S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

無題

2005年04月30日 | つぶやき
ブログ巡回先で、ご家族の突然の訃報を告げる記事を発見し、呆然としております。
少し前から、このご家族の健康がすぐれず、ということを目にしていたなあと端々に記憶していることを思ったりします。
この突然の訃報、そのことと関係があるのだろうかと、思っても詮無いことなど思ったりもしています。

知的障害をもつこのご家族。
その知的障害は、本人の主訴が理解しにくいということに関係したのかしなかったのか、などと思いが巡る。

うちの娘は、体調を崩したときに、そのことを言葉では訴えられない。
ただでさえ「言語」というものの使用状態が少ない上に、言葉で体の症状を訴えるということをせず、しかも我慢強い。
熱にも、痛みにも、じっと耐えようとする個性の持ち主でありまして。
また、じっと耐えることが個性になってしまっているので、「体調の悪化を表現する語彙」がちっとも身につかない。
なんとなく変だなと思っていると、突然吐くことから始まることが多い。
わたしにできることは、ちょっとした風邪でも、体調を崩した後は、余裕を持って休ませるというくらいのことで。

10年近く前だったか。
友人が、彼女のお嬢さんの持つ知的障害に関して、わーっと泣いた。
知的障害が悲しいということではないんだ、と。
この子は体調が悪いときに、その自分の体調の悪さをどこまで言葉に出して言えるのだろうか、と。
それを自分はわかってやれるのだろうか、と。
いろいろな「検査」に関して全て「異常なし」だったこのお嬢さんは、極度に疲れやすく、いつもどこかぼうっとした印象があった。
結局、何度も検査を繰り返したはずの「心臓」に関して、緊急手術が行われたのは、それから間もなくだった。

今回の「訃報」。
お母様が出す「文字上」でしか、接点が無かったけれど。
でも、そうして「出会った」命。
あなたのお母様が時々話してくださったことを思いながら、出会えたことを感謝します。
どうぞ、安らかに。

「差別」考

2005年04月28日 | インターネット雑記
ブログ巡回先で、「むだづかいにっき」のえっけん氏にあてたコメントで「某所は気にするな」的なものを目撃。
まあ、彼はこれまでに何度も某所で不名誉な形でHN出されてネタにされたことはあったので、単純に「また?」と興味を持って某所眺めにいきました。

ふむふむ。
ん?
コレはわたしのことかな?
えっけんの考えの根元にある差別感は強烈
その差別感をごまかすために障害者の家族と
結びついてる模様

だが、障害者の家族が差別心がないなんて言うのも妄想
文章読めば、差別心でまくりの所なんてありまくりだしな

ババアに助けを求めてる毒男30杉は
イタイとしか言いようがない
助けを求められた覚えは無いが、ババアってのは?
わたし?
ま、ジジィではないからな。

いや、ここに見る「悪口」ですが。
実は、わたしはとても興味深かったです。
何かを語るときに「肯定」を出せば、自ずと「否定する存在」も出てくるわけで。
それが「差別」ってことになるなら、何も肯定できなくなるんですが。。。
はあ、こういう感想が「助けるババァ」ってとこになるのかな?

ま、そんな感想とは別に、また素朴な感想が。
「差別感」という言葉を、「悪口」というものに使おうという考えってのがあるんだなと。
非常に、素朴に、ほう、という感想を持った。
「差別」というものは、具体的なことに関して起きていくもので、誰もが持っていると思うし、持っていない人は逆に言えば「存在しない」とわたしは思ってました。
こう、なんというか、「人格否定」に使うという発想を持つ人もいるんだなと。
いや、揶揄するわけではなく、ホントに素朴に「ほう」と思った。
使う人、というより、使われた「差別」という言葉自体に、興味を持ってしまいました。

>その差別感をごまかすために障害者の家族と結びついてる模様

この発想も、すごく新鮮だった。
ほう、そんな風な解釈があるのか、と。
しかし、ホントにそんな発想持つ人がいたら、怖ろしく「器用」な方だろうな、と。
「差別感をごまかすために」ではなく、「善人気分を味わうために」とか、「自身の人間関係のバリエーションのひとつと満足するために」という種の方は、現実的にはいらっしゃると思う。
わたしの経験上は、女性ですな。
ただ、発端がどうあれ、わたしは「引っぱりこんだモン勝ち」だと思ってます。
引っ張り込んでいくと、発端はどうあれ、人、変化していく可能性持ってますからね。

