落合順平 作品集

現代小説の部屋。

おちょぼ 第20話 引き祝い

2014-10-23 10:38:40 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。


おちょぼ 第20話 引き祝い



 引き祝いというのは、芸妓や舞妓が妓籍を抜けるときの挨拶だ。
引退をするときに、今までに世話になったおっ師匠さんや屋形やお茶屋はん、
同僚・先輩・後輩たちにおこなうものだ。


 挨拶をきちんしないで辞めてしまったら、花街に不義理を残して辞めた事になる。
例えば、ある日突然、挨拶もなしで逃げ帰ったする。
そうした場合、それ以後は何があっても、2度と相手をしてくれなくなる。
引き祝いもしないで辞めた妓が、後になってから、もういっぺん祇園でカムバックを
したいと思っても、絶対に不可能と言うことになる。


 「引き祝」には、祇園での芸名と本名の書かれた三角の紙に、
白い物を付けて配るという習わしがある。
食生活が変化したことで、いまでは実用的な商品券などが配られることが多い。
昔はよく「白蒸し」が、三角の紙とともに配られた。
白蒸しは、小豆の入った白いおこわのことだ。



 これには面白い逸話が有る。
箱の中に入っているのが、この白蒸しだけだと、
「うちはもう二度とこの街へは戻って来ぃしまへん」という意味になる。
しかし、「もしかしてまた帰って来るやも知れへん」というときには白蒸しの中に、
少しだけ紅いおこわを混ぜておく。


 こうしてきちんと挨拶を通しておいたら、いちど辞めて新しい人生を目指した時、
途中で駄目であっても、もう一度、花街に支障なく復帰することが出来る。
実際。そのようにしてふたたび帰って来た祇園の芸妓たちは、実はたくさんいる。
だが多くが芸妓の未来を諦めて、まったく新しい次の目標に向かって
邁進する場合が多いという。
彼女たちは、決して弱者として祇園を去ったわけではない。
つらい修行の時代をちゃんと乗り越えて、舞妓としての使命を果たし、
屋形へのお礼奉公を綺麗に終えてから、新しい人生に向かって再出発をする。
ひとつの目的をやり遂げたスポーツアスリートの再出発に、よく似ている。



 「清乃ちゃん、あんた辞めはんにゃてなぁ。
 せっかく舞も上手になって来たとこやのに勿体ないなぁ」

 「すんまへん、おかぁさん。けど、うちどうしてもやってみたい仕事が他にあんのどす。
 今のうちやないと出来しまへんさかいに」

 「ふぅ~ん、そうか、まぁいっぺん自分の気ぃが済むようにやってみたらよろし。
 けど、もしそれがあんじょういかへんかったらいつでも帰っといないや。
 何も遠慮せんでもえええ」


 「おおきに、おかぁさん。きずいなことばっかし云うてかんにんどす。
 またそんときには宜しゅうお頼申しますぅ」



 辞める人には、それぞれの事情が有る。
一時は自分が心底憧れて入った花街の世界。何の未練も無いといえば嘘になる。
中には後ろ髪引かれながら、花街を去っていく子もいる。


 余談だが、花街に旦那という制度というものが有った頃、こんな逸話が残っている。
世間のしがらみで、仕方なく旦那はんを取ることになったひとりの芸妓が居た。
しかし、どんな風にしてもこの旦那のことが気に入らない。
そこで旦那には内緒で、引き祝いの白蒸しの中に、紅いのをちょこっとだけ入れておく。


 これは芸妓の、ささやかな抵抗だ。
これには、「今回、訳あって旦那に落籍されて祇園を出てきますけど、
じきに戻って参りますさかいに、そんときはまた宜しゅうにお頼申します」
という意味合いが込められている。



 「引き祝」には、祇園での芸名と引退後の本名がまず書かれる。
おこわを配る例はほとんどない。
砂糖や白いハンカチ、白生地などを配るのがいまの風習だ。
その横に白だけではおこがましいからと、赤い南天の実などを、そっと少しだけ
控えめに添えておく。
前出した旦那への抵抗とは異なる、今風の配慮だ。(念のため)


 引き祝いの際は、やめる妓は洋髪姿で挨拶に回る。
いつもの白ぬりで回らないのは、「素人になります」という意味があるからだ。
「おめでとう」「おきばりや」「惜しいなぁ」とかけられる言葉の一つ一つに、
送る側の人生も、なぜか浮き彫りにされる。
祇園は去っていく人間にも、たくさんのご祝儀を惜しまない。
苦楽を共にした戦友の門出を、心から祝う気持ちが、この「引き祝い」という風習だ。



 清乃はこうして、祇園祭が終った22歳の夏。
本名の郁子に戻り、多くの人々に惜しまれながら、明るいくったくのない
笑顔を祇園の町に残し、花街をさっそうと後にした。


第21話につづく

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