石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

「シンプルに華やぐ」 ピアニスト・遠藤郁子

2010-03-31 08:17:23 | 人物
ガンが教えてくれた、からだ、こころ、暮らしの新しいスタイル

取材執筆 石井信平 


 室内は僧院の静寂がみなぎっていた。東京、杉並にあるピアニスト遠藤郁子さんが住むマンションは、隅々まで和風にリフォームされ、白木の棚に小さな地蔵がたたずむ。そこに季節のちいさな花が寄り添う以外、よけいな道具、装飾が見当たらない。

 「いま、私は最高にしあわせで、贅沢な暮らしをしています。最小限のモノで暮らし、贅沢の一番は時間です。イヤな仕事はせず、イヤな人とは会いません。

 『本来人間無一物』これをガンが教えてくれました」
 
 四五歳で乳ガンの宣告を受けた。遠藤さんはその時の場面を再現する。
 
 医師「悪い結果が出ました」
 
 遠藤「ああ、そうですか」
 
 こういう場合、ある人は病院中が聞こえる大声で泣き喚くのに、この人は愁嘆場を見せなかった。「なるべくしてガンになった」その思いはどこから来たのだろう。

 「ショックは微塵もありませんでした。ガンはひょっとすると私の長い苦悩にピリオドを打ってくれるかも知れない。もう、いつ死んでもいい、という思いがあの頃常にありましたね」
 
 ピアニストだった母の胎内でショパンを聴いていた。二十歳でワルシャワのショパン・コンク-ルに出場。批評家連盟特別銀賞を受ける。そのままヨーロッパに在留し、ピアノを通して、西洋のこころを求め続けた。国の内外に名声を高め、コンサートのスケジュールに追われた。しかし、華麗なスポットライトを浴びながら、心は呻いていた。

 「ポーランド人の先生も驚くほど、私の演奏は楽譜に忠実でした。ショパンが書き残した遺書のような音楽を、適当な解釈で変えるわけにはいきません。でも、このままでいいのか、西洋人の『そっくりさん』をやっていて、どこに遠藤郁子のショパンがあるのか、四〇歳ごろ、その悩みがピークに達していました」

 見失った自分のアイデンティティ。芸術家だけが知る孤独。コンサートをこなしながら、音楽がからだを素通りしてゆく。加えて、我慢とストレスを強いる私生活が、四六時中彼女を包囲した。三八歳も年長の夫の発病と発作にうろたえつつ、睡眠時間を削って看病と家事をこなす日々がエンエンと続いた。ピアニストとしての不屈の精進を持続する一方で、神の目を盗むように酒を飲み、忘却に酔いしれた。

 「キッチン・ドリンカーでした。レギュラー缶のビールを一日二五本は飲んでいました。そんなことでは紛れようもないストレスの先に、ガンは当たり前のように待っていたのですね」

 何という皮肉だろう! ガン宣告が「救済」だったとは。長い苦しみは転調を迎え、もうこの結婚は全うしたのだ。そう思うことがゆるされる。まるで「乗り換え切符」をもらうように、彼女は医師の宣告をきいた。

 「このまま死んでもいい、という心境でした。でも、たった一つ心残りがありました。今まで、ピアニストとして自分のショパンを弾いたのか、これで終っていいのか、という問いが残りました」

 人としての死は受け入れる。しかしピアニストとしては、どうしても死ねない! 終えたいことと、終えてはならないことの葛藤と選別。まず彼女は手術を拒否することを選んだ。手術はピアニストとしての死を意味した。

 「バイオリンニストの巌本真理さんが乳がんの手術後、どれほど演奏家としての再起に苦しんだかを私は知っていました。神経と筋肉に刃物を入れることが、演奏家のからだにどんな結果を残すかが恐怖でした。それより、手術をしないで、命ある限り演奏し尽くして果てたい、という思いでしたね」