>障害者の家族が差別心がないなんて言うのも妄想

ってのには、「そうよ、妄想よ」と思ったし。

「悪口」「陰口」というものに使用するケースがあるんだなあという、素朴な発見を感じた「差別」という言葉。
いろいろ調べてしまいました。
で、見つけたサイト、『“差別用語”と呼ばないで』
すご~~くおもしろかったです。
同意するとこ、多々。
ただし、このサイトの全文きっちり読まないでガタガタ言う人も多そうだけど。

以上、某所ネタはちょっと怖いけど、
いや、けっこう怖いけど、
でも拾ったもの、多かったです。
収穫、大。
「ありがとう」、かな。

ソーシャルブックマーク

2005年04月26日 | インターネット雑記
「ソーシャルブックマーク」ってなに?

デイリーリサーチ:約3割が「利用したい」、ソーシャルブックマークサービスとは?

ふむふむ。
ブックマークサービスといえば、3年ほど前にBLINKというサービスに登録したことがありました。
公開する、というよりは、ウェブ上に保存するため。
しかし現在の「お気に入り」の記録をそのままアップロードできるので、PC内の「お気に入り」の整理ができていなくてぐちゃぐちゃだと、そのぐちゃぐちゃのままアップロードされるのでとても不便で。
はい、自分が悪いために、そのままアップロードできるという「利点」が「欠点」になりました。
ということで結局やめてしまいました。

さて。
ブログ時代到来で、いろいろなブログに「ふむふむ」というものを見つけたりします。
ところが、ブログが更新されていくと、そうしたものはどんどん過去記事になっていってしまいます。
ページが変わってしまったものを再度閲覧したいときに、探すのが大変。
PCの「お気に入り」に放り込んでいくのは、ぐちゃぐちゃの中身をさらに混沌とさせるだけ。

ということで MM/Memo 登録です。
とっておきたいURLを、放り込み始めました。

ソーシャルブックマークサービス、いろいろあるようですが、なんでMM/Memo
話は簡単、「むだの素」のマネ。
「むだづかいにっき」のえっけん氏、ソーシャルブックマークの楽しみという記事にあるように、新しいツールをどんどん発掘される。
そしてそのことを内容とする記事上げをされる。
それを読みながらふむふむ言いつつ、「読者」は情報入手のいいとこ取りですな。
ありがたい、ありがたい。

で、できたのが「Smemo」。
入れるの、楽しいです。
入れるのも楽しいし、人のを見るのも楽しいです。
ぐちゃぐちゃの「お気に入り」も、今後、整理できそうです。

えっけん氏、ソーシャルブックマークの楽しみという記事中に、こんなことを書かれておりますが。
良いニュースサイトは、クリッピングする情報の質を選び、情報に対する価値観が近い人にとっては役に立つし、「自己主張」までは感じないものの、興味の対象を並べ立てることで、ある種の表現を感じ取ることが出来るものです。
ここでの「ある種の表現」というもの。
ソーシャルブックマークに記されていく内容を見ることで、その管理者が「何に興味を持ち、何を取っておこうと思うのか」というものが見える。
見ようによっちゃ、一種のプロフページのようなものになりそうですね。

*トラックバック
むだづかいにっき「ソーシャルブックマークの楽しみ」

ウンコに見る「距離感」

2005年04月25日 | つぶやき
ウチの10歳息子は、精神的な揺れや体調の変化等が腸にくるタイプらしく、下痢だの便秘だの忙しい。
そんな自分の「腸」とのつき合いの中で、「立派なウンコ」は彼の喜びのようで。
「立派なウンコ」が出現すると、トイレから叫ぶ。
「おかあさん、おかあさん、来て! スゴイよ!」
彼が叫ぶ「立派なウンコ」の基準は、体の教育で勉強した「バナナの形」で太くて長いもの。
喜ぶ彼のテンションを下げないように、負けないテンションで母は喜んでやることにしている。

しかし、クサイ。
「立派なウンコ」は、軽度の便秘後に多いので、しっかりとクサイ。
その臭さを感じる度合いは年々増加しており、また「直視時間」も微妙に減少している。
これは子どもの成長により生じている、わたしが彼のウンコに感じる精神的な「距離」なのだと思う。

