底が抜けて、イッテしまうのです」

 一般に、何でこんなに「イケ」ない女たちが増えてしまったのか、これが代々木の実感である。長いインタビューにより、徐々に脳のソフトを組み替えてやることの大切さに彼は気づき、こう言う。

「人間の原脳と動物脳には、食べる、眠る、排泄することをコントロールするソフトがあらかじめ入ってます。脳にはもう一カ所、新皮質があり、ここにはソフトがないまま人は誕生する。その後の躾、教育、メディアによる洗脳によって、無垢な脳は煮しめられる。いくつものトラウマが閉じ込められ、本能は否定され、氷の固まりとなって沈澱する。呼吸法とソフトの組み替えは、それを溶かし、気の流れを作ってやる作業なんです。そこで初めて、いいセックスができる。相手との融合が起こる。コミュニケーションの第一歩が始まる。自然や宇宙との融合のキッカケです」

 そして、代々木が意図しない、まして女が思いもよらぬ出来ごとが起こった。セックスによる「癒し」である。根岸えりが、ロマン派のピアノ曲を弾けるようになったのが一例である。彼女は、その時の実感を「自分とつながった」と言った。

 『プラトニック・アニマル』『オープン・ハート』『色即是空』(いずれも情報センター出版局)の著書に加え、最近は『恋の女王様・素直な快楽のために』(KKベストセラーズ)という呼吸法の本を出した。彼の言葉を編集した本橋信宏『愛の呪文』(飛鳥新社)、山田陽一『愛の学校』(夏目書房)という労作もある。彼を知る手掛かりに事欠かない。

「本を出した後って、恥ずかしいですね」

 彼はことばを耕し、そこに定住することをしない。スケベなノマド(遊牧民)として、移動をつづける。彼の演出とは、ヤラセと本当、日常と非日常、本気と芝居……その間の境界線を疑い、平気で越境し、その上で人間の本能のふしぎを見せてくれる。好評シリーズ「ザ・面接」の一本を見てみよう。

 「本当の面接」と思ってやって来た素人女性に三人の男優が面接する。面接の途中で、「じゃ、スカートめくって」と言われると、彼女は、「面接」と「めくる」が結び付かずに混乱する。どんどん服を脱がされ、メンセツと言ったのに何これ、と抵抗しながら、応接間からアテナ映像のオフィスに連れていかれ、経理のカウンターの上に裸で横にされる。すぐそばで女子社員が電話をかけている。「仕事」の場でこんなことしてる私。外から駐車違反を警告するパトカーの、間抜けたアナウンス。度肝を抜く事態と、まわりの、あまりに変哲ない状況との落差に、代々木の声が追い討ちをかける「お芝居でいいんだよ」。錯乱と抵抗の時をへて、彼女はホンキで感じはじめる。

 その過程で女の顔が、どんどん変わる。オーガズムのあとの顔は美しい。男優もその顔に見とれる。長い抱擁とくちづけ、そして女の目から、ホンモノの涙があふれる。「こんなに、イキが相手と合い、こんなふうに目を見つめられ、大事にされてセックスしたの、初めて」と男にかじりついて女は泣く。

 やがて、カメラをもった代々木が声をかける。

「あなた、十四歳の時、レイプされたって言ったよね、それで、そういう自分を許せなかったんだよね。それ以来、自分を閉じ込めて、レイプし続けてきたんじゃないかなぁ。……もう、自分を許してあげようよ、……仲良くしてあげようよ……」

 その時、代々木の胸に、埠頭に土下座し、法廷に立たされた、孤独な自分がダブったに違いない。自分以外、だれが、自分を肯定してくれるか。だから、自分を許し、仲よくしよう……。


自分以外、だれが自分をこうていしてくれるか 
だから自分を許そう


 人が、真の苦悩にゆき暮れた時、ニヒリズムをくぐる時、どう耐え忍ぶであろうか。私は、ふたつの態度があると思う。

 ひとつは「ユーモア」で笑っちゃう。

 もうひとつは「逆説」で対処する。たとえば、現実をフィクションとみなす。

 私は代々木を考える時、何と「逆説的」な人だろうと思う。代々木忠という存在、行動、表現の持続、すべてが反語的、逆説的に見える。たとえば、日活裁判被告団のなかで、一番ダメとみなされた彼が、斎藤正治の表現によれば「最後まで戦う意思と行動をもったのは渡辺(代々木)だけだった」。

 彼はワイセツのかどで法廷に引き出されたが、「セックスは美しいという信念を鍛えてくれたのは、法廷だった」と今、逆説的に述懐する。

 かつてAVでの催眠を揶揄されたが、彼は反語的レトリックでこうつぶやく。

「今の教育、文化、メディアによって、現代人は催眠術にかかっていないでしょうか?」

 ここまで書いて、戦時中に『反語的精神』を書き、その姿勢で生きた林達夫を思い出した。今、代々木忠の時代とは、再びめぐってきた「反語的時代」である。厚生省が人を殺し、テレビ局が調査に無力とは、ブラックユーモアであり、何という逆説の時代だろう。「自分の中の自然を大切にしないで、どうして、地球の自然を守れなんて言えるんでしょうか?」という彼のことばは、素朴な、反語的な問いである。

「スケベなオヤジをつづけてゆきます」

 そういう代々木のところに「出演したい」という女性からの手紙が来る。病院の神経科にいけば、彼女のゆくてにどんな「処置」が待っているか。それは、癒しを求めるメッセージだった。

