氏が「ヤラセ」と指摘しているのは次の四点である。
(1)ピグミーにダンスを踊らせ、(2)学校で教師に火山のことを教えさせ、(2)火山の爆発シーンと、(4)ライオンが獲物を襲うシーンについて資料映像を使った。
(1)(2)については私は次のように主張したい。ドキュメンタリーにおいて、日常行われていることをカメラの前で改めてやってもらうことは映像の方法としてなぜいけないのか。
ピグミーはいつものように彼ら自身の踊りを踊った。活火山のふもとの小学校で、日頃どんな風に爆発の怖さと避難方法を教えているのか、いつものように先生に生徒の前で語ってもらった。―それだけである。
(3)について。現在、ニイラゴンゴ火山は爆発していない。それはニコル氏が山頂に立っている映像を番組で紹介しているから、だれにとっても明白なことである。「1977年の爆発」というテロップ表示とともに爆発時のニイラゴンゴの映像を一部をパリで購入し、一部を東北大学から借用して使った。番組のテーマである活火山の多様な姿を紹介するためである。
(4)について。アフリカのサバンナにすむ動物たちの生存競争、とりわけ肉食動物と草食動物の食うか食われるかの争いは、理不尽に見えるが、それが実は大自然のバランスを保つ上で重要なことだ。これがニコル氏の主張である。このニコル氏の番組中でのメッセージを映像としてより明白に視聴者に伝えるにはどうしたらよいか私たちは思案した。最終的に、残念ながら限られた撮影、日数のロケ期間中では撮れなかったライオンが獲物にとびかかる瞬間の資料映像を使用した。
氏はさらに「ヤラセ」の典型として、3471Mのニイラゴンゴ登山が、ロケーションの最終アタックだったが、危険なことは何もなかった、ところが番組はこれを「決死的なこと」と表現している、と非難している。確かにキャンプ用品のすべては二十五名のポーターが運んだ。その映像は番組に出てきたから別に隠しはしない。しかしビデオ機材を手にもって撮影しながらの登山が、それほど簡単だったろうか。
ニコルさん、番組の責任者として私が案じていたのはわが身の危険などではなかったのだ。長く不整脈の心臓病を患い、常にそのための薬をもち歩いているあなたのことを案じていたのです。
旅の出発前に、あなた自身がそれを私に訴え、あなたの事務所のマネージャーはそのことの不安を私に幾度となく語った。
「書いていない時は大丈夫だよ」というあなたの言葉にすがりながら出発を決断した。
今でも、いや今だからこそ私はあなたとスタッフ一同の無事の帰国を神に感謝したい思いでいることに変わりはない。
ニコル氏に再会した!
『ナンバー』でニコル氏の文章が発表された直後の9月8日、私は氏の東京で常宿先である赤坂プリンスホテルで彼と対面した。前日も訪ねたが不在のため、「真夜中でもいいから小生の自宅に電話頂きたい」旨のメッセージを残しておいた。ついに連絡をもらえなかったので、失礼とは知りながらの押しかけ面談となった。
私はどうしても今回の文章の執筆の真意を聞いておきたかった。地下一階のコーヒーショップでニコル氏は朝食のサンドイッチをほうばりながらこう言った。
「ぼくは、シンペイのこともスタッフのことも、今も好きだと思ってるよ。だけど今の日本のテレビは視聴率第一主義でひどいでしょ。それに警告する意味で書いたの。だから、シンペイの名前もテレビ朝日やタキオンの社名も出さなかったでしょう」
いや放送局と番組名が冒頭の見出しに明記されていますよ、と返すと、氏はびっくりした表情で、
「えっ、ぼくはまだ雑誌見てないけど、それは編集部が勝手にしたことでボクは知らないよ」
「しかしあれだけのディテールで文章を公にして社名を出さなかったよ、はないでしょう」
それには直接答えず、講演の約束があるからと立ち上がりながら氏は言った。
「ぼくは小説家だし、テレビにももう出るつもりはないし、今度、スペインに家も買ったから日本との縁は段々うすくなってくるとおもうよ」
最後に、番組タイトルの「地獄の門」とは、ニコル氏自身のニイラゴンゴ山頂での言葉、「おそろしい、これは地獄の門だ、悪魔のゲップのにおいがする」からとったものである。