赤ん坊の時期は、赤ん坊の肛門を直視し、ウンコを間近に見る。
クサイのなんのというより、肛門から出る「健康のバロメーター」を凝視する。
乳児から幼児期にかけて、お風呂で体が温まるとぽこんぽこんと浴槽内でウンコをしてしまうことが何度かあった娘に関しては、何度もウンコを手づかみで拾った。
「子どものウンコが怖くて母親がやれるか」なのである。
また、母親が子どものウンコに抵抗が無いという「距離感」に基づくものとは、子どもが母に向ける無心の愛によるものなのではないかとも思う。
母の愛が無常の愛なのではなく、母の愛というものは子どもが母に向ける無心の愛に育てられるものという気がする。
子どもというものは最低でも生まれ落ちて数年くらいは、どんな母親に対しても、母親がどんな態度を取ろうとも、母親がどんな人格を持とうとも、無心に母親を求めてくる。
愛されれば女は強いという公式が、ここでも成立しているような気がする。

オムツが終わり、パンツをはくようになっても、失敗すればウンコは目の前の存在だ。
やがて、当たり前に「個人の時間」をトイレで持つようになると、子どもと母親との間で、ウンコは遠い存在になっていく。
こういう「プライベートの確立」の象徴のひとつがウンコかもしれない。

5年生になった息子が、母親にウンコを見せる。
喜んでやりながら、自分が感じている「距離」を隠し、そして「その年齢になっても母親にウンコを見せるオマエは幼いなあ」とも思う。
でも、彼のそんな「距離感」も、もう終息までは時間の問題だろう。
アンタが自分でその距離を終わらせるまでつき合ってやるよ、と思う。
「拒絶」ではなく「卒業」と、本人が認識できるように。
しかし、とっくに個室で1人で寝られるようになっているのに、母に自分の人間関係上の秘密を持つプライベート感覚は成立しているのに、このウンコに見る「距離感」はおもしろい。
成長というものは、そういう多様なものなのだろうと思いつつ。

さて。
年老いていけば、子どもや介護者という立場の人間を別にすれば、配偶者がウンコの世話をする場合がある。
夫婦により個体差はあるだろうが、たいがいにおいて、夫が妻に世話になる。
夫のウンコの始末を妻がする場合、「愛された歴史という実感を持つ妻」は苦にならないらしい。
妻に育児歴があれば、特に「もともと知っている作業の応用版」という部分もある。
ただし、妻をないがしろにしてきた夫は、そうした介護を妻から受けることが難しい。
立場としての「妻」でも感情を持った人間であり、精神的な距離が遠い存在の「ウンコ」は、駄目なわけで。
この精神的な距離から発生する抵抗感が、ウンコの度に、夫婦が傷つけ合う可能性を多様に持たせていくだろうと思う。
人間関係上の距離感が関係なく、仕事として事務的に処理をする介護者に任せていくことがお互いの「利」となるのが自然だと思う。

たかがウンコ、されどウンコ。
ウンコには、見ようによっちゃ、健康だけでなく人生が見える。

迷惑トラックバック:雑談

2005年04月24日 | インターネット雑記
トラックバックには、送られた相手が「迷惑なトラックバック」と認識するものが存在します。
わたしが自分のブログを「自分の領域である」と認識し、削除の対象とさせていただく判断要素は「トラックバック受付に関しまして」という記事に上げた通りなのですが。

ブログを始めた昨夏。
「迷惑なトラックバック」の話題をあちこちのブログで読みながら、感想としては、
そういうトラックバックがあるんだ。
そういうふうに感じる人がいるんだなあ。
程度のものでありました。
「迷惑なトラックバック」というものは、相手のブログに自分へのリンクを貼る行為ということで「アクセス数が稼げる」と。
要するに、開設当時の自分のブログは、そういう「トラックバックを送った甲斐があるブログ」と認識されているわけではなく、そんな経験もありゃしない。
世間のウワサ、程度に聞きかじるという感じでした。

そんな中、自分のブログにある日トラックバックが。
アフィリエイトを目的とするブログが、わたしの記事中のたったひとつの共通ワードに向けて、発信されたものでした。

感激しましたねえ。
ウワサに聞く「迷惑トラックバック」だ~~~、と。
自分ももらえるようになったのだなあという変な感慨とともに、表示されるそのトラックバックをしばらく眺めていました。
削除したのはずいぶん後だったかもしれない。
初めてウィルス・メールを受信したときと同じ感慨。
なんか、こう、「うふふ。わたしもこれで一人前?」みたいな感じ。
体験させてくれて、ありがとう。
コレもある意味「トラックバック、ありがとう」ですね。
「ブログランキングに登録してください」という類のコメントも、初めてもらったときは大コーフン。
人のブログで見るのと、自分のブログで見るのと、コレ、感想が違う。
コレか~~~、みたいな感じ。
うふふ、って。