 一方、催眠にも呼吸法にもキョトンとして、何の反応もしないで股を広げる女の子も登場してきた。そういう「現代」を生きるAV監督・代々木忠だから、私は敢えて「肖像」に選んだ。私たちが見てみぬふりをするセックスに、律義に取り組むドン・キホーテが、ここにいる。(文中敬称略)


おわり

週刊『AERA』1996年6月10日号「現代の肖像」掲載

「スケベなオヤジつづけてゆきます。」 代々木忠 アダルトビデオ監督 1/2

2011-02-03 18:40:06 | 人物
ヤラセと本当、本気と芝居…。セックスを商売にすべくビデオカメラを回しながら、代々木流演出は本気をもとめて境界線を行き来する。

アダルトビデオ志願の女たちのなかに、「自分を肯定できない」かつての自分を見出したとき、意図しない出来事が起こった。



 私は、代々木忠の「オナニー・シリーズ」に出会った時の驚きを忘れない。普通の主婦が、代々木のインタビューに対して、初めはシラを切りながら、やがて次第に屈服し、恥じらいとためらいの区別がつかないまま発する「ことば」に自ら興奮してゆく…。

 女優というには遠い器量である、どうせ、ギャラをもらったらさっさと帰るんだろう、これは「ヤラセ」だろう、と思いながら、それに見とれている私。

「きょうは、イヤラシイこと聞くからね」

 ビシリ、低音の代々木の声に、女はどんどん反応してゆく。これが代々木作品の醍醐味なのだ。

 これには注釈が必要だ。「どんどん」脱いで、イヤラシイ恰好をする、というんじゃないのである。とりすまし、キレイを取りつくろう女が、やがて、羞恥心の限界まで追い詰められ、徐々にその堤防も決壊して、ついにどろどろの洪水状況に、のたうつ、その一連の「言葉と心」のプロセスが、リアルなのである。

 このシリーズは十六本作られた。女がオナニーをする。コストを抑えた、シンプル極まりないこのAVが、根強い人気シリーズになった理由はひとえに代々木のインタビューにある。女の自分史とか私生活が答えの端々に垣間見えて、どれをとっても飽きないのである。あの、とりすました女が揺らぎ、堕ちてゆく恥じらいのダッチロールの果てに、こんなふうになるという「落差」への感動。セックスって不思議だなぁ、代々木のAVから受ける、レッスン・ワンである。

 AVで重要なことは、男が「抜け」て、女が「イク」ことである。どうしたらカメラの前で女を本気で「イカセ」るか、代々木は、その一点にこだわった。

 女が本当のことを言っているか、本気で感じているか、それを見抜くカンを、彼はどこで身につけたか。

 二十代の日々を、彼はヤクザの組員として過ごした。極道の世界では、対峙する相手を見抜かねば、自分のいのちも、組の存続も危うい。目の前の男が本当のことを言っているか、裏切りなのか芝居なのか――。人の心を瞬時に読む術は、死と隣り合わせで否応なく鍛えられたものである。

 彼は、三歳で母親と死別している。食べものを「横取り」しなければ生きてゆけない暮らしだった。昭和十三年、福岡生まれ。

 育った家は、駐留軍相手の売春宿だった。子供心に垣間見る性の不思議、計り知れない女の心理と生理。昼間、あんなにも優しい女が、少年を置き去りにして、夜の闇のなか、隣の布団での出来事は、無限の遠い彼方での、幻燈の絵のようだったろう。

 不良少年は普通高校に居着かず、定時制高校へと吹き寄せられる。補導、逮捕歴を重ねた青春時代を、彼は、こう回想する。

「居場所がない、根っこがない、甘えるところがない、誰ともつながっていない、受け入れてくれない、すべてが、敵に回っていく……」

 彼を受け入れてくれたのは、極道の世界だった。しのぎと抗争に明け暮れ、日本刀と拳銃を肌身離さぬ毎日。自分は組織の単なる道具にすぎないと気付いたとき、組を去る代償に差し出した左手の小指の先端は、足を洗うために支払ったものの、ほんの一部である。代々木の場合、やめたあとも、小倉港の埠頭で敵対する組織のリンチを受け、半殺しの目にあう。かつての仲間の所在を聞かれても、彼は口を割らなかった。知らないのだから言い様がない。死の恐怖に彼はションベンをちびり、土下座して命乞いをした。

「おまえは、それだけの男だったか」

 男たちのツバと罵声が投げられた。屈辱にまみれた、これは、語り尽くせぬ物語の一部である。

 その後、踊り子三人を連れての上京、ストリップ劇場のドサ回りからピンク映画の助監督へ、そして「無学な者だからワイセツなものを作る」という検事の、さげすみに満ちた言葉と法廷が、彼を待っていた。


日活ロマンポルノ裁判「辛かったのは被告団で差別されたことだね」

 1972年、三十四歳の渡辺輝男(代々木の本名)が制作した日活ロマンポルノ「女高生芸者」が摘発され、起訴された。彼は日活の下請け会社、プリマ企画の社員で、名目上の制作者だった。監督・梅沢薫は何故か起訴されず、のちに検察側証人として法廷で代々木と対峙する。これだけでもツライ体験だった。

 同時に摘発を受けたのが三本の日活作品で、社員監督三名、経営幹部二名、映倫委員三名、計九名が被告人となった「日活ロマンポルノ裁判」である。

 被告団の中で、代々木以外は会社や組合の支援があった。プリマ企画は早々と倒産して、代々木は唯一の後ろ盾を失う。裁判費用の捻出に、ピンク女優の妻を出産直前まで働かせ、生後四日目の赤ん坊を死なせるという悲惨も体験する。