1986年12月号「創」寄稿
(1)ピグミーにダンスを踊らせ、(2)学校で教師に火山のことを教えさせ、(2)火山の爆発シーンと、(4)ライオンが獲物を襲うシーンについて資料映像を使った。
(1)(2)については私は次のように主張したい。ドキュメンタリーにおいて、日常行われていることをカメラの前で改めてやってもらうことは映像の方法としてなぜいけないのか。
ピグミーはいつものように彼ら自身の踊りを踊った。活火山のふもとの小学校で、日頃どんな風に爆発の怖さと避難方法を教えているのか、いつものように先生に生徒の前で語ってもらった。―それだけである。
(3)について。現在、ニイラゴンゴ火山は爆発していない。それはニコル氏が山頂に立っている映像を番組で紹介しているから、だれにとっても明白なことである。「1977年の爆発」というテロップ表示とともに爆発時のニイラゴンゴの映像を一部をパリで購入し、一部を東北大学から借用して使った。番組のテーマである活火山の多様な姿を紹介するためである。
(4)について。アフリカのサバンナにすむ動物たちの生存競争、とりわけ肉食動物と草食動物の食うか食われるかの争いは、理不尽に見えるが、それが実は大自然のバランスを保つ上で重要なことだ。これがニコル氏の主張である。このニコル氏の番組中でのメッセージを映像としてより明白に視聴者に伝えるにはどうしたらよいか私たちは思案した。最終的に、残念ながら限られた撮影、日数のロケ期間中では撮れなかったライオンが獲物にとびかかる瞬間の資料映像を使用した。
氏はさらに「ヤラセ」の典型として、3471Mのニイラゴンゴ登山が、ロケーションの最終アタックだったが、危険なことは何もなかった、ところが番組はこれを「決死的なこと」と表現している、と非難している。確かにキャンプ用品のすべては二十五名のポーターが運んだ。その映像は番組に出てきたから別に隠しはしない。しかしビデオ機材を手にもって撮影しながらの登山が、それほど簡単だったろうか。
ニコルさん、番組の責任者として私が案じていたのはわが身の危険などではなかったのだ。長く不整脈の心臓病を患い、常にそのための薬をもち歩いているあなたのことを案じていたのです。
旅の出発前に、あなた自身がそれを私に訴え、あなたの事務所のマネージャーはそのことの不安を私に幾度となく語った。
「書いていない時は大丈夫だよ」というあなたの言葉にすがりながら出発を決断した。
今でも、いや今だからこそ私はあなたとスタッフ一同の無事の帰国を神に感謝したい思いでいることに変わりはない。
ニコル氏に再会した!
『ナンバー』でニコル氏の文章が発表された直後の9月8日、私は氏の東京で常宿先である赤坂プリンスホテルで彼と対面した。前日も訪ねたが不在のため、「真夜中でもいいから小生の自宅に電話頂きたい」旨のメッセージを残しておいた。ついに連絡をもらえなかったので、失礼とは知りながらの押しかけ面談となった。
私はどうしても今回の文章の執筆の真意を聞いておきたかった。地下一階のコーヒーショップでニコル氏は朝食のサンドイッチをほうばりながらこう言った。
「ぼくは、シンペイのこともスタッフのことも、今も好きだと思ってるよ。だけど今の日本のテレビは視聴率第一主義でひどいでしょ。それに警告する意味で書いたの。だから、シンペイの名前もテレビ朝日やタキオンの社名も出さなかったでしょう」
いや放送局と番組名が冒頭の見出しに明記されていますよ、と返すと、氏はびっくりした表情で、
「えっ、ぼくはまだ雑誌見てないけど、それは編集部が勝手にしたことでボクは知らないよ」
「しかしあれだけのディテールで文章を公にして社名を出さなかったよ、はないでしょう」
それには直接答えず、講演の約束があるからと立ち上がりながら氏は言った。
「ぼくは小説家だし、テレビにももう出るつもりはないし、今度、スペインに家も買ったから日本との縁は段々うすくなってくるとおもうよ」
最後に、番組タイトルの「地獄の門」とは、ニコル氏自身のニイラゴンゴ山頂での言葉、「おそろしい、これは地獄の門だ、悪魔のゲップのにおいがする」からとったものである。
1986年12月号「創」寄稿