そんな「ブログ初心者」時期を経て、今では自分の判断基準に合わないトラックバックはささっと削除。
ささっと削除するだけでなく、「トラックバック受付に関しまして」なんて記事を上げたりして、すっかりトウが立った。
「ブログランキング登録へのお誘い」も、ちらっと見てばっさりと削除。
生意気になったモンです。

でも、ブログ初心者当時の「わ~~、コレか~~~」という感慨、懐かしいです。
たった数ヶ月前のことなのですけれどね。
ブログって、日々の流れ方、早いですね。

存在の証明

2005年04月22日 | たったひとつのたからもの
うちの娘は歌を歌う。

「この子は発語がありませんね」

そう、発達検査で言われていた時代から、歌を歌う。
日常生活で言葉というものをほとんど口にしなかった頃から、
その頃から、歌を歌う。

何度も聴く曲の歌詞を耳で覚える。
拙い発音で歌を歌う。
人に聞かれていると意識すると、やめてしまう。

やがて稚拙なりにも、言葉を使うようになった。
13歳の現在、彼女の持つ言語能力は、
3歳児にもまだ届かない程度だと思う。

他者が自分の知的能力をどう評価するか。
そんなこととは無関係に、娘は歌を歌う。
「歌う」ことが課題のひとつの「音楽」の授業では、
いまだ、声を出して歌わない。
口を閉じ、音楽のリズムに合わせて体を動かす。

「音楽」の授業では、歌わない。
でも、式典のときには、歌を歌う。
小学校の卒業式のときに、
卒業生として別れの歌を歌うのを、
卒業生として校歌を歌うのを、
担任は、娘に気づかれないようにそっと見ていた。
彼女が歌うことを気づいているのがバレると、
そう意識させてしまうと、
彼女は歌わなくなるのを知っていたから。

この3月に、養護学校の卒業式に在校生として出席。
まだ一年しか在籍していない学校の校歌を、娘が歌う。
「音楽」の授業で歌わないことを知っている担任が、
その姿をそっと見守ったという。

わたしは BUMP OF CHICKENの「sailing day」 がとても好きで、
一時期、車の中で何度も繰り返しかけていたことがある。
娘はこの歌の歌詞の断片を記憶する。

今、この曲を車でかけると、彼女は歌う。
サビの部分を、彼女は歌う。

「精一杯 存在の証明」

この歌詞を、きっと彼女は一生漢字で書けることはないだろう。
この歌詞の意味を、言葉で説明できる力を持つこともないだろう。

でも、わたしは、彼女がこのサビの部分を歌うたびに、
それを聞く度に、感動する。
わたしが聞いているのを悟られないように、
細心の注意を払いながら。
運転に専念しているようなフリをしながら。
そんな嘘の素振りをしながら、
この曲をリピートさせるスイッチをそっと押す。

意志

2005年04月21日 | つぶやき
「ある」ことが、当たり前の人間になりたくない。
「ある」ということを、支える人に思いを馳せる人間になりたい。

「無い」ことに、不満を叫ぶだけの人間になりたくない。
「無い」ことから、「ある」ことへつなげていくヒントをさがしていく人間になりたい。

「得られない」ことに、不平を言うだけの人間になりたくない。
「得られない」ことを、得るための工夫を見つけていく人間になりたい。

正当な権利を主張しようとするときに、
それが本当に正当な権利なのか、
熟慮する力を持つ人間になりたい。

闘うべきときは、
まっすぐに闘う人間になりたい。
そのためにも、
自分の闘う機会に対して、
安直な判断をする人間にはなりたくない。

gooブログの「重さ」に関しまして

2005年04月20日 | ブログ紹介
gooブログ、現在重いですね。
夜の9時半を超えると、問題が発生してくる感じが続いています。
コメント表示の遅さから重複投稿をさせることになってしまっていることがあり、申し訳ないです。
コメント投稿に関しては、ブログに表示されていなくても、あった時点でメールに全文送られています。
自分のコメント投稿に関しても、これはチェックできていますので、コメント投稿に関しては、すぐに表示されなくてもだいじょうぶだと思われます。

アクセスの重さ。
記事投稿の反映の重さ。
コメント投稿の反映の重さ。

いつ頃だったか、じゅげむがやたらに重い時がありましたね。
同様のサービスであるseasaaに変えられた方がいらしたなあと。
ちょっと前は、livedoorが重かったですね。
コメント表示に時間がかかってたなあと。