「一番辛かったのはね……」いま、代々木は言う。

「被告団の中で差別されたことだね。夜間高校中退の僕以外は、全員、早慶か東大出の被告団会議で、あいつがいなければ、もっとレベルの高い文化闘争が出来るのに、と言われちゃうとね、コタエるよねぇ……」

 日活の組合が立てた弁護士による法廷陳述の要旨「ポルノ映画は退廃文化であります。映画労働者たる監督らに責任はなく、患者と呼ぶべきです」

 目の前に裁判官と検察官、後ろから、経済的逼迫、横に居並ぶ被告団からも孤立していた。代々木がこの時体験したのは、本当の「孤独」だった。

 自分を支えるものは、自分と「ことば」だけと思い知った時、代々木は、この一点は譲るまいと決意する。それは「エロを肯定する」。そうでなければ、自分が消えてしまう。裁判とは、よってたかって被告を否定しようとする儀式である。自分の存在を守り切るには……、ここで彼はその後の歩みを決定づける、次のキーワードを獲得する。それは、

「オレは、自分を、肯定する」

 1978年1月、被告人最終陳述の日、日活幹部の二人の被告、村上覚(のち日活社長)と黒沢満は陳述の権利を放棄した。代々木はまず立って六年に及ぶ裁判過程の思いを込めて、起訴の不当を述べた。

 今回、この陳述書を読みたいと思い、私は東京地検、総務部文書課に申し込んだが、「資料は五年をもって全て廃棄処分にする」という返事だった。幸い映画評論家の故斎藤正治が「日活ポルノ裁判ルポ」と題し、裁判と同時進行で毎号『キネマ旬報』に克明な記録を残している。

 代々木の最終陳述。

「精神文化に、法が介入することを認めるわけにはいきません。非人間的な特権階級が人々に押し付けた歪んだ性意識、暗くじめじめした性を、映画『女高生芸者』では笑いというオブラートに包んで、明るく健康なものに変えたと自負しています。その貢献度は、ワイセツなどという概念を越えた素晴らしいものだと、今でも信じて疑いません」

 そして、起訴されなかった監督・梅沢薫が、摘発と証人出頭などの一連の過程で監督生命を断たれ、一家離散に追い込まれた痛ましい事実にも言及した。斎藤正治は次のように書いている。

「陳述は真情あふるるものであった。六年裁判の私体験・私生活をさらしてのそれは、人柄を反映して、激しく、あるいはしんみりと泣かせた。被告席、傍聴席の幾人かは、目頭をしきりにおさえ、終わった時、拍手が起こった。裁判長は、この時は制止しなかった。」

 判決間近いある夜、彼と斎藤は二人だけで会った。その時の代々木のことばを斎藤は書き残している。

「最高裁までやります。高裁あたりで、ウヤムヤにせず、日本の文化のレベルを決めてもらいましょう。その為には稼がなくっちゃ。今度タレントの養成所を作ったんです。映画制作だけでは持ち出しですからね」

 一審無罪。検事控訴で東京高裁まで持ち越され、1980年、被告人全員無罪の判決をもって終わる。

 裁判と並行して、代々木はタレントプロダクション、㈱アクトレスを設立し、第一号タレント、愛染恭子のビデオ作品「淫欲のうずき」が松下電器のビデオデッキ販促用に採用された。ハードの中身に「エロ」は欠かせなかったのである。

 ビデオ時代の到来。ビデオテープの登場が、AV監督・代々木忠に新しいロング・インタビューの方法を可能にした。そうして始まったのが前記オナニー・シリーズである。自前の制作会社、「アテナ映像」を拠点に、矢継ぎ早の表現が始まった。


つづく

週刊『AERA』1996年6月10日号「現代の肖像」掲載

来日ドクチャンが語った「美人妻」との甘い新婚生活

2010-10-19 11:32:25 | 人物
 「ベトちゃん・ドクちゃん」は、米軍がまいた枯れ葉剤により「特別な子供」として1981年に生まれた。結合双生児の分離手術は88年に行われ、二人は別々な人生を歩み始めた。

 そのドクさん(26当時)が去年12月に挙式した妻テュエンさん(24当時)を同伴して2月24日に来日、大阪、長崎などを訪ね3月8日まで滞在した。二人は2年前にホーチミン市でボランティア活動中に出会い、恋に落ちた。

 妻「最初は、私の家族に結婚を反対されました」

 夫「僕は何度も彼女の家を訪ね、掃除や家事の手伝いを一生懸命しました。障害者でもふつうに暮らせることを伝えたいためです」

 妻「彼と一緒にいることが私の幸せなのだと、行動で示しました。2年間つきあって、彼と暮らすことに何の心配もありません」

 ドクさんは病院の事務員として働いている。

 「義母に苦労をかけたので、独立が僕の夢でした」

 一本ずつの脚を分け合った兄のベトさんは重い脳障害で寝たきりだ。

 「60人いる平和村という障害者施設には、僕よりも重症の人がいます。僕は日本の方々にも注目され、医療を受け、仕事ができ、結婚までして幸運な男だと思っています」

 二人は今、妻の家族と同居している。今ほしいものは何ですか?

 「家がほしい、そして子供が2人ほしいです。」

 かつて「特別な子供」として生まれた青年の、あまりにも「ふつうな」コメントが胸を打つ。

 日本では少子化とセックスレスが社会問題になっています。

 「こんなに立派に発展している社会で、全く理解できません」と彼は言う。もし障害児が生まれたら、という不安はありませんか?

