落合順平 作品集

現代小説の部屋。

忠治が愛した4人の女 (3)       はじめに ③

2016-06-29 10:15:55 | 現代小説
忠治が愛した4人の女 (3)
      はじめに ③





 文化13年(1810)1月。
佐位郡(佐波郡)国定村の名主・長岡与五左衛門の次男として生まれ、
7歳になった忠次郎が養寿寺の寺子屋へ入る。
養寿寺は、のちに博徒の忠治をとむらう菩提寺となる。


 「日本教育史資料」に載っている寺子屋の数は、およそ一万五千五百。
寺子屋は宝暦・明和の頃(1751~1771)からはじまり、
文化・文政(1804~1829)の時代に活性化し、
天保・嘉永(1830~1853)の頃に、全盛期に到達している。
文献には記載されていない小さな寺子屋が、全国に多数存在していた。
これらを含めると寺子屋は全国に、五万校以上が存在していたと推計される。



 現在の日本の人口は、一億二千万人。
小学校の数約22,500校に対し、江戸時代の最大人口は、推定で三千万人。
この比較から、江戸時代の寺子屋の数がいかに多かったかよく分かる。


 寺子屋は6歳から12,13歳の子供たちに読み書きと算盤を教える。
年齢別ではなく、子供の習熟度におうじて段階的に教育を施した。
日課の大部分が、習字の学習だ。
文字を上手に書くだけではなく、習字を通して本を読むことを教え、
書くことと読むことを一体として教えた。



 寺子屋における教授の方法は、シンプルだ。
師匠が高座に座る。
寺子は一人ずつ師匠の前へ行き、それぞれが書き方と読み方の指導を受ける。
そののち、自分の机へ戻り自習にはげむ。
師匠は寺子が自習している間は、机の間を順番に回っていく。
寺子の手を取り、運筆を訂正し、丁寧に指導していく。



 学業の進んだ兄弟子が、師匠を補助する。
新参の子供の手を取り、墨の磨り方、筆の持ち方、運筆の順序、書く時の
姿勢などをこまかく教える。
このようなふれあいを通して寺子の間に、兄弟子・弟弟子の密接な関係が生まれる。
一人の師匠が、百名ちかい寺子の教育に当たる事ができたのも、このような
兄弟子の協力があったから可能になった。



 師匠は男女別に、座るべき席を決める。
「師匠様。かしこと以上を、別に置き」という言葉が有る。
この時代。手紙の結語を女は「かしこ」と書き、男は「以上」と書いた。
結語の使い方の違いから、男女の別を言い表した。



 7歳から男女の席を別にするのは、中国の「礼記(らいき)」に起因している。
中国の「席」は、「ござ」や「むしろ」などを意味している。
席の一枚に、四人が座る。
しかもその一枚が寝具代わりになっていたため、同じ「席」に男女が
いっしょにいてはならないとされた。


 7歳で養寿寺の寺子屋に入った忠次郎だが、学問は出来なかった。
それでも住職の貞然は、忠次郎を可愛がった。
学問は出来なかったが、すでにガキ大将として悪ガキたちの中心にいた
忠次郎に、何か特別なものを感じていたようだ。




 後年。住職の貞然は、大戸の処刑場で磔の刑に処せられた忠治の首を
もらい受けている。
ひそかに境内に墓をたて、手厚く供養している。
関東取締出役が探索を強化してくると、貞然は忠治の首を掘り起こし、
別の場所に秘匿している。



 この時代、かなりのレベルで読み書きが出来ていた。
賭場をひらくにも、そろばんとある程度の読み書きが必要となる。
赤城落ちする国定忠治が、最後まで残った11人の子分たちの中から、
信州へ随行する 2人を、投票で選んでいる。
そのとき。文字の書けない1名を除き、全員が自らの手で候補者の名前を
仮名で書き、投票したと記録に残っている。

(4)へつづく


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
現代にも (屋根裏人のワイコマです)
2016-07-03 19:33:06
昔から言われる・・読み書き算盤
今の世であってもね全く同じ・・
現代は パソンが文字の書きを
代行しているような印象ですが・・
全く違うと思います、読む 書く
そして、算盤
今でも全く同じです。
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ワイコマさん。こんにちは (落合順平)
2016-07-04 09:25:58
パソコンが普及し、スマートフォンが
若者たちを、席巻する時代。
言葉を交わすより、文字によるやり取りが
主流になったようです。
昼飯のとき。会話もなく、せっせと携帯をいじる
若者たちが急増しているそうです。
中には、退職届けすら、メールで届くことがあるそうです。
せっせと手で、恋文を書いた我々の世代には
とうてい信じることのできない、衝撃の事実です。
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