 ところが家から近いというだけで行った病院で向井佐志彦先生とめぐりあった。彼はアメリカで「乳房温存療法」を学んできたばかりだった。ガン細胞のみを切除し、あとは放射線で治療する。大小胸筋を含めて乳房全部を摘出する手術にくらべ、筋肉へのダメージは少ない。彼女はこれに賭けることにした。一九九〇年、四五歳の夏だった。

 ガン発病と時を同じくして離婚した。財産の一切を相手に与え、残ったのはピアノだけ。無一物の軽さは、思い出さえも遠い彼方にかき消して、ベッド一つの白い空間に横たわる。なんと心細く、しかし何と自由なひとときだっただろう。まるで、ふっと息を吸って、新しい人生の鍵盤に指を触れる瞬間のように。

 「私は病院始まって以来、一番早く回復した患者だったそうです。入院中もそっと夜抜け出して、飲み屋さんでキュッと一杯やっていました」

 軽いフットワークのガン患者である。それは「一度死んだ」人間のもつ軽さだ。財産や人間関係から解放され、鍵盤を走った両手が、冷たく泡立つグラスの重みを確かめる。

 「取られた、失ったと思うから執着が出てくるのです。捨てた、と思えばいいのです。ゼロになると、人間は強くなります」

 それはガンが教えてくれたレッスンだった。ガンは津波のように暮らしの一切合切を海の藻屑と消してくれた。波が引いたあと、ピアニストという裸かの自分が一人浜辺にとり残された。

 「あぶら汗を流す、辛いリハビリが始まりました。事務所がどんどんコンサートのスケジュールを入れてきました。ラフマニノフやベートーベンのコンチェルトです。断れば、もう一生仕事が来ないかも知れず、飢え死にするしかありません。芸大でのレッスン料だけでは、マンションの管理費で消えてしまいそうでした」

 もう、あとがない。ガンから生還した人に、ラフマニノフを弾くことは、松葉杖の人にフルマラソンを走らせるに等しい。しかも「筋肉バトル」ではなく、ホール一杯の聴衆を芸術表現の高みへ拉致し、陶酔させなければならない。

 「必死でピアノに向かうのですが、前はこう弾けたのに、今は体が言うことをきかない。昔のやり方では出来ないことを思い知る毎日でした」

 遠い潮騒のように少女の頃から追いかけた西方の音。人生の深淵を越えて、遠藤さんは失った音を追うのではなく、新しい音の誕生に賭けて、自分の暮らしを変えた。

 「椅子の高さを一ミリずつ変えるところからやり直しました。前のように弾けないなら、体の使い方と動き方を変えるしかありません。『動法』というのに関心を注ぐうち、ああ、自分は衣食住でヨーロッパを追いかけることばかりしてきたなー、と気付いたのです」

 西洋人は重心が高い。丹田の位置が日本人は低い。整体協会で習った呼吸法で自分の体を探検してゆくうち、遠藤さんは和風の暮らしこそ自分にふさわしいことに気付いた。体に無理のない和服の優しさに驚き、卓袱台ひとつで暮らす目線の低さが、暮らしの合理性を教えてくれた。それは心のあり方も変える革命的なことだった。

 「長いこと私はエトランジェ(異邦人)でした。二十歳でポーランドに行き、五年間を過ごし、パリに七年間いて、日本に帰ってきてもエトランジェ。おまけに病気をしたから、遠い祖国ポーランドを思いながらパリで喀血したショパンの気持がわかるようになりました」

 もう一人、その気持ちを重ねたい人がいる。一九五五年、戦後初めてショパン・コンクールに出場した田中希代子。これからという円熟期、膠原病の病魔が彼女を襲い、音楽界を去った。自分の意思で手を動かせないまま七年前に亡くなった。遠藤さんは子供のころからこのピアニストに憧れていた。

 「媚びのない演奏、媚びのない生き方、その一言に尽きる方でした。ポーランドに行くと必ずその名前を聞くほど、強い印象を残された方でした」

 その田中希代子は晩年こう言っていた。

 「もし神様が、お前からは随分いろいろなものを奪ったけれども、お皿を洗う能力を返してあげよう、と言ったら私は跳び上がって喜ぶでしょう。お皿を洗う事だって、立派な自己表現ですもの・・・」

 ピアノを弾けないピアニストの苦悩を遠藤さんは知っている。同時にピアノが弾けるのに、それが「自分のショパンではない」と苦しみぬいた日々もくぐってきた。その遠藤さんに私は最後の質問をした。

 「ピアニストとして、これだけはやっておきたいことがありますか?」

 「ショパンの全曲を演奏したいです。十数回の連続演奏会になるでしょう。再来年ぐらいに取りかかりたい・・・すごい赤字になるかな」と言って笑った。

 自分の弾くピアノが、すべて「自分の音」であることの自信がこめられた言葉である。ガンを切って十四年が過ぎた。

 「再発はない、と私は決めました。不安があると血が濁るので、それは考えない。去年までタバコも吸っていました。お酒は相変わらず楽しんでいます」

 地上のいとなみすべてを包み込んで、純白の雪景色から始まるようなCD「遠藤郁子・ショパン春夏秋冬」。舞い上げる鶴の飛翔を予感させる25曲のプレリュードは、すべて「遠藤郁子のショパン」である。


プラトニック・コスチューム -最終回- 「偉大なり世阿弥」

2010-03-24 06:59:35 | エッセー(随筆)
 なぜ、境界が好きか?そこに、より豊かな、より深い、より多様なイメージの手掛かりがあるからだ。ちょうど、国境に特有の緊張感があるように。

 大切なのはランジェリーではない、この「イメージ」なのである。

 私は先日、意を決して新宿・歌舞伎町のランパブ(ランジェリー・パブ)に行った。店に入るなり、半裸の女たちが下着姿で迎えてくれる。下着フェチにはそれでよいだろうが、私は「境界線フェチ」なのだ。つまり「いきなり下着」は「×」なのだ。どうしてほしいのかというと、私服であれ、制服であれ、着ているものを徐々に剥がし、脱ぎ、次第に下着が見えてきて欲しいのである。時間的、物理的に「境界領域」を確かめることなく、恥らうこともなく、ただ下着を鼻先にもってこられてもダメなのだ。

 ランパブの経営者は努力してない。下着における、次第に、徐々に、という「時間の推移」を無視している。マグロでいえば中トロ、カレイのエンガワという一番うまいところを捨てて刺身を山盛りにしてもダメだ。下着で出迎え、下着姿でうろうろし、時間が来て下着姿でバイバイ、では、起承転結のメリハリがまるでない。別れは、下着の上に次第に服がかぶせられ、隠されてゆく「剥離」の切なさがあって、我らがイメージは昇華できる。

 ランパブの女性は、これで金をもらえるからいい。風俗業の無残とは、こんなことで金を取られる男性客である。行き場なく彼はそこへ行くのか?本当は、男の性欲の行き場がないのではなく、男のイメージの行き場がないのである。

 私は境界にこだわる。

 エロスは生と死の境界にある。

 快楽は陶酔と覚醒のはざまにある。

 ランジェリーは肉体の辺境、日常と非日常の間にある。

 私は越境者の高揚と不安で、そこにたたずむ。ゆきて還れぬみちになるかもしれない。絹のような微風と、レース地のような夕霧が迫ってきた。立ち戻る徒労の思いには耐えられず、野宿する勇気もない。

 私は立ち上がり、国境の向こうの夜に向かって歩を進めた。

プラトニック・コスチューム -5- 「境界線フェチ」

2010-03-17 18:06:43 | エッセー(随筆)
 男の私は、自分自身の生理や心理が不思議でしょうがないことが幾つかある。その一つが、「なぜ、スッ裸の女性より、脱ぎそう、または脱ぎ掛けの女性の方がセクシーなのか?なぜ、全部が見えるより、スカートのスリットから内腿が見える方が、ドキリとするのか」というモンダイである。

