石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

湘南ビーチ・ムーン

2009-07-29 00:02:48 | 

鯨がイワシを追いかけて辿り着いた

相模湾の春四月

思えば去年の秋十月

鯨は南の海で恋におちた

ミッドウエーの南四百海里

銀色に輝くイワシの背中の美しさ



鯨は声をかけた

君のいるところで僕も生きていたい

イワシは小さな声で答えた

私はこれからインド洋スリランカ沖を回ってきます

桜の季節に、日本で会いましょう



南十字星を仰ぎ いくたびの夜が過ぎた

照りつける太陽の下 いくつもの波を乗り越えた

鯨は南シナ海通過 潜行開始 巡航速度十二ノット

東経百三十八度線通過 南の風 風力三

鯨は相模湾に到着した




イワシはどこ? 美しい銀色の背中はどれ?

大きな体に燃えた恋の炎

約束の日 満月の夜 鯨は浮上して空を仰いだ

湘南ビーチ・ムーン

金色に輝く鯨の背中

その時 海中でイワシの大群が通過した

銀色の雨が降るようなイワシの群れ

あの子はどこ? 

あの、僕のたった一つの宝石はどれ?



鯨はゆっくりとエンジンを始動 遊泳開始

湘南ビーチ・ムーン 相模湾の潮騒

湘南ビーチ・ムーン 僕達の胸騒ぎ


      Shinpei-Ishii 1999/4/3


信平さんを見送るまで

2009-07-20 11:59:47 | 妻より
16日夕方、まるで信平さんが時を選んだかのように美しい夕焼けに見送られ、病院から我が家へ移動。


BGMは最後の5日間24時間聞き続けた同志社グリークラブの合唱CD。この音楽によって信平さんが何度も危機を乗り越えました。亡くなるその瞬間は”You never walk alone”私の大好きな曲でした。


家に辿り着いたその時から、近しい友人達、仕事仲間、呑み仲間、近所の外人仲間などが、ひっきりなしに信平さんに会いに来てくれました。最初はいくつかのお見舞い時にいただいたお花しかなかったのが、あっという間に沢山のお花であふれかえりました。


信平さんの枕元に大好きだった赤ワインを注いだワイングラスを置き、みんなで信平さんに献杯。


友たちと夜中まで信平さんの思い出話に華を咲かせ、あまりに面白い信平さんの思い出話に大笑いし、楽しく和やかに本当の意味でのお通夜を二晩に渡って行いました。


家での最後の晩は3人の男友達たちが夜を徹して信平さんと私を見守ってくれました。本当に幸せなことです。


土曜の12:00、葬儀社の方が到着。友たちに見送られる際、ちょうどかけていた信平さんのDJのテープから大好きだったマレーネ・デイトリッヒのLa Vie en rose(バラ色の人生)が掛かりました。


らしすぎる。最後まで演出に余念がない信平さんでした。


ここでみんなに見送られたのちに、土曜日の午後2時より親族だけで信平さんを弔いました。


大好きだった葉巻とメモ帳と二人の写真とたくさんのお花に囲まれて荼毘に付されました。


優しくて大きな身体と心を持った私の夫が見えなくなるのが辛くて、辛くて倒れそうになったとき、上から水のしずくが私の頭に落ちました。「しっかりしろ」と言われたように思いました。


その後、最後の宴に鎌倉、長谷にある華正楼を選びました。


信平さんが大好きだったお店です。少し食欲が出てきたらぜひ行こうと言っていたお店でした。

華正楼


いつになく、私がご飯を食べることができたのは、もしかしたら信平ちゃんが一緒に食べていたのかもしれません。


それ以来ずーっと信平さんの存在を感じています。


信平さんのお友達とのお別れ会(偲ぶ会)は、9月後半か10月前半ごろに行う予定です。あまりに多岐にわたる交友関係なので少し時間がかかるようです。その際にお目にかかれることを楽しみにしています。


今後はこのブログまたはウェブサイトにて信平さんの作品を紹介していこうと思っています。
石井信平の館


最愛の夫について

2009-07-19 08:05:35 | 妻より
いつもこのブログをご覧いただいている皆様、今日は、本人に代わって妻が書きます。


まだ、私自身が受け入れられません。


最期まで生きようと、必死に自分と闘いました。


先週の肺気胸からくる窒息による救急入院から十回以上、医師も手を出せないような状態に陥りましたが、その都度私たちの呼び掛けに応え戻ってきてくれました。


ただ昨日は、肺気胸に加え、窒息時に起こした、肺炎及び胸膜炎も併発した肺が限界をきたしていたようです。


38まで落ちた血中酸素濃度を75まで頑張って戻しましたが、それから緩やかに落ちていきました。


優しくて、面白くて、知的で、かっこよくて、包容力があって、尊敬できて、強くて、謙虚でピュアで可愛くて可愛くてしょうがない最高の夫です。


入院した時点で限界だったのですから。それを最期の九日間は精神だけで生き抜きました。


強い意志と熱い想いと、どこまでも深い愛で生き抜こうとしてくれたんだと思います。最期まで愛を見せてくれました。 精一杯生きました。


私は本当にそんな夫と出会えて幸せです。


7月16日(木曜日)14:20 私とお姉さんに手を握られながら、ゆっくりと旅立ちました。


無事天国にたどり着けるよう最後に、お別れを言えました。安らかで少し微笑んでいるようです。


ようやく楽になれて、自由になれて信平さんらしくなれて、嬉しそうです。

地上の友、天上の声

2009-07-04 17:35:06 | 雑談
本日の体重測定、68キロ。喜んでいいんだろうか。余計な水が溜まったり、むくみが原因かもしれない。警戒を怠れない。

午後3時、テレビ業界に詳しいSさん来訪。TBSの驚くべき内情を聞かされる。やることなすこと、逆の結果になって返ってくる。エリート意識に固まった、官僚集団では今の戦国時代は生き抜けないのかもしれない。

今から思えば「楽天」と足して2で割る妥協案でまとめ、全く新しい放送局を出発させたほうが、ずっと面白い結果になっていたはずだ。それをやれなかったのも、秀才たちの臆病だろう。

Sさんはその正反対。散切り頭、刀一本で自分の会社を率いてTBSと渡り合い、番組を作り続けてきた。自己破産の痛切な体験もした。TBSという会社の裏表を知っている。

地デジ化がもたらす大動乱を、大TBSは切り抜けられるのだろうか。Sさんは、いくつかの腹案を話してくれた。「いやぁ、61歳を超えて企画がどんどん湧いてくるんですよ。むしろ死ぬまで止まらない。」実は彼のお母さんは今、91歳で矍鑠としている。

そうだったのだ。知恵と企画力は、時間に磨かれて鋭くなる。

「信平さん、もうひと仕事やりましょうよ。」とSさんは言った。

オラには、「やってもらうぞ」という神の一声に聞こえた。