石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

イマダ決着セズ

2011-08-15 10:25:18 | 戦争
(『文化通信』1995年2月20日号)

 昭和16年12月、日本機動部隊が真珠湾に向かっていた頃、ワシントン駐在の日本大使館員は中華料理店で宴会をしていた。その結果、本国からの電信の翻訳とタイプ打ちは遅れ、歴史に汚点を残す「だまし討ち」を招く。担当書記官にはなんのとがめもなく、戦後、外務次官まで出世した。最近、外務省の公式文書が公開され、日本国民は50年目にして初めて真相を知らされた。

 ひるがえってドイツではどうか。私が翻訳した『戦争の記憶―日本人とドイツ人』(TBSブリタニカ刊)は次の事実を教えてくれる。実に、1992年まで、ドイツでは「戦犯裁判」をつづけていた。元ナチ党員、強制収容所幹部に終身刑が宣告された。被告人ヨセフ・シュヴァムベルガーは、その時80歳だった。

 日独のものごとの決着のつけ方が違い過ぎないか、これが本書を読んでの第一の感想である。

 「雨花台」とは何か、どう読むか、私は本書を読むまで知らなかった。これは「イーホワタイ」とよむ、南京郊外の地名である。これは南京攻略の激戦地であり、虐殺の現場であり、戦後、日本軍将校の何人かが処刑された場所である。中国人なら誰でも知っている。しかし、日本人はほとんど知らない。このギャップの先に何があるのか、怖い。

 だれが、どこから指令したわけでもないだろうが、戦後50年、日本人はひたすらあの戦争を忘れようとしてきたのではないか。復興も経済成長も、そのためのエネルギーのはけぐちとしてきた。この二つもどうにか終わった。次は「不況対策」と「国際貢献」だ。戦争を忘れるテーマにこと欠かないのだ。

 しかし、時に忘れたいことが突きつけられる。中国残留孤児、香港軍票問題、従軍慰安婦……本書は私が見すごしてきた次のような事実も教えてくれた。

 1993年3月13日、金泳三韓国大統領は大統領府秘書官会議で次のように指示した。

 「日本に真相を明らかにすることを求めるが物質的補償は求めない。元従軍慰安婦の女性への補償は、韓国政府予算から支出するように。」

 すなわち、日本人はいつのまにか道義上の借りもつくってしまった。これは外交上の失態でもある。イニシアチブを完全に韓国の手に握られてしまっている。つぐないをどうするか、思案にくれているうちに―。

 著者、イワン・ブルマは、ヒロシマ、アウシュヴィッツ、南京…と訪ね、当事者にインタビューを重ね、ドイツと日本の戦争への対し方を検証している。その足は遠く秋田県花岡にまで及び、中国人強制連行と虐殺に現場を訪ねたうえで、鹿島組の決着のつけ方に論及している。

 この、労を惜しまずに真相を追うジャーナリストの姿勢もまた、本書の見ものと言えるであろう。1951年、オランダ生まれの戦後世代の著者。戦争に何のうらみも先入観もなく、理性をもってあの戦争と格闘するエネルギーや視野をもった、このような作品が、わが同邦の戦後世代から生れてこない淋しさも、本書のもう一つの読後感である。

 外務省文書は、官が官をかばう真相を伝える。そして日本人は日本人をかばってきた。我々は戦争を起こした明治人を非難しない。戦争に加担し、戦争を教えず伝えない大正・昭和の世代を非難しない。真相を追究しない戦後派を非難しない。我々は総じて誰をも非難しないまま、いま、かくの如く日本を作り、そこで生きている。戦争の決着は、21世紀の日本人に託して、我々はこの世を去るのであろうか。本書は、そのような根源的な問いに読む者を誘う。

"Art from the Ashes: A Holocaust Anthology" Lawrence, L. Langer (ed.)