 「生まれる子供のことは全く心配していません。たとえ障害児が生まれても精いっぱい愛します」

 結婚して一番変化したことは何ですか?

 夫「いろんな人の協力が必要だったのが、今は妻と二人で独立して暮らせるようになったことです」

 妻「彼をサポートする喜びが、自分をずっと大人にしてくれました」

 75年に戦争が終わって6年経っても胎児を障害児にする枯れ葉剤の恐ろしさ。生まれて、出会い、いたわりあう二人を前に、英国バンド「ジャミロクワイ」のHalf The Manを思い出した。“かつて僕は半人前だった。今、君と出会って一人前になった”。


石井信平

「週刊朝日」2007年3月23日号 掲載

旧秩序からの、脱藩者 『木村 剛』 2/2

2010-06-29 17:03:38 | 人物
具体的な提案は本に書く
書いたら次は実行に移す
そしてついに銀行を作った


 銀行員には言論の自由はないのか?名乗った上で大いに議論しようという気風はないのか?ヤクザが不良債権の根っこであることに言及しない日本の経済ジャーナリズムこそ問題だ、と指摘する『ヤクザ・リセッション』(光文社)は、発売後一カ月で7万部売れている。著者の「フォーブス」アジア太平洋支局長、ベンジャミン・フルフォードが語る。

 「日本の銀行がダメだということを、あそこまで徹底的に言ったのは木村さんが初めてでしょう。退場すべき巨大企業30社問題を提起したのも彼です。つまり彼は金融の世界で『王様は裸だ』と言い続けた。この国は、いろんな業界でそれを言う人物がもっと出るべきです」

 いろんな業界を統括するのが「官僚」である。官僚に対する木村の立ち位置はどうか。薬害エイズ問題で高級官僚が責任をとらずに逃げたことについて、木村は次のように発言している。

 「これからの日本にとって一番必要なことは、国家公務員の一人ひとりに相応の個人責任を負わせること。そのための法律を作るべきです。一つの仕事に携わった者はすべて連名で署名させましょう」(二宮清純との共著『野球と銀行』東洋経済新報社)。こんなに具体的提案を官僚に投げる「ビジネスマン」はめずらしい。

 彼がエコノミストや評論家と間違われる理由は、多くの著書を出版しているからだ。「どうしたら自分の本が売れるか努力しました。大前研一、堺屋太一など本当は読みたくないけど、なぜ彼らの本が売れるか必死で研究しました」

 最近の木村の出版連射支えている一人、アスコムの編集者・高橋克佳が語る。「本の力を信じているのが木村さんです。あのエリートがよくも、と思うほどゲラと格闘してくれています」

 このコンビで、あの1万ページを超える国会議事録を読破して作り、国会が言論の府ではないことを喝破したのが『粉飾答弁』上下1000ページである。さらに『竹中プランのすべて』を今年の3月危機にぶつけた。そして「日本振興銀行」の立ち上げに合わせて『金融維新』を出した。

 不順な夏の天候を切り裂くように、8月20日、木村は記者会見に臨んだ。「借り手主導の金融が今こそ必要です。中小企業向けに無担保、無保証、即決で融資する日本振興銀行の設立の申請をしました。本日、金融庁顧問の職は辞しました」


「木村剛」のブランドで
日本を覆いつくせ!目指すは
金融界のジャニーズ事務所


 日銀記者クラブには、まるで闘牛士を迎えるスタジアムのように記者たちが詰め掛けた。その割には質問に熱気はなかった。帰りの道で木村が言った。「最近の記者たちは、何が本質的で大事か分からなくなっています。僕への誹謗中傷は相変わらずです。サラリーマンなんだから『巨悪』に挑めとは言わない。でも、僕が書いた『粉飾答弁』など、本当はジャーナリストがやるべき仕事ですよ」

 木村はその後たて続けに日銀記者クラブで会見を行い新事業を発表した。カメラつき携帯電話で、物流と決済を一体化させた「携帯銀行」を実現する「メディアスティック」。そして、パソナと提携し、財務などの実務チームを企業に派遣する事業「MSP」。木村の持論は「起業とは健全な狂気である」。一カ月に三つのベンチャーを古巣の日銀でぶち上げる。妬みと敵意を受けかねない目立ちようだ。早くも作家・高杉良からは「木村は墓穴を掘った」と日本振興銀行の失敗を断定されている(「現代」11月号)。

 高杉や植草一秀(早稲田大学教授)は竹中・木村ラインに批判的だ。慶応大学教授・金子勝は、木村が「竹中チーム」という政策現場に入ったことで、不良債権処理の手法に一定の前進があったと評価する一方で、木村が大きな自己矛盾を抱えたことを懸念して語る。

 「チームに入ったことで、彼は年来の主張であった、公的資金の強制注入論や銀行経営者の法的処罰論も後退させました。『竹中チーム』に入る前だったら、りそな銀行の債務超過問題に黙ることはなかったでしょう。あるいは、今の枠組みでは、これも年来の主張であった中小企業を救うための中小銀行の改革は全くできません。頭のいい彼は、そのことを自分でもよく分かっているので『日本振興銀行』の設立にもコミットします。でも私には、彼がもがいているように見えます。彼の高い能力が消耗してゆくのではないか、それが心配です」