わたしの感覚としては「今度はgooの番ね」と、そんな感じです。
インターネット上では「サーバー落ち」というものがあると、ずいぶん前に、認識した感覚があります。
サーバー落ちのために、ミラーサイトを用意したり、複数掲示板を用意していた方も、HP主流時代にはよくあったことだなあと。
「そんな前の時代のこと」という方もいらっしゃるようですが、ブログというサービス自体が始まってまだやっと一年を超えたばかりのgooブログ。
しかも、ユーザーの爆発的な急増を抱えているのだから、仕方あるまいと、わたし個人は思います。
仕方あるまいと思えない方は、無料レンタルの掲示板一個用意してくれば済む話かもなあとも思います。
ブックマークに入れておいて、gooが不安定なときはそちらに移動して、スレッドとして記事上げし、落ち着いたらまた持ってくるという方法もあるのになあ、と。

インターネット上で、自分が利用しているサービスやサーバーの重さを感じるときに、わたしは自分の「インターネット依存度」を試されているような感じがします。
おととい、わたしがブログを持つ理由 という記事上げをしましたが、自分にとって「チャンスをつかみ、生かす」という媒体は、けしてブログだけじゃない。
インターネットだけじゃない。
自分にとって、ブログやインターネットは、自分が持つ道具の中のひとつである、と。
今はそんな感じで、まあゆったりと、gooが落ち着くのを待っている状態であります。
現在も、致命的とはいえない状態だと認識していますし、サーバーメンテナンスも25日に予定 されていますので。

こちらへのアクセスに不便を感じられるという方、申し訳ないけれど、もう少し待っていてくださいね。
自分の会社のサービスの状態が悪いというのは、スタッフにとって「改善すべき問題である」と。
そういう態勢で改善に臨んでいるはずと、わたしは信頼して待っていたいと思いますので。

わたしがブログを持つ理由

2005年04月18日 | ○○さんにトラックバック!
ブログを開設して、更新を続け、8ヶ月が過ぎました。
わたしがブログを持つ理由というものが、だんだんはっきりとしてきたように思います。

わたしがブログを持ち、更新を続ける理由というのは、
チャンスをつかみ、生かすためです。

オノレにとってのチャンス、これは思考のチャンスです。
思考を公開し、発言していくことで自分の思考が明確になります。
また、上げた内容に関してコメント欄で意見や感想を入れてくださる方との会話の中で、より明確になっていくことが実感としてあります。

そしてまた、他者の思考を聞くチャンスでもあります。
他者の思考を、自ブログのコメント欄にいただいた文章で聞かせていただくこともあります。
他のブログを読み、そこで持つ感想から、自分の思考をふり返ってみたりします。
ただ読むだけと、自分の思考を表現した後で読むことと、かなりの違いがあるとも思われます。

加えて、他者との関係で思考を発展させていくチャンスも生まれます。
これはブログに備わった「トラックバック」という手段が有効に機能します。

どのチャンスも、自分のブログを持っているからこそ、つかむことができるチャンスです。
こうしたチャンスは、既知の特定の仲間との交流よりも、不特定多数が閲覧できる状況においての方が多種多様に広がります。

最近、「SNS」という言葉がよく聞かれるようになりましたが、わたしはこれがよくわかりませんでした。
わたしの人間関係に、紹介してくださる方が存在していないこともその理由の一つです。
IT用語辞典e-wordsで調べたりなんぞ、します。
検索で、サービスのいくつかの概要を調べたりなんぞ、します。
その上で、わたし個人は「ブログとSNSは別物」と判断しています。
SNSでは自分が公開する思考に関して、最初から読み手もしくは読み手の層を限定してしまうことで、わたしが考える「ブログを持つことで得るチャンス」というものの幅が狭くなるように感じるからです。
また、限定された読み手もしくは読み手の層に向かって公開することは、特定の「配慮」を持つことを要求されますから、「ブログの持つ自由な思考の公開のチャンス」というところからは遠くなるような気もします。

「ブログとSNSは別物」という判断の上で、SNSにはその機能を生かす使い方があるだろうとも思います。
わたしは現在、ヤフーグループを利用したメーリングリストに複数参加しています。
その一つがこちらです。
このメーリングリストのように、実名や個人情報を公開することで生かす方法が、SNSには存在しているように思います。
SNSのひとつであるグリーのキーワード検索画面を利用して調べてみますと、「ダウン症」に関してのコミュニティはまだ存在していないようです。
しかし、「障害」と入れて検索して出てくるコミュニティの概要を見る限り、生かされた使い方をしているように思います。