2011-08-09 09:44:25 | 本・書評
(丸善刊 「學鐙」1995年8月号掲載)


 「日本人が泣いているのを見ると頭にくるわ」知人の在日朝鮮人女性が言った。映画「シンドラーのリスト」を見終わって、場内が明るくなった時、客席ではハンカチで涙をぬぐう人びとがかなりいた。

 ナチスによる「ホロコースト」について日本人は責任を問われることはない。ユダヤ人の悲しい運命に同情の涙を流してカタルシスにひたることは許されるはずだ。にもかかわらず、なぜ彼女は「頭にきた」のだろう。

 たぶん彼女は、日本人の想像力の欠如を言いたかったのだろう。ホロコーストは遠いヨーロッパの出来事だった。しかし同じ時期にアジア全域で日本人が行った暴力・拉致・殺戮に想像はいかないのか?ドイツ人がユダヤ人にしたことに涙を流す人は、日本人が朝鮮人に何をしてきたかを知らないのか?その「記憶」を日本人はどのような「ことば」にしてきたのか?

 私の目の前に一冊の本が置かれている。700頁、厚さ5センチの本書の重量感は圧倒的である。ホロコーストについて書かれたドキュメント、日記、エッセイ、小説、戯曲、詩が集められ、巻末には16ページにわたってイラストや絵も紹介されている。

 驚くべきは本の重量感ではない。ホロコーストという一つのテーマについて、ユーラシア大陸各国語に加えてヘブライ語でも書かれた膨大な文献資料を渉猟、読解、選別、編集し切った人間の情熱である。

 ヤンキェル・フィルニクという、聞いたことのない名前もある。「トレブリンカの一年」という記録を残している。ポーランド生まれの大工と紹介されている。75万人から100万人が殺されたというこの収容所で彼が生きのびることができたのは、ひとえに大工という技術のゆえである。彼は脱走に成功し、1944年5月、自分が体験し目撃した記録をワルシャワで秘密出版する。それがロンドンに運ばれ、連合国側が強制収容所と大量殺戮の実態を知ることになる。

 毎日何人がガス室で殺されたか、ガス室はどのような構造か、拷問と労働の実態はどうであったかの克明な記録である。「ナチ『ガス室』はなかった」という『マルコポーロ』誌の筆者及び編集者は、まずこの記録に反証を試みるべきだったろう。

 神戸大震災の現場中継でキャスター達はしばしば不用意にくりかえした。「このような惨事を前に私はことばを失います」

 語れ、ことばを捜せ、表現を試みよ、どうか、ことばをなくすなどと簡単に言うな!

 本書の冒頭で、編者のローレンス・ランガーは「ホロコースト文学を書くことと読むこと」という題で小論を掲げている。「ことばには限界がある。圧倒的な現実を前に、ことばを紙に記す行為の無力感に襲われることがある」と認めつつ、しかし、彼が本書でやろうとしたこと、やりとげたことはそれへの挑戦だった。語り尽くせぬことを語ること、それ以外に体験の意味を探り、記憶にいのちを吹きこむ方法はない、と言わんばかりに。

 私はイアン・ブルマ著『戦争の記憶―日本人とドイツ人』(TBSブリタニカ刊)という本を翻訳した。翻訳家でもなく、ヨーロッパ現代史の専門家でもなく、映像と出版の企画をする個人事務所を経営する私が、敢えて8百枚の翻訳を試みたのは何故だったのだろう。

 私事を語れば、敗戦時3歳だった私に戦争の記憶があろうはずもないが、ソ満国境に勤労動員で送られ、ソ連軍侵攻に遭遇、死亡した当時14歳の実兄の理不尽な運命に対し、心の中に埋めようのない空洞があった。翻訳はそれを埋めるせめてもの作業であった。ことばが欲しかった。信ずべきことばに出会いたかった。

 厚さ5センチのこのアンソロジーには、ドイツの教科書にものっている詩篇「死のフーガ」を書いたパウル・ツェランの15篇の詩も収録されている。ドイツ語を彼に教えた母は、ドイツ語で死の宣告を受け強制収容所で死んだ。1970年、49歳、パリでの自殺は、彼がドイツ語に絶望し、ドイツ語から逃れる唯一の方法だった。にもかかわらず、本書が我々に語りかける通奏低音は、よるべなき状況にあって、よるべとなることばをさがせ、そして語れという激励である。

(いしい・しんぺい 映像&出版プロデューサー)