石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

知性と酩酊の町・弘前訪問記

2012-05-17 12:22:40 | 旅行
 太宰治と寺山修二の世界を訪ねようと、向かった先が「みちのく」の夏。束の間の夏、雪国の空は群青色で吸い込まれそうな深さをたたえ、木々はしたたる緑、ねぶた祭りの熱気を未だに残す「弘前」という町に、私ははまってしまった。

 遠くに岩木山を望むこの町の、乾いた空気の心地よさは何だろう。炎暑の道端から弘前城の城郭にはいり、木々がつくる深々とした影のなかを歩くと、心は悠久のむかしに遊ぶ。

 津軽藩主の「お殿様」が偉かったのだろうか。みちのくの風土が作る衣食住の生活文化を、のびのびと民の試行錯誤にまかせたのであろう。だからこそ今に伝わる「じょっぱり」を初めとする銘酒の数々、山菜や海の幸を使った食材、その加工品の豊かさは驚くばかりだ。

 同時に、この藩に代々伝わる教育と知性への情熱も、城の周辺の武家屋敷跡を散策しただけで偲ばれる。長野県といい青森県といい、雪国の人々は文字と言葉と想像力で、自分の存在や位置を確かめようとしたのだろう。

 町を歩けばシックな喫茶店が多く、ブテイックがおしゃれで、地に足がついた暮らしぶりがしのばれる。紀伊国屋という大書店もある。眼鏡屋も多い。旧制弘前高校があり、葛西善蔵、太宰治、寺山修二、長部日出男・・・といった作家たちがこの風土から生まれた。


 「弘前劇団」もある。じょんがら節もある、きっと、表現をすることが好きな風土ではないか。

 津軽の人は「しゃべり、語り、踊り、表現することが大好きで、ラテン的だ」と言ったのは「津軽劇場」の代表・長谷川さんだ。街中で言葉を交わしても人々はフレンドリーで、ためらいなく、そして全体に急いでいない。旅行者の印象がどこまであてになるのか知らないが、私は弘前のもつ「ゆったり感」が好きだ。それは、まだ取り壊されない戦前の建物に感じる。

 赤レンガの古いビルに紛れ込んで、昼下がりのビアホールの椅子に座る。なんだか自分が、昭和初期の無政府主義者になった気分。特高警察の追っ手を逃れて仲間からのレポを待つような心境だ。この街は、全体に演劇的な空間である。

 方言の海の中で、詩と文学が好きで、厳しい風土に「言葉」で耐え、「諧謔」で立ち向かうところは「スラブ的」とも言える。たとえばお城に近い一番町、津軽塗りの店「田中屋」に立ち寄れば、津軽書房の出版物がズラリと並んでいる。

 漆器の店に、郷土が誇る出版物を並べるセンスがいい。店内にはギャラリーがあって陶器展をやっていた。「珈琲・北奥舎」という喫茶ルームの壁一杯に書物が並ぶ。この街に澄む美術評論家・村上善男氏の蔵書の一部だと言う。

 地方の風土に腰を据えての、表現の持続に敬意を表したい。村上氏の著書『赤い兎・岡本太郎頌』(創風社)を手にとってみた。そういえば岡本太郎も、沖縄と津軽に日本のルーツを発見し、この地に特別な思いを寄せた芸術家だった。

 土手町 この繁華街には「なつかしさ」が漂う。「壱番館」「ぶるまん」など、こだわりの喫茶店には、私が育った杉並区阿佐ヶ谷の雰囲気があり、CDショップ、洋服屋さんの元気には吉祥寺の商店街、しゃれたレストランやすし屋が並んでいる風情は、都電が走っていた頃の「青山通り」である。この街には、東京には既に跡形もない「戦後」がある。
 

ここにあるコミュニテイーFM「アップルウエーブ」を訪ねる。私もまた湘南ビーチFMでDJをしているから、まるで「道場破り」の心境だ。若い女性達で元気がいい放送局だ。聞けば中継車を三台もって津軽全域の情報を生き生きと伝えている。

 私は「午後ワイド、ゴーゴー・ナビゲーション」に出演して、旅の感想を述べ、自作の詩を朗読した。「荒野のガンマン」や「シェーン」のように、こうして地方のコミュニティーFMを回る「さすらいのパーソナリテイー」もいいではないか。

 「高砂」で津軽そばをすすり、シテイー弘前ホテルのスカイラウンジで日暮れの岩木山に見とれる。母とも父とも、叔母さんとも呼びたいような、いい姿の山だ。この裾野でこそ、人は存分の生き方をゆるされてきた、そう思いたいような品格ある容姿である。深々と吸うこの空気も、あの山肌を滑り落ちてきたにちがいない。

 夜はじょんがら節である。ライブハウス「山唄」は超満員。地酒の「ジョッパリ」をすすりながら聴く津軽三味線と民謡の数々、さっきまで酒や料理を「お運び」していた女性達、若者達が、ステージにあがって演奏している。ここに芸能の原点を見る思いがする。芸は神に奉げられるものだった。いつから「知名度」が最重要になり、タレントが跋扈する「芸能界」が出来上がってしまったのだろうか。

 いい町は居酒屋がいい。町のあちこちのブロックに、思わず入りたくなる居酒屋が軒を並べる。まるでニューオルリーンズの街でジャズに酔い、バーボンで迎え酒するように、じょんがら節のあとは津軽の地酒がいい。

 掬酒、白神、豊盃、じょっぱり・・・。つまみの豊かさは、言うに及ばず。海と山の旬がならび、料理や保存法のバラエテイーがまた嬉しい。私の大好きなホヤが、刺身でも、生姜味噌でも、燻製でも食える幸せ。白神山地の冷気を感じながら、夜がふけて漕ぐ白川夜船。

 夜が明けて、街をさすらえば弘前の夏は去り行く。明るい太陽の下で、この町の歴史的西洋館を眺めることの楽しさ。外人宣教師還、弘前昇天教会、青森銀行記念館・・・。明治維新の頃、この地の人々には新しきものを受け入れる素地と度量があったのだ。


 
明治政府は、なぜ、ここ弘前を県庁所在地にせず、青森市にしたのだろう。津軽藩の底力と行政能力、そしてこの街の「民度」の高さはアンシャンレジーム(旧制度復活)につながる、と恐れたからだという説には説得力がある。

 ここは戦災にあわず、江戸、明治、大正、昭和という時間の「古層」をハッキリとたどれる稀有な町だ。そこで感じるのは、昔の為政者は、地方の独自性やローカルなものの価値を知っていて、大切にしたということだ。地方の殖産興業を図りながら、三百年にわたって列島を統治した徳川の政治センスに、改めて驚く。

 藤田記念庭園の西洋館サンルームでコーヒーを飲む。豪壮な居間に暖炉があり、その周りに造りつけのソファーがある。弘前出身の日本商工会議所初代会頭・藤田謙一は、大正期、この地方の振興と近代化のためにどんな語らいをしていたのだろう。

 弘前とは、歴史とモダンが、知性と酩酊が、街の迷路と大自然とが、見事な拮抗をしながら骨太に出来上がっている土地である。雪に桜に、季節のページを繰るごとに、私はこの街を訪ねたい。


2001年9月某日