わたしが出した結論としては、ブログとSNSは、使う人間の目的と、推測される発展の展望により選択されるもので、それがあってはじめて比較対象になるような気がするというものです。

SNSに関して調べ、思考するということ。
わたしにとってのこのことのきっかけは、むだづかいにっき「ブログがSNS化すると」 からトラックバックをいただいたことです。
このことも、わたしがブログを持つことで得たチャンスのひとつであると思われます。
また、ここでいただいたチャンスから、さらにもう一つの思考に関してのチャンスもいただきました。

それは、むだづかいにっき「ブログがSNS化すると」に紹介された村井説人の日記「ブログを運営していて感じること」を読んだことがきっかけです。
こちらでは、実名を公開してブログを展開していくことの可能性に関して述べられています。
わたしのブログは、見る人が見れば簡単に実名が発覚するものです。
実名を公開することと同じ覚悟で作っているものでもあります。
ただ、実際にわたしが実名を公開した場合、不特定多数の閲覧者からの反応は現在よりも制限が出るのではないかと思われます。
ブログという世界の中では、匿名性、もしくはゆるやかな匿名性に守られながら発言している人の存在というものがあるからです。
そうした方々が、実名を公開するブログの前で、関係のアンバランス、アンフェアを感じられてしまうマイナスの可能性というものも存在するのではないか。
実際の個人情報がゆるやかな匿名という状態で出されているからこそ、拾える反応もあるのではないか。
そんなことも、わたしが考える「ブログを持つことで得るチャンス」に影響していくのではないかと思っています。

*トラックバック
むだづかいにっき「ブログがSNS化すると」
村井説人の日記「ブログを運営していて感じること」

敬語の誤用

2005年04月17日 | つぶやき
テレビで「サンデー・ジャポン」を見ていまして。
デヴィ夫人の電話インタビューが出てきました。
北朝鮮に行った時の話で。
現地の方にお土産を渡したという話で。
「いりません、いりませんとおっしゃったのだけれど、いいえいただいてくださいとアタクシ申しましたの」
ここでわたしの耳はぴくんと反応しました。
は?
なんとおっしゃいました?
あれだけ敬語を多用し、また一国の大統領の夫人だった方が、こんな敬語を誤用するんだなあと。
不味いだろ?と。

正解は。
「いりません、いりませんとおっしゃったのだけれど、いいえお受け取りになってくださいとアタクシ申しましたの」
「いただく」は、上の人からもらうときに使う表現ですね。
それとも、単なる誤用ではなく、自分の方が上であると、潜在的な認識が出てしまった?

まあ、敬語っちゃ、難しいものなんでしょうね。
でも「待遇表現」というものは、誤用しちゃ、意味が無いんですけどね。

しかし。。。
「いりません、いりませんとおっしゃったのだけれど、いいえいただいてくださいとアタクシ申しましたの」
の方が、
「いりません、いりませんとおっしゃったのだけれど、いいえもらってくださいとアタクシ申しましたの」
よりきれいに聞こえるんだろうか。
見せかけの美辞麗句ってのは、こんなものかもしれない。

朝の連ドラ

2005年04月16日 | つぶやき
NHKの朝の連ドラを、久々に見ています。
といっても、朝見られるわけではなく、昼の再放送で見ているのですが。
毎日欠かさず見られるわけではなく、ちょこちょこと飛んだりしつつ。

「ファイト」

関心があるのは「戦う15歳」というキーワード。
シナリオの「たとえ将来が見えなくても、『今』を生きていかなければなりません」という設定。
演出意図の「如何なる時でも、心の中で『ファイト』と叫びながら生きていく」と、いうところかな。

見ている限り、上記のキーワード、裏切られていません。
たった15分間の中で、確かに「ファイト」って、思う。
平凡で平和な家庭のしあわせが、正しさだけでは抗えないことで、ゆっくりと崩れていく。
信じていたはずの友情も、壊れていく。
第一週「しあわせ」第二週「すりかえ」第三週「ただしいこと」と進んで来ていて、次週から大きく展開が始まる。
第四週「さよなら」から今後、ドキドキしつつ、とても楽しみ。

なかなか見られる時間帯ではないんですけどね。
でも、さすがにNHKのブランド番組、情報は多いですね。

初めての告白

2005年04月15日 | ○○さんにトラックバック!
小学校に上がったばかりの頃だったと思う。
幼稚園の頃から行き来をしていた、すぐ近所の男の子の家に遊びに行っていた。
その日に、その男の子に見せたくて、叔父が買ってくれたかわいらしいノートを、無理やりスカートのポケットに突っこんだことを、なんだか妙に記憶している。
そんなもの、男の子に見せたって、別におもしろくもなんともないんだけれど、多分、自分が喜んでいることを知って欲しかったのかもしれない。