 木村が過剰な仕事をかかえていることは事実だ。そして、彼のクライアントたちは彼のベンチャー事業に対し、成功すれば彼を妬み、失敗すればバカにするだろう。木村はそういうリスキーな立場に自らを追い込んでいる。その疲労をいやす愛人や恋愛の影は彼の生活に皆無だ。周辺にいる数少ない女性の一人「メディアスティック」社長、宮内淑子が語る。

「新会社の経営戦略のアドバイスや財務を木村さんにお願いしています。彼は関わり方が中途半端じゃない、直球の人です。生きるとは誰と何ができるかです。彼は頭の中が建築家で、場を読むクリエーターです」

 一瞬のスキを突いてセンターフォワード木村が敵陣に駆け込む。彼にボールをパスした田村友一は語る。「木村君はゴールを決めても、他の選手と抱き合って跳んだりはねたりしません。『入れたぜ』とニッと笑い指一本立てるだけ」

 田村は富山市に本社をおく製薬会社・日本医薬品工業の社長だ。秋も深まる頃、同社が主催する木村の講演会があった。富山空港に着くなり、彼はせわしなく携帯を開き東京の秘書に電話を入れる。

 「そうか、よかった!」

 新しいコンサルタント契約が決まったグッドニュースだった。「受注残が3カ月程度先で、ストック商売じゃないので、常にジリ貧です」。彼の言論の「自立」を支えるのは、まさに地を這う商いである。

 富山全日空ホテルに北陸の医薬関係者が詰めかけた。金融を襲った自由化の波が、遠からず、旧厚生省と「護送船団」で来た医療業界をゆさぶることを強く警告する講演内容だった。

 「その時、霞が関のお役人が第一に考えるのは決して国民や業界のことではありません。自己保身です。そして世論への迎合です。皆さん、その時のための用意ができていますか?」

 講演後、結構な懇親会が用意されていたが木村は空港へ急ぎ、殺風景な空港レストランで「カツカレー」をかきこんだ。東京に戻る飛行機の中が、木村と差しで話し合える最後のチャンスに思えた。

 とっておきの不快な質問を、彼にぶつけた。

――木村さんは国策に関与している、いわば究極のインサイダーですよね。それを自分の会社経営や講演、執筆に使うというのは、商売上手というより、ずるいんじゃないですか?

 彼の眼がキラリと光った。一打たれたら、百打ち返す断固たる表情になった。

 「それは情報というものに対する勘違いです。インサイダーの時代はインターネットの登場で終わったのです。僕が関わった審議会の議事内容は誰でも見られるのです。マスメディアが情報のプロバイダーとして時代遅れになりつつあるように、今は本当に大切なのは情報をどう分析し検証するかです。僕は金融に関する目利きであり『伯楽』としてビジネスをしてゆきます」

 そして思いがけない言葉を続けた。

 「僕はコンサルタントで終わりません。政策提言、出版、教育、法務、情報発信など、あらゆる金融サービスを提供するナレッジ・コングロマリットを作り上げます。金融職人の『ジャニーズ事務所』です。そして、それのメドがついたら、今度は医療の領域に進みたい」

 木村剛というブルドーザーは、官僚と業界がつるみ、「護送船団」で来た明治以来の「国策のわだち」を逸脱して自分のブランド・ロードを作ることに賭ける。それが彼の「維新」であり、日銀ブランドからは「脱藩」して当たり前だった。

 見渡せば平成維新と呼ぶには若者たちは総じて無気力。かつて「草莽」と呼ばれた在野の志士たちはいずこにありや。群れることなく、ポマードが塗られた木村剛の頭脳が、まるでシャフト・ドライブのように高速回転し続ける。


旧秩序からの、脱藩者 『木村 剛』 1/2

2010-06-17 11:24:26 | 人物
KFi代表取締役社長 
木村 剛

「金融維新」を叫ぶ男が、新銀行を手掛けた。その名も、日本振興銀行。「ルール違反した銀行は退場せよ」などの情け容赦ない言動には「スタンドプレー」の批判も多い。でも、構うものか。最後にこの一言が、言えればいいのだ。「やってきたこと、間違ってなかったよなー」



 近代日本を作ったのは坂本竜馬たち「脱藩者」だった。旧秩序が保証する安定した身分を放棄し、貴重な人生をもっと創造的な喜びに捧げようとした志士たちがいた。それが明治維新だった。1998年、「金融維新」を目指す木村剛が日本銀行をやめたのは、思えば「脱藩」だった。

 木村はポマードでオールバックにした毛髪で人々に強い印象を与える。男性ヘア・ファッションでポマードは今や「傍流」だ。帽子やステッキのように人をノスタルジーに、時には「怪しい」気分に誘う。そんな彼への誹謗記事には事欠かない。曰く「権力中枢に出入りする怪しい策士」、「金融をネタにする自作自演男」。悪口は嫉妬の裏返しである。それは「群れない」「出来る」男への畏怖である。

 彼は東京大学経済学部を85年に卒業して日銀というトップブランドに入り、出世街道を順調に駆け上っていた。日銀「国際局海外市場グループ」で彼の部下だった池田健三郎は語る。

 「私は木村さんはやめるだろうと思っていました。日銀にいる器じゃない。徹底した縦割りと年功序列の職場で自己実現を果たすのは無理だと判断したのでしょう。彼の能力は並外れていました。どんな上司も知識、論理、判断力で彼にはかないませんでした」

 池田も99年に日銀を辞め、政策プランナーとして独立している。

 新日銀法が施行されたとはいえ、日銀の法的なステータスは「認可法人」で国策に対する影響力は「日本赤十字社並み」という自嘲も行内にはある。「自体を見守り、適切な対応をしたい」が国会答弁や内部文書の常套句だ。

