千里山ブラウズ

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地下連絡通路

2006-07-19 00:35:18 | 千里山ウォーカー
千里山は阪急千里線により東西に分断されている、ということは先日の記事でも触れましたが、文化踏切の遮断機が下りても地下連絡通路は、元気に駆け下りていく子供達以外は、余り使われていないようです。僕はあえて足腰の鍛錬のために階段を降昇することにしています。
もう一方の北側にある地下連絡通路は、近くのナオミ幼稚園の園児達が集団で使う他は人通りもまばらで、夜などは女性一人で通ることはとても勇気がいることでしょう。確かに蛍光灯も数少なく昼間でも薄暗くて、いつも少し湿気を感じるような場所です。
しかし、意外に僕はこの反響の良い地下通路は気に入っています。何を隠そう、ここは僕のオリジナル曲の音楽室なのです。向かい側にも人が居ないのを確認すると、潜り抜ける一分くらいの間にサビの部分を歌って歩きます。

 Sky Full of Stars 君の心が見えてく~
 Sky Full of Stars 遠い銀河を探して Deep purple
 Sky Full of Stars 果てしない季宙(ときぞら)を~
 Sky Full of Stars 流れろ~♪

そして、階段から出口の方を見上げると眩しい程の明るさが広がり、僕はしばしの夢宙遊泳から街の喧噪の中へ再び帰っていくのです。

文化踏切 : 駅側の踏切をこう呼ぶそうで、その名が千里山住民の小さな自慢になっているそうです。

【追記-1】「千里山の4つの跨線橋」の記事を書きました。

【追記-2】千里山.NETの「NET放送局」メニューの「千里山の音」コレクションに、北側の地下連絡通路を通る足音を掲載しました。

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6 コメント

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地下道 ()
2006-07-19 07:56:45
私も偶に(滅多に)利用しますが、この記事を読んで疑問に感じた事があります。何故あの場所に地下道が存在するのか?千里山で生まれ育った方や古老の方に教えていただきたいと思います。千里山が終点だった頃に使われていたものでしょうか?
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文化的 (きりん)
2006-07-19 20:07:05
 千里山会の会誌七号の、「千里山開発物語(四)」によると、千二小開校に際して、通学に踏み切りを渡るのが危険なので地下道を作ってもらったという旨が書かれています。昭和の初期に子供の安全のために地下道を作ったのはとても先進的だったのですね。

 それと、駅構内の地下道と外側の地下道との間の出入り口は、電車通学していた円山町近辺の児童が利用していたと思うのですが、記憶が曖昧です。実際に使われていた方はどうだったでしょうか。
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出入り口 (ブラウザ)
2006-07-19 23:43:35
きりんさん、考証有り難うございます!!

今も元気な子供達が主に使っていますので、目的に適っているのでしょうか。



駅構内の地下道と外側の地下道との間の出入り口は僕も気になっていました。

何か団体の出入りの時に臨時的に使われたのかと想像していましたが‥‥。
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踏切名前 (あんちゃん)
2006-07-20 09:46:29
因みに、関大前の踏切は「住宅地」、それから大阪のほうへ向かっての踏切には、「花壇」「大学」「豊津墓道」と名前がついています。
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Unknown (てつ)
2006-07-21 12:25:39
その地下道 ナオミ幼稚園に通った2年間

しょっちゅう通ってました

もう 約40年ほど前になるのかな?

祖父母の家が 虹ヶ丘でしたんで
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エントリー予告 (ブラウザ)
2006-07-21 16:50:59
虹が丘、月が丘、星ヶ丘、霧が丘、自分のデザイン事務所の名前がスカイフルスターズ(満天の星)だからなのでしょうか、住所の「千里山月が丘」は気に入っています。星が丘では余りにも出来過ぎの感があります。

http://skyfull-stars.com



さて、近々千里山を東西につなげる「跨線橋」の記事を書く積もりです。のらねこ商会さんの解説も大いに参考にさせて頂いて‥‥
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