S嬢のPC日記

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一人称+的

2005年04月06日 | つぶやき
  「わたし的には」「僕的には」というこの「一人称+的」という言い方、出現と定着は、この4~5年のように思われるが、その浸透と威力はかなり大きいような気がする。
いわゆる若者文化の一つと解釈していたのだけれど、数年前に30代の母親という立場の友人から「アタシ的には」という表現が出たときには、正直(浸透はここまで来たか・・・)と思った。

 言語文化というものは、原則として多数決で決まると思うし、昔おかしいと言われたものが、歳月の経過と共に日常の表現になったというものは多いと思う。
ただ、この「一人称+的」というものは、その人の持つ哲学に左右されるのではないかと思うところがある。

 わたしは「わたし的には」「僕的には」と言われると、実は声に出さずにヒソカに頭の中でこんなツッコミを入れている。
「で、あなた自身はどう思うの?」
一人称に「的」という言葉をつけて曖昧にした部分に関して、それをはずして「自身」という言葉をプラスする。
つまり、曖昧をはずし、さらにその考えを持つ本人の根底に突っ込んでみるという感じだと思う。

 一人称に「的」という語句をつけて曖昧にしようとしているのは、いったい何に関してだろうかと思う。
自分の意見の当事者は自分であるということを明確にすることを避けようとするこの「的」で、守るのはいったい何なんだろうかと考える。
意見を出し合う人間関係の平和を維持しようとするためか、自分の言葉の責任を曖昧にするためか。

前者として解釈している層は多いのだと思う。そうでなければ、こんなに短い年数でこれほど浸透する言葉ではないとも思う。
でもわたしは後者の解釈として、とても気になる。
自分の言葉というものに、責任がついて回るということ、これは人間関係において重要な要素であると「わたしは」思うし、自分の発した言葉に対して潔く責任を取りたいとも思う。

 人間は、親から離れて初めて集団に入ったときから、社会生活というものを送り始める。
人間関係の失敗だの、自分の出す言葉での失敗だの、誰だって腐るほど経験を積んでいくものだと思う。
その時に、自分の行動・言動の責任をどう取るかということを学習していくはずであり、学習していくべきだと思う。
この本質から、どこか曖昧に逃避することで周囲との平和を築くという感触を持つ「一人称+的」という使い方は、「わたしには」なじめそうもない。

 とはいえ、10代ではすでに作文や論文にも使用しているという実態があるそうだから、いずれ多数に圧倒されていくのだろう。
そのうち「あなた的にはどう思うか?」などという質問が日常的に聞かれるようになったら、なんだかとてもまいるだろうなあ。
あと30年だの40年だの経ったなら、介護という現場で「あなた的にはどうですか?」などと問われ、その問いに対して「わたしは」としつこく返す頑固な年寄りに、わたしはなるのかもしれない。

*参考リンク
「明鏡 日本語なんでも質問箱」より
●第1回アンケート『全国高校生“イマドキの若者言葉”実態調査』最終結果
「~的」