 そのような職場から「脱藩」する、それは彼の冷静な戦略だったのか?いや、起業への衝動であり「狂気」に近かったと木村は言う。選んだ道は、外資系コンサルタント会社KPMGだった。金融、監査、税務、リスク管理などで世界最大級の活動をするプロ集団だ。彼は企画書を書き、アメリカ本社に乗り込み、日本法人をゼロから立ち上げるプレゼンでOKを獲得した。天下りでもヘッドハントでもない、自力セールスである。KFi(旧KPMGフィナンシャル)の船出だ。今は微笑しながら木村は言う。

 「36歳で日銀をやめた時、既に6歳と4歳の子供が2人いました。もし3人いたら、やめていなかったでしょうね」

 日本の金融トップブランドから、「外資の手先」へ。脱藩した志士が「黒船」に乗り込んだのである。事務所を丸の内の一等地、三井ビルに構えた。自信のほどが窺える。しかし、脱藩して得た彼の自由は、7,000万円の米国資本に瞬時に買い取られたも同然だった。

 「アメリカ本社から監視され、『利益を出せ』と叱咤される毎日が始まりました。事務所の敷金2000万円、会議室の内装リフォーム代3000万円で敷金は3分の1になりました。スタッフ3人で足を棒にして営業に歩き、売り上げゼロがエンエンと続きました。夜中にはニューヨークからの電話会議に呼び出され、『売り上げはどうした』と叱られる日々でした」

 焦燥の昼、眠れぬ夜。朝は東からくると知りながら、闇へ闇へと流される孤独。当時彼にとってたった一つの救いがゲーテの次の言葉だった。

 「焦りと後悔からは何も生まれない」


モノを言いたければ自立せよ
ルールは守れ、フェアであれ
他方、情にもろい一面も


 講演や執筆で食いつなぎながら、会社を立ち上げて半年後、初めて「お客様」がついた。

 「今、自分の人生を振り返って最も達成感を感じた瞬間とは、初契約のお客さまがついた時と、去年の10月に竹中プランを作り上げた時でした」

 この経験を通して、彼は東大でも日銀でも学ばなかった大切な言葉を「はらわた」に染みこませた。それは「お客さま」という言葉である。顧客なしにありえない自分の会社、暮らし、金融政策。彼はあらゆる著作の中で、エコノミストや銀行家が顧客と言い流すところを、必ず「お客さま」と書く。筋金入りのエリートが地を這う営業をし、顧客に頭を下げる。テレビでは、「傲岸不遜な論客」だが、顧客あっての「商人」であるところが、他のエコノミストや評論家と隔絶して違う点である。その会社は3年前に、自らの出資を加え「100%日本資本」へ必死で切り替えた。彼は「株主」の大切さも知り、感謝を今も忘れない。

 木村は自分のことを「従業員50人、中小企業のオヤジです」と講演のマクラで語る。国家の金融政策に深く関与しながら、そりゃないだろうと言いたくなる。木村には「金繰り」「倒産」「夜逃げ」の雰囲気は微塵もない。3人だった彼の会社は今や従業員50人、燃焼10億円。規模は小さくても先を行くマッキンゼー、ボストン、トーマツなどコンサルタント大手を視野に入れている。

 起業の滑走路から離陸し、自力飛行へ!その愚直なほどの自立衝動はどこから来たのだろうか。木村は小学校5年生の時「プチ家出」を実行し、富山市郊外の河原で夜を迎えている。

 「家父長的な父親への反発からでした。所詮その時は、自活も出来ない無力な自分を知っただけに終わり、独立したいという心中の声を確かめました」

 父親は耐火レンガ卸の中小企業で働くサラリーマンで「他人の家は関係ない、ウチはウチだ」が口癖だった。

 まるで家や父を忘れたいかのように、小、中、高校と汗みどろで打ち込んだのがサッカーだった。ポジションは常に最前線で攻めるセンターフォワード。彼の金融政策への提言は「ルールは守れ」「フェアであれ」に徹底している。その根っこにあるのがサッカーである。

 県立富山中部高校のチームメートで、現在は某メガバンクの部長代理を務める男性が、当時を語る。「木村にボールを渡せば何とかしてくれました。みんな彼のことを富山弁でアンチと呼んでいた。頼りがいのある兄貴という意味です」

 大学受験のため3年生の木村はチームをやめた。彼を欠いてチームは敗退した。部長代理は続ける。「8月の徳島での全国大会に向けて、もう一度木村のパワーが欲しい。僕らは数人で木村の家に自転車で押しかけ、参加を頼みました。『みんなの役に立つなら』と彼は泣いて親を説得してチームに復帰してくれました」

 これは、竹中平蔵から「私を支えてほしい」と懇願されて金融戦略プロジェクトチーム入りした経緯を髣髴とさせる。

 「竹中氏と自分とは考え方が違う点がある」と言いながらの応諾だった。木村は自分を必要とされることに「男気」を感じる。乗りが「体育会系」である。

 徳島大会は1回戦で敗北だった。フィールドを去るとき、負傷した前出の部長代理を背負いながら、木村は言った。

 「またガンバローなー。やってきたこと、間違ってなかったよなー」

 彼は中学で2回、高校で3回インターハイに出場し、高校2年には富山県選抜チームで国体にまで出場し、すべて1回戦で敗退した。木村は「全国制覇」に挑戦し続けた男だった。