 私はきっと「境界線フェチ」なのだ。私は、本体より「境界」に興味がある。たとえば夜と昼の境界、遅い午後、夕暮れの手前のひとときが好きだ。ご馳走よりも、その直前、ディナーテーブルより、ウェイティング・バーが好きだ。そしてハダカよりランジェリーの方が好きだ。

 国家などは虚構である、と思い知らされた満州からの引揚者である私は、国境と聞くと胸が騒ぐ。そこには警備兵がおり、尋問のゲートがある。行き来がとがめられ、超えることがためらわれる。

 たとえば、ランジェリーは日常の辺境に引かれた国境線である。それを越えた向こうに、肉体の地平が広がり、意識の森がある。乳房の丘があり、お尻の丘陵が見える。ランジェリーは、そのようなイメージを呼び起こす境界線だ。

 私は、ガーターストッキング姿の女性が好きだ。あのピンと張ったラインが作るお尻と太腿の丸い量感と緊張感を愛する。出来れば「日本ガーター党」の総裁になりたいくらいだ。党総会パーティーは、夕暮れ時を選び、おしゃれなホテルのウェイティング・バーで始めたい。ガキはお断り、大人のカップルが参集する。冷たいシャンペン・グラスを持ち、私は立って挨拶する。

 「ようこそ、お集まりくださいました。今宵お集まりの淑女たちは、皆様ガーターストッキングをお付けです」別にスカートをめくったり、肢を見せたり、の必要はない。この一言で十分なのだ。見るより想像する方が胸が熱くなる。

 境界とか、見えぬのに見えるが如く、と書いてきて、はた、と思う。

 「虚実皮膜」「秘すれば花」とはこのことではないのか、と。

 私は世阿弥の芸術論に詳しくはない。しかし、彼が能の精神として語りたかったことは、私がガーターストッキングについて語らんとすることにつながるのではないか?

 とすれば、この「見えそうで見えない」モンダイ、内腿チラリ、脱ぐことの予感と、隠すことの恥じらい、肉体国境線の箔の鉄条網たるランジェリーとは、実は文化の根幹に触れる重大事ではないのか?

 げに文化は境界にありき。私は、わが人生の後半生をこのモンダイの探求にささげようと今、思っている。


プラトニック・コスチューム -3- 「不幸な衣装」

2010-03-03 11:24:51 | エッセー(随筆)
ランジェリー、この小さな衣装にとっての不幸は、大半の男から正当な理解を受けていないことである。

ランジェリーを、女性の身体から「はがし」「脱がす」ことのみに性急な関心をよせる男たちにとって、ランジェリーはいわば女を武装解除させるための最後の「ハードル」なのである。

ハードル?それは「乗り越え」「撤去」すべき対象であって、要するに邪魔ものなのである。ランジェリーにとって、それは何と不幸なことなのだろう!

美しいランジェリーに寄り添われた女性の体が、いかに艶やかに輝いているか、それを眺め、愛するプロセスをもっと大事にしたら、事態はもう少し変わるだろう。いや、それは、ほとんど「革命的」といっていいほど世の中を変えるだろう。つまり、男と女の「関係」がそれによって変わるからである。

たとえば、ランジェリーとはステンドグラスである。朝の光がそこに差しこみ、カテドラル全体を、天国的な空間に変えるように、ランジェリーは、キラキラと新しい光で女性の体を照らし、包む。男はぬかづいて見上げ、ほとんど礼拝のこころで彼女を讚える。そこに、新しい男と女の関係が生まれないであろうか。

それは、相手が未だ気付いていない、その人固有の魅力を発見し伝えて上げる大切なプロセスなのだ。この小さな衣装は、ふたりを、交わりと憩いのパティオ(中庭)に誘う。

もはや、そのとき、ランジェリーは「不幸な衣装」であることをやめているだろう。

改めて、別な名称で呼び直したい。体を包むことによって、美しい光を招き、たおやかな陰影を作り出すランジェリーは、女の精神を組み替え、男の心を高揚させる。だから、この衣装を「プラトニック・コスチューム」と呼びたい。