その子と二人で遊んでいるときに、その子の母親が少しの時間、用足しのために外出した。
そのときに。
その男の子が、わたしを正面からまともに見据えて言った。
「ボクはSちゃんが好きなんだ」って。

いや、好きだから一緒に遊んでるんですけどね。
でも、このとき、わたしは全身に緊張が走った。
ちがう、言ってるのは、そういう「好き」じゃない。

なんだか体を固くして、呆然としていると、彼はさらに言った。
「Sちゃんもボクのこと、好き?」

密室の中、NOが言えない緊張感を感じながら、わたしは黙ってうなづいた。

「じゃあ、キスして」

全身に恐怖と緊張感が走り、そうしなければならないような強迫観念の中、わたしは彼の頬に唇を押しつけた。

満足したように彼が微笑んだときに、玄関の音がして、母親が帰ってきた。

・・・助かった。

と、本当にそのとき、そう思った。
息を吹き返したような気持ちで、わたしは彼に言った。

「ねえ、外で遊ぼう」

多分、あのときが、生まれて初めて「男って怖い」と思った経験かもしれない。
彼がどうのってことではなく、わたしは「密室に男と二人だけでいるときに起きる可能性のあること」を知ったのだと思う。
それから二年ほどの間に、彼は遠くへ引っ越して行った。

他愛も無いことだったんだろうと思う。
彼の記憶には、きっと残っていない程度のことなんだろうと思う。

結婚してその地を離れ、その町もずいぶん雰囲気が変わった。
彼の住んでいたアパートも、取り壊されて住宅になった。
でも。
今でも、そこを通るたびに、わたしはちょっと身を固くする。

*トラックバック
40年前そして10年後 「初めての友達」
友人のブログです。
ふっふっふ、こんなこと始めたか、という思いで、トラックバック、あげます(笑)。

「障害」と「支援」

2005年04月14日 | 「障害」に関わること
ヘレン・ケラーの名言に、こんなものがあります。
障害は不便です。でも、不幸ではありません

不便は「支援」で超えられる可能性をたくさん持っているもので。
障害をもつということは、「支援とともに生きる」ということでもある。

そこで、
なんですけどね。
「不便は支援で超えられる」わけですが、その場面場面に応じた「支援」に関して、もちろん感謝の心は誰でも持っていると思う。

ただね。
一日のうちに、5種の支援が存在しているとする。
5種の支援で、「5人の支援者」と関わる場合があるとする。
支援の終了時に「ありがとうございました」と頭を下げるのは、それは当たり前のことなのだと思う。

でもね。
一日に5回、同じテンションで「ありがとうございました」と頭を下げて言い続けるのは、こりゃけっこうくたびれますよ。

ここで。
「支援者」と「被支援者」で、意識の差が出てくるときがある。
「支援者」は、自分の中でひとつの「支援終了」ですから、まあ、人間関係上、当たり前のテンションで「ありがとうございました」というものが、心のどこかで「あるべきもの」と思ってしまう場合がある。
まあ、当然といや、当然なんですが。
「被支援者」というのは、支援者に対して、その支援の質が高ければ高いほど、「支援が必要な状態を理解された」と、思いますわな。
だから、「ありがとうございました」と言い続けなければならない人生の気苦労というものも、理解されたと思いますわな。
そうすると、安心して、
そう、安心することで、通常の基本的な礼儀を欠いてしまう場合が、あります。

すると。
ひとつの危険が生まれてくるわけです。
支援者が被支援者に対して、こう思う場合がある。
「あの被支援者は、権利意識が高く、感謝の心が無い」

障害をもつ人たちの中で、「一日に5種の支援を受ける」生活をしている方もいらっしゃる。
「一日に5種」というほどの頻度でもなくとも、「一ヶ月に5度」という方も、いらっしゃる。
頻度が高くても低くても、「障害をもつ」ということが生涯続くということを考えれば、まあ原点としての心境は同じ状態にあるということも、ありますわな。
常に誰かに頭を下げ続けなければならない、と。
その生活の中にあるものは、暖かな支援に対しての「ありがとう」という「頭を下げる」ことだけじゃない。
消え入るような思いでの「すみません」や「ごめんなさい」、
これを言わなくてはならないシチュエーションというものも、その障害によっては存在するわけです。