 現役合格した東大で、彼はなぜ経済学を選択したのだろう?家出までした「自立衝動」ゆえ、親からの学費送金を断った。肉体労働から家庭教師までアルバイトに明け暮れ、食事は1日1回、学食で「カツカレー」の毎日。そして、偶然テレビで見た番組『選択の自由』(TBS)が彼を魅了した。

 ノーベル経済学賞を受けたミルトン・フリードマンの著書をタイトルにした番組だ。政府の介入を最小限にし、経済を市場の自由にまかせればどんな未来が開くかを論じた8夜連続のテレビセミナー。木村はそこに「自己投機」して走破できるフィールドを発見した。これに触発されて書いた論文「消費者行動理論の再構築」は大内兵衛賞に入選する。

 「僕は一人の人間が生涯に究められるジャンルはたった一つだと信じています。そして金融を選び、この分野では誰にも負けまいと決意したのです」

 卒業の85年は「プラザ合意」の年、金融自由化の波が押し寄せていた。「これから金融こそ面白くなるはず」と銀行を受け、最初に決まったのが日銀で、日本興業銀行からの合格通知が1日遅かった。もし興銀(現・みずほ銀行)を選んでいたら、今は金融庁の検査におびえながら不良債権処理で徹夜を続ける木村だったかもしれない。

 銀行に対しても常に厳格なルールを適用し、違反すれば待ったなしの退場勧告を主張するレフェリー木村剛は、当然銀行界からは嫌われている。しかし正面切った木村批判があまりに少ない。東京都心にある某メガバンク支店長が語る。

 「木村さんの言動はスタンドプレーで、正論ゆえにキレイ事です。物事は杓子定規にゆかず、現場はどれほど大変か彼はわかってないですね…僕の氏名と銀行名は絶対に出さないで下さい」


つづく


2003年11月24日発売 AERA 「現代の肖像」掲載より


「新しい命をくれた沖縄」 脚本家・高木凛 

2010-04-07 09:29:09 | 人物
風と、光と、ゆっくり流れる時間が、病いに捕らわれた私を解き放った


取材執筆 石井信平 


 病いとは、不思議な乗り物である。病人を苦悩に閉じ込めたまま停止することもあれば、思わぬ場所に連れて行き、めぐり合いを作る。脚本家・高木凛さんは、7年前の乳ガン手術後、心身の疲労を癒そうと沖縄に出掛けた。それは逃避行であり、ふるさとへの帰還のようでもあった。

 「自分でも、心の中で何が起こったのかわからないのです。心療内科に行けばよかったのでしょうけど、自分が乳ガンであわただしく手術した後、立て続けに、舅、姑がガンになり、その対応に疲労困憊していました」。

 それでも仕事人間の高木さんは、病気を吹っ切るためにも2時間ドラマの脚本執筆を引き受けた。資料を読み、プロットを作った。さあ書こうとして、まったく筆が進まない。空虚な感じを埋めるのが、ただ焦燥感だとしたら、人はその場にとどまっていられないだろう。思い立って出掛けた先が沖縄だった。

 ひとり旅の長逗留が始まった。締め切りを真近にして東京の放送局に電話をした「すみません、書けないので今回は降ろしてください」。
 作家にとって致命的ともいえる言葉である。ガン体験は高木さんから一時的に書く能力を奪った。しかし、決して無能力にしたのではない。大きな仕事から降りた時、彼女は何か巨大なものを「背負い投げ」のように投げ飛ばしたと言えないだろうか。健常者が作り出す掟や、生活のリズムや、早駆ける時間の移ろいに対して「不服従」を決めたのだ。

 「何で沖縄か、とよく人に聞かれるのです。ふいに沖縄が私の前に現れた、衝動ですね。人と自然と神が、混在している、当たり前の姿がそこにありました。神といっても、人々が畏れの対象をもっているということです。そこから本来の人間の姿が見えてくるのです」

 沖縄の光と風が全身を包んでくれた。テーゲー(大概)なゆとりで彼女を遇してくれた民宿の人々。久高島に古代から伝わる神事への畏怖と陶酔の体験。そして、ゆっくりと流れる時間。高木さんは、そこで文字通り「解き放」たれて時を過ごした。いったい彼女は、何にそんなに疲れきったのだろうか? 沖縄で「本来の人間の姿が見えてきた」というなら、それまで彼女がまみれた日本の医療は、何を見てくれていたのだろうか? 高木さん記憶がよみがえる。

 半日以上も待たされた末の、三分間のあわただしい診療。ガン告知をされ、「すぐ手術です」と言われ、考えるいとまもない入院・手術の段取り。インフォームド・コンセントは患者が学習してくるのが当たり前、の風潮。丁寧な説明がないまま、切り取られる臓器。

 「義母の胃癌手術のとき、膿盆に一杯に取った臓器を見せられたのはショックでした。高齢で小柄な義母から、こんなに取ってどうなるの、という思いでした。医療技術は間違いなく進歩しているのに、一つ進んでいないのが「死の教育」(デス・エデュケーション)ですね。イギリスやドイツにあって日本にないのが、人間が生きて死ぬことの根源的な教育です。何か基本的なところで社会が機能していないのは、それを学校も家庭もマスメデイアも怠っているからではないでしょうか」

 生きること、食べること、サカナや獣の命を頂くことの大切さ。沖縄体験は高木さんを大いなる事業に促した。そこで食べた島野菜の奥深さと、ヤマトから画然と独立してある沖縄文化を伝えたいという思いが、沖縄懐石料理屋「潭亭」を東京、赤坂に開店させた。これもまた、病いという乗り物が彼女を拉致した先だった。

