女の子になる方法、教えます!

性同一性障害になやむ若いMTF当事者に向けてのメッセージです

内心の性別と

2014-05-25 15:28:38 | 違和感、自己認識、価値観、判断
よくGIDと女装娘はまったく別物だと主張し、混同しないように主張される方がおられます。
わたしは、正直本当のところは分かりません。私自身がオートガイネフィリアかもしれないし、絶対的な基準が仮にあれば女装娘と判別されるかもしれません。
けれども、私は自分が本当は何者なのかについて考えるのはやめ

どうしたいのか
それはどうすれば可能になるか

という判断基準で進めることにしました。

その判断は良かったと思っています。


そういう感覚なので、私には混同をやめてほしいという方の感覚がよく分かりません。


私の私的な極端な考えを述べ、最後になぜ「混同をやめてほしい」という論が私は嫌なのかを書きます。

まず、GIDの苦しみは非常に主観的で判断のしようがありません。一般的な女装娘の場合、罪悪感にかられてやめようと何度も何度も自分の持っている女装用の服を捨てるという経験があるようです。女装をやめらない、女装をある時間は中断しなけばいけないことで社会生活を送れないくらい苦しいとすれば、仮に24時間フルタイム女装(身体も永久女装)で軽減できるのであれば、それでいいのではないでしょうか。過去男として社会生活ができて家庭も持つことができた「真のGID」の生きていくのが辛い苦しみとどちらが大きいのでしょうか。

次に「真のGIDでない方」の素行不良について考えます。
私の友人で、過去一時期ネットで非難されても仕方ないような行動をとった方がいました。プライバシーに関わるので具体的事実を書くことは差し控えますが、その方は本当に辛い経験をたくさん経験してきていました。
人は不安が大きくなると、他者との間で様々な問題を引き起こしてしまいがちになります。例えば私は今職場でもそのほかのコミュニティでも受け入れられていて深い安心感があるので少々の理不尽なことにも笑って受け流せるