石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

私たちは テレビを愛しています ―テレビ制作者からのある報告―完結

2010-07-30 19:55:00 | テレビ番組制作
 氏が「ヤラセ」と指摘しているのは次の四点である。

(1)ピグミーにダンスを踊らせ、(2)学校で教師に火山のことを教えさせ、(2)火山の爆発シーンと、(4)ライオンが獲物を襲うシーンについて資料映像を使った。

(1)(2)については私は次のように主張したい。ドキュメンタリーにおいて、日常行われていることをカメラの前で改めてやってもらうことは映像の方法としてなぜいけないのか。

ピグミーはいつものように彼ら自身の踊りを踊った。活火山のふもとの小学校で、日頃どんな風に爆発の怖さと避難方法を教えているのか、いつものように先生に生徒の前で語ってもらった。―それだけである。

(3)について。現在、ニイラゴンゴ火山は爆発していない。それはニコル氏が山頂に立っている映像を番組で紹介しているから、だれにとっても明白なことである。「1977年の爆発」というテロップ表示とともに爆発時のニイラゴンゴの映像を一部をパリで購入し、一部を東北大学から借用して使った。番組のテーマである活火山の多様な姿を紹介するためである。

(4)について。アフリカのサバンナにすむ動物たちの生存競争、とりわけ肉食動物と草食動物の食うか食われるかの争いは、理不尽に見えるが、それが実は大自然のバランスを保つ上で重要なことだ。これがニコル氏の主張である。このニコル氏の番組中でのメッセージを映像としてより明白に視聴者に伝えるにはどうしたらよいか私たちは思案した。最終的に、残念ながら限られた撮影、日数のロケ期間中では撮れなかったライオンが獲物にとびかかる瞬間の資料映像を使用した。

氏はさらに「ヤラセ」の典型として、3471Mのニイラゴンゴ登山が、ロケーションの最終アタックだったが、危険なことは何もなかった、ところが番組はこれを「決死的なこと」と表現している、と非難している。確かにキャンプ用品のすべては二十五名のポーターが運んだ。その映像は番組に出てきたから別に隠しはしない。しかしビデオ機材を手にもって撮影しながらの登山が、それほど簡単だったろうか。

ニコルさん、番組の責任者として私が案じていたのはわが身の危険などではなかったのだ。長く不整脈の心臓病を患い、常にそのための薬をもち歩いているあなたのことを案じていたのです。

旅の出発前に、あなた自身がそれを私に訴え、あなたの事務所のマネージャーはそのことの不安を私に幾度となく語った。

「書いていない時は大丈夫だよ」というあなたの言葉にすがりながら出発を決断した。

今でも、いや今だからこそ私はあなたとスタッフ一同の無事の帰国を神に感謝したい思いでいることに変わりはない。

ニコル氏に再会した!

 『ナンバー』でニコル氏の文章が発表された直後の9月8日、私は氏の東京で常宿先である赤坂プリンスホテルで彼と対面した。前日も訪ねたが不在のため、「真夜中でもいいから小生の自宅に電話頂きたい」旨のメッセージを残しておいた。ついに連絡をもらえなかったので、失礼とは知りながらの押しかけ面談となった。

 私はどうしても今回の文章の執筆の真意を聞いておきたかった。地下一階のコーヒーショップでニコル氏は朝食のサンドイッチをほうばりながらこう言った。

「ぼくは、シンペイのこともスタッフのことも、今も好きだと思ってるよ。だけど今の日本のテレビは視聴率第一主義でひどいでしょ。それに警告する意味で書いたの。だから、シンペイの名前もテレビ朝日やタキオンの社名も出さなかったでしょう」

いや放送局と番組名が冒頭の見出しに明記されていますよ、と返すと、氏はびっくりした表情で、

「えっ、ぼくはまだ雑誌見てないけど、それは編集部が勝手にしたことでボクは知らないよ」

「しかしあれだけのディテールで文章を公にして社名を出さなかったよ、はないでしょう」

それには直接答えず、講演の約束があるからと立ち上がりながら氏は言った。

「ぼくは小説家だし、テレビにももう出るつもりはないし、今度、スペインに家も買ったから日本との縁は段々うすくなってくるとおもうよ」

最後に、番組タイトルの「地獄の門」とは、ニコル氏自身のニイラゴンゴ山頂での言葉、「おそろしい、これは地獄の門だ、悪魔のゲップのにおいがする」からとったものである。



1986年12月号「創」寄稿

私たちは テレビを愛しています ―テレビ制作者からのある報告―3

2010-07-23 18:17:27 | テレビ番組制作
 この文章で指摘されている諸点につき、私は限られた紙面の中で最低限これだけは言っておきたいということを記しておく。

 まずロケ中の事実関係について。

(1)ニコル氏は書いている。
「私たちの得ていた取材許可には、学校内での撮影は禁ずる旨、明記されていた」にもかかわらずテレビ取材の「連中」は校舎内に入り込んで撮影した、と。

ニコル氏は一体、どこでそのような取材許可証の明記を御覧になったのだろう。私がもっている取材許可証にはそのようなことはどこにも書いていない。首都キンシャサの情報省と環境省が発行した二通の正式書類にはそのような条件は書かれていない。私たちはドロボウのように校舎に忍び込んだのではなく、礼儀をもって教師にことわって授業風景を撮影した。また、ピグミーの宴会は取らない約束だった、それをテレビは踏みにじって撮影した件について。私たちがそのような約束をした事実はない。宴会が充分もりあがって彼らがカメラを意識しなくなったら撮ろうというのが約束だった。

 宴会が始まり、やがてニコル氏は立ち上がり、故郷ウェールズの歌をうたい始めた。東ザイールの森の夕暮れ、大きなたき火がたかれ、ニコル氏とピグミーの人びとの熱い交情のクライマックスだった。半月も早く先にこのピグミー村に来て、困難な交渉の末にようやく彼らと友達になり、撮影の許しを得たディレクターの思いを想像して欲しい。私たちはほとんどこの瞬間を撮るために東京からはるばるやって来たのではないか、とさえ思った。私たちが誇りをもって選んだ番組レポーターと、アフリカの大自然と、そこに住む人々との交歓をためらいなく撮影した。

 「その時、突然ライトの洪水が私たちの頭上にあびせられた」というニコル氏のレトリックも事実を曲げる表現だ。イツーリの森の闇にバッテリーライト一灯をつけただけである。

 ニコル氏の文章に散在するこのような大げさな表現は、やがて「ナレーションが事実と異なっているところは数十カ所もあった。明らかに故意のウソも何ヶ所かあった」と書くに及んだ。このようにあいまいな誇張が作家には許されるのか。―

 たとえばニコル氏は事実と異なっているナレーションの例として、危険が何もない野生のゴリラを番組は怖いものと描写した点をあげている。怖いか怖くないかの主観的な次元での議論は不毛だと思うから事実に則して語れば、「野生のオスゴリラを興奮させることは極めて危険だから、現場に行くスタッフは六名に制限すること」という現地の研究者(フランクフルト動物協会・マイケル氏)の忠告に従い、私は一人山小屋に残った。

 はるばる東京からやってきてゴリラとの対面を目前にして断念するのはくやしかった。しかし私が加われば六名を超えてしまう。それが危険か安全かの分れ目だと思えばこそ、私はその土地の研究者の忠告に当然の如く従ったまでのことである。

 雨がふり出した。当の研究者のあとに従い一行はジャングルの山岳地帯に消えていった。ポーターの助けなく、重いビデオ機材を背負って。ゴリラがきょういるかもしれない地点を求めて、銃をもったレンジャーに守られながらの半日の山歩き。日が暮れて帰ってきたズブぬれのスタッフの一人は「死ぬかと思うほどキツかった」と言っていた。

 そうやって出会った2メートルの身長の野生のオスゴリラとジャングル内で、生れて初めて、無防備で、手の届くような至近距離で対峙する者の心境は決して穏やかなものだったとは思えない。

 ところがニコル氏のペンによると、右の事実は次のように変貌する。

 「誰でも申込をしてガイドと一緒に出かけさえすれば私たちと同じ体験ができる。担当の生物学者が見物人を六人までにしぼり(傍点引用者)マルセル(ゴリラ)の近くまで連れていってくれる。本当にごく近くなのだ。ガイドに率いられた観光客にとっては、危険なことは何もないのである。」

 これではまるで観光ガイドが旗をもって動物園内を団体客と共に歩く図を想像してしまう。それにしては「見物人を六人までにしぼり」の矛盾を氏はどう解決するのだろう。

 ことほどかようにニコル氏と私の事実認識はちがう。右のような認識に立って氏は私たちの番組を「ヤラセ」と断定している。

 「ヤラセ」というコトバがもしニコル氏の文章になかったら、この記事はこのようにセンセーショナルな注意を世間に喚起しなかっただろう。それほど、このことばはわかり易く、刺激的で、テレビを非難するに便利なことばだ。


つづく

1986年12月号「創」寄稿

今日は命日です

2010-07-16 14:20:00 | 妻より
2009年の7月16日14:20、つまり昨年の今日、私の愛夫、信平さんが亡くなりました。

ちょうど今日で1年経ちます。

あれから、私は死なないようにするのが精いっぱいでした。

信平さんはそれだけ私にとって大きなかけがえのない存在であり、毎日を一緒に笑いあえる人生という旅の最良のパートナーでした。

少しだけ私より早く先に行ってしまいましたが、いづれ私も信平さんに追いつくでしょう。

その時まで、信平さんの奥さんとして恥ずかしくないように精いっぱい快楽主義者として、おおらかな心と共に正しいことを正しいと言える姿勢を大切に生きていきたいと思います。