 実は、今回インタビューを行なった場所は店にほど近い山王病院の病室だった。死の恐怖を味わった左胸のガン体験は、遥か7年前のこと。最近、胸の異常を感じ、レントゲン写真を撮った。何と、体内に前回の手術で残された金属クリップが発見された。他病院のこの失態にも、主治医の松井哲・外科部長は冷静に言った。「よくあることで、そんなに心配はいりません。それより、こっちですよ問題は」

 乳ガンのプロは、彼女の右胸に新たに発症したガンを見逃さなかった。幸いなるかな、あの金属クリップが早期発見に導いたとも言える。彼女は他病院にセカンド・オピニオンを確かめた後、すべてを松井医師に託し、手術は一週間前に順調に終った。前回と同じく、乳房温存法だった。今後は、抗癌剤、ホルモン、放射線治療がプログラムされている。今回は取り乱さなかったのだろうか?

 「ガンという病気はなかなか冷静にはなれないものです。でも一度、地雷を踏んだ身には大体が予測の範疇でした。入院に際しては、店のスタッフにも淡々と事実を話しました」

 そう言い掛けた時、松井医師が病室に現れた。思いがけず、主治医と患者のやり取りを直接取材する結果になった。私は彼の権威ぶらないモノの言い方に強い印象を受けた。

 「採血結果、感染症などのデータはまとめて、きょうの夕方にはお渡ししましょう。病理の結果は今週中に外来でお渡しします。リンパの結果は・・・熱海にいらっしゃるのですか。じゃ、電話でもいいですよ。今週中には、私の中で今後の方針を決めます」

 リキんでいない、イバッていない。ああ、私もこういう医者なら命を預けたいと思う。彼が立ち去った後、高木さんが言った。

 「松井先生の素晴らしいところは、ケレンのないところです。淡々と、冷静に、事実を語って下さることです。実に、聞く側にとって楽でした」

 シロウトを楽にさせてくれるのが、本当のプロである。その実在モデルを目の前にした思いだった。次に病室のドアーを叩いて登場したのは、芸能プロダクション、音楽事務所、映画製作会社など「ブルーミング・グループ」を統括経営する牧山真智子さん。超多忙の中をお見舞いに駆けつけた。積る話の中で、牧山さんは印象的な一言を漏らした。「ガンになる人はいい人。いい人ばかりがガンになるのね」

 お二人の長い付き合いの中で得た確信に、きょう初対面の私など立ち入れない。しかし私が知る身内や知人のガン患者を思い起こしても、これは真実に近いコメントではないか。

 退院を目の前にした高木さんの負担にならないよう、牧山さんのお見舞いの花は箱の中にキッチリと入れられていた。蓋を取れば病室に花の香りが匂い、花たちが笑顔で笑っている。閉じれば自宅にすぐに持ち帰れる。ひとしきり歓談の時があり、短からず、長からず、絶妙なタイミングで牧山さんは病室を去った。彼女も8年前にガンの手術を受けているから、患者としては高木さんの先輩になる。後日、私はメールを出し、高木さんについて一言コメントを求めた。その返事に、こう書かれてあった。

 「私は、あのように自分の考えに妥協することなく生きてこられた強さを、大変尊敬しています。損も一杯していらっしゃると思いますが、私はそのような生き方が好きです。今後は、もっともっと凛さんにしか書けない脚本を書いて欲しいです。このような方は少なくなってきましたから」

 損得だけが蔓延する時代と国土に、高木さんは馴染まない。彼女はエッセーの中で、沖縄の人々のことを「足ることを知る民族」と書いている。私のインタビューに答える時、高木さんからは「ヤマトの人は」という言葉が自然に出てくる。沖縄とヤマトは全く違う歴史と文化圏を作ってきた。何と理不尽なことだろう、先の戦争で、沖縄はヤマトの尖兵として「本土決戦」唯一の戦場となり、沢山の死が強制された。その沖縄が、7年前に死ぬほどのストレスにあった高木さんを深々と抱きしめ、ヌチグスイ(命の薬)を口に含めてくれたのである。

 「病気の苦痛というものがあり、それが沖縄との関わりや、店を作るまでに導いてくれたわけですね。死を考えたことが、むしろ有り難い結果につながったと思います。今度のガンの発症では、またそういうことが起こるとは思えないけれども、静かに色々なことが受け止められて、有り難い事です。今はただ、出来るだけのことを、出来るうちにやっておこうという心境です。この平穏は、どうしてでしょうと、自分でも思います」

 確かな事実として彼女が驚いたことは、この7年間のガン医療技術の進歩である。乳ガンについて、ハルステット法か乳房温存法か、という議論は時代遅れになった。手術前検査も、麻酔技術も、その進歩を高木さんは身をもって体験した。

 今回は死ということを考えましたか?

 「それは考えました。いつもそれは自然なことで、定義すれば、死とは、その時がくるまで生きることです。目を閉じるまで、何かしていられれば幸せです。死を意識の外に置こうとしたのが前回でした。今は日常の草や木があるように、自然なこととして受け入れられそうです」

 彼女の語りには、風が草や木をゆらすような「しじま」があった。それを教えたのは7年間という時間だろうか。一度「地雷」を踏んでしまった経験知だろうか。

 沖縄で海の彼方に魂が帰るところを「ニライカナイ」という。病いという不思議な乗り物の窓から、高木さんは、自分が帰るところをハッキリと見たに違いない。


             (終り)