障害をもつ人の支援に回る立場の方々で、支援する方に対して、ちょっとした精神的きしみを感じたことがある方には、一度、ちょこっと、その辺、想像力を働かせてみていただきたい。
そんなことを思うこと、あります。

まあ、理想的なのは、支援される側が、常に同じテンションで、人に頭を下げ続けることを、苦もなくできることなんですけどね。
これが「自然な感覚」でできれば理想的は理想的なんでしょうけど。
でも「自然な感覚」にさせてくれない環境というものも、その障害によっては、障害をもつ人の周囲に実際に存在しているわけです。

わたしは障害児の家族ということで、「支援される側」ですが。
「支援される側」として、支援の必要度は、まあ、軽い程度の方だ。
だから、「支援する側」にも回る。
「支援する側」に回った時は、相手が安心して「支援とともに生きる」という気持ちを持ってもらうために「相手の非礼にこだわらない」という意識を持つこと。
そのことも、自分が「支援として提供するもののひとつ」だと、思っています。
ただし、
相手の非礼から具体的な問題が発生する場合は、その問題点に関して説明することも、また支援の一つであるとも、思います。

支援される側としては、
集団で支援を受けるときは、集団のメンバーに対して、折りにふれ、
「お世話になる方の所属ではなく、個人のお名前を覚えること」
「基本的な挨拶を欠かしてはいけないこと」
などを、やわらかな姿勢で、提示していかなければならないと思っています。

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Camellia House 「傾向と対策 (利用者別) 」

雑誌考

2005年04月13日 | つぶやき
昨日の外出。
電車に乗ってる時間が片道一時間半。
読む本を用意しなかったので、駅の売店で雑誌を物色。

ふむ。。。

まあ、はっきり言ってどれでも良かったのですが。
迷ったのは二冊。
週刊アスキー婦人公論
結局、週刊アスキー選択。
理由?
値段の差。
「機器に関心」と「”女”に関心」、機器が勝ち。

アスキー、おもしろかったです。
「無線マウス最新モデル16」とか「Firefox徹底活用術」とか。
ニュースで「へーー」って思ったのが、
「明治鍼灸大学が新入生全員に『ipod shuffle』を配布」というもの。
学内端末から必要な教材ファイルをダウンロードして自宅学習に生かすというもので、「当初USBメモリー配布の予定だったのが少々の予算の追加で音楽再生機能をプラスできるから」ということで。
機器は多様に生かされるものだなあと思いましたね。

婦人公論、ネットで検索してみれば、今回売ってたヤツ、なかなかにおもしろそうだなあと。
まあ、コレは、行きつけの耳鼻科に行ったときに読めばいいな、などと。
で、検索で婦人公論出して、そのページから見つけた「婦人公論ブログ」。
手記募集というものが常時企画になっているこの雑誌には、かなり有効性があるでしょうね、ブログ。
ブログ、いろんな形で活用されているのですね。

アロマテラピーのマッサージ

2005年04月12日 | つぶやき
お話し、します。
自分の好きな香をチョイスして、エッセンシャルオイルをブレンドします。
脱ぎます、パンツ一枚。
手技を受けるところ以外、バスタオルを体にかけて、体を露出されないように隠してもらいます。
そして、オイルマッサージ。
フルボディ、60分コースです。

通常、オシャレなアロマのサロンで、万札が飛ぶコースだと思います。
今日は、アロマテラピストの卵の友人の「実習」で、友人宅で。
30人必要な「実習カルテ」の、わたしは第一号でした。
今回で二度目。

4年前、検索で、わたしのHPに飛びこんできた彼女。
重い子どもの障害と、その医療的ケアや育児の大変さから泣いたり、叫んだり、精神的にのたうちまわったり。
メール飛ばして、電話鳴らして、携帯鳴らして。
時には往復3時間ちょっとかけて会いに行ったり、来てもらったり。
子どもとの生活でいっぱいいっぱいになっていく中での彼女の「自分さがし」は、紆余曲折しながら、アロマテラピストへと結びついていきました。
聞けば、子どもを生んで、子どもの障害がわかって、ってときに、アロマテラピストの叔母様が彼女の心のためにマッサージに来てくださったそうで。
そんな経験の話も、しんみりする。

オシャレなサロンで、万札飛ばしてこうしたマッサージを受けられる「経済」をお持ちの方は、しあわせかもしれない。
でも、こうやって「お抱えアロマテラピスト」を持てるわたしは、多分世界一ゴージャスだと思う。