最近、信平さんの残してくれた本を読んでいて心に残ったことばです。


「諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。「身を殺して魂を殺す能わざる者を恐るるなかれ」。肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。」by 徳富蘆花


「大きく眼を開いてこの時代を見よ…これこそわたしにたいする最大の供養である。」by 尾崎秀実

私たちは テレビを愛しています ―テレビ制作者からのある報告―2

2010-07-16 13:00:13 | テレビ番組制作
企画立案から制作(アフリカロケ)へ


 私たちが十社以上の企画競合の末にこの番組を制作した経過を簡単に記してみよう。

 赤道直下のアフリカ中央部にオヘソのように位置する活火山がある。ニライゴンゴ(3471M)。東北大学の学術調査によれば、この火山のマグマは地底はるか2900キロメートルの深さにそのエネルギー源をもっている。世界最深のマグマにつながるその火口を土地の人びとは「死後の世界」と呼びならわしている。その場所に立って下を見てみたいという思いが私たちを動かした。

 今世紀に入ってから数度の大爆発がこの地をユニークな自然条件に変えた。活火山がつくり出した大自然の生態を、そこに生きる動物と人間たちの暮らしを描く―まさに番組のテーマにそった企画だった。私は昨年の11月8日に起草したこの企画書の表紙に次のタイトルを記した。「原始の火山、ニライゴンゴ!アフリカの奥地に聖なる火山を発見!」いまだ現地を知らず、限られた資料を熱い思いだけで肉づけして書き上げた企画書だった。「発見!」二文字に私自身の自己発見をひそかに企図していた、と今だからこそ言おう。

 この企画書が放送局の編成・制作・営業の各部局で検討され、最終的に決定をみたのが昨年の12月2日のことだった。

 レポーターの選定については、芸能タレントを起用するという常套はさけ、アウトドアの専門家で素直な発見をカメラに向かって語れる人、という点で確信をもってC・W・ニコル氏を選んだ。民法のゴールデンタイムにふさわしい人か、という声もあったが、このような人がゴールデンタイムに登場してほしい、という願いをこめてでもあった。

 出演交渉の最初に私は先の企画書を彼に渡し、読んでもらっている。これを了承して彼は番組への参加を快く受けてくれたのだった。その他の条件として一ヶ月間のロケに身柄を拘束すること、その対価として出演料について記載された「出演契約書」がニコル氏の所属事務所―とタキオンの間で交わされた。ビジネス上の契約はともかく、ニコル氏は十六年ぶりのアフリカ再訪を喜び、かつ企画内容に賛同した上で参加して頂いたのである。

 ところがニコル氏の『ナンバー』誌寄稿の文章では次のように書かれている。

 「ザイールに着いてから、私は用意されているシナリオが、あまりにもニイラゴンゴ火山にのみ比重を置きすぎていることに気がついた。」

 現地に着いてから初めて番組テーマに「気がついた」とは一体どういうことだろう?私たち番組制作者は放送局に提出したテーマでプレゼンテーションをし、番組契約をし、そのテーマをもって現場に行く。そこで様々な新しい経験に出会いながら撮影をつづける。そして終始テーマにこだわる。こだわるから新しい経験も生きる。テーマを捨てたり、忘れて番組作りをするようなことはしないのである。

 ニコル氏の右の引用したような文章に出会うと、私は氏の今回の番組への取り組み方に初めから思いちがいがあったのではないか、と疑念を抱かざるを得ない。

 2月15日にディレクターがロケハンのためにザイールへ向け出発し、3月1日にニコル氏と私を含む本隊が日本を発った。炎暑のサバンナ、どしゃぶりのジャングル、息を呑む満点の星―文字通り汗水たらして、共同の苦労と喜びを分ちあってのロケーションだった。帰国時の私の思いは冒頭に記した通りである。

 帰国後もニコル氏は自動車会社のCM撮影にオーストラリアに飛ぶなど相変わらず多忙を極めていた。その間、ザイールのピグミーの音楽に感動していたニコル氏の為に、収録テープからステレオ用の60分テープにダビングして長野県黒姫高原の氏の自宅に私は郵送した。私たちの仕事は完成へと向けられた。そして6月11日、午後7時から2時間に亘って「地獄の門、原始の火山ニイラゴンゴ」と題してテレビ朝日を通して放送された。

 放送後、在日ザイール大使館文化担当官、マディトゥガ・マサンバ氏は6月27日付公用書簡を私宛に送られた。内容は、今回の番組がザイール共和国の姿を正しく伝える初めての特別番組であったこと、ザイール国民の自然を愛する心を正確に伝えてくれたことに大使館として「深い感謝と満足を表明したい」というものだった。

 放送日の翌日、私はニコル氏のお宅に電話を入れた。出演への感謝を述べ、番組を見ての感想を聞きたかったからだが神戸に行っていて連絡がつかないという家の人の返事だった。そしてニコル氏と話す機会がないままに三カ月たって、9月5日、金曜日に『ナンバー』が発売された。


つづく

1986年12月号「創」寄稿


私たちは テレビを愛しています ―テレビ制作者からのある報告―

2010-07-09 17:34:14 | テレビ番組制作
 今年の3月1日から一カ月間、私達テレビ取材班は中央アフリカのザイールを訪問した。東部の火山帯とそのすそ野に広がるサバンナの悪路に悩まされながら、移動とキャンプと水の出ないホテルで夜を過ごすことをくり返しながらの一カ月だった。

 3月30日、国境のゴマの町を発ち、ルワンダの首都キガリに7時間のドライブの末到着。そこで二泊ののち飛行機でベルギーの首都ブリュッセルに飛び、そこで乗り換えて日本へ帰ってきた。

 遠い、はるかな道のりだったが私たちは旅の無事をよろこびあった。機内で、レポーター―のC.W.ニコル氏は上機嫌で私の席にやってきた。食後の習慣に飲むコニャックで顔を赤らめながら彼は言った。

「シンペイ、すばらしい旅だったよ。ホントにいい取材ができたね。来年ボクは十六年ぶりにエチオピアを訪ねるけど、また、きっとタキオンで番組を作ってくれるね」

 私に異存があるはずがない。さらに彼は、広島に投下された原爆が実はカナダの美しい湖に近いところで発掘されたウランで作られた事実を基にしてドキュメンタリーを私と一緒にぜひ作りたいとも言った。

 私はこの瞬間の幸福を忘れることができない。自分が日頃敬愛する作家をレポーターにして長い旅が無事に終り、それをきっかけに新しい仕事が又約束されたのだ。私はこの時ほど、自分の今の職業を誇らしく思ったことはない。

 長い旅の間に、東京では一人の女の子が誕生していた。ビデオエンジニアのT氏は、初の出産を間近に控えた若い妻のもとに残るか、長いアフリカ行きを選ぶか悩んだ末、結局後者を選んだ。プロ意識がそうさせた以上に、二年前に別の番組取材で行ったアフリカの魅力が俺をそうさせた、と彼は述懐していた。その言葉はニコル氏を感動させた。だれよりもアフリカを愛すると自負するニコル氏は、また、昨年秋に女の子をさずかった父親である。旅のあいだ中、東京の妻を思いやるT氏に、ニコル氏は温かい激励の言葉をかけてくれた。テレックスも電話もない地方での旅先で、それがどんなに心強かったか想像に難くない。

 成田到着が迫り、ニコル氏の発案でT氏の子供の誕生を祝ってスタッフ六名のカンパが集められた。ニコル氏とスタッフ一同の心が一つになった瞬間であった。

 それから約半年後、ニコル氏は一文を雑誌に寄稿した。私達テレビスタッフを「連中」と呼びすてにして、番組を「四流番組」となじり、「今後、彼らのうちの誰ひとりとも一緒に仕事をすることは二度とあるまい」と結んでいる。この予告なき突然の仕打ちは、私を戸惑わせるに充分だった。

 
ニコル氏の文章の波紋


 その雑誌は文芸春秋社刊『ナンバー』9月20日号である。「テレビで見たから、真実なのか?!」のタイトルで発表されたこの文章の中で、ニコル氏はテレビスタッフが取材中にいかに無礼でウソツキであったか、そして放送された番組がいかにウソとヤラセに満ちているかと弾劾している。その怒りはとどまるところを知らず、日本のテレビ局全体を敵に廻した攻撃の砲火で紙面も燃え上がらんばかりであった。(しかし周到にも「NHKは別だ。私が攻撃しているのは民放各局である」と注をふっている。)

 この記事はノンフィクション作家本田靖春氏によって雑誌「ダカーポ」に引用され、その結果他の雑誌に次々と飛び火した。私は、これらの取材に応じることが、日課にさえなってしまった。ふだんの仕事に集中できないこのような事態を一体どのように受けとめればよいのだろう。あの日、飛行機の中で感じた幸福感は幻想だったのだろうか。

 活字によって撹乱される日々を過ごしながら、かつて自分が十三年間、出版編集者だった事実に思いをはせた。テレビ制作者に転じて七年が過ぎようとしている。そうして二十年が過ぎたのだ。昔はものをおもはざりき。書かれて初めて知る活字の怖さだ。人の書いた文章をまとめて本を作った十三年ではわからなかったものを、この一ヶ月間で体験した思いがする。


つづく

1986年12月号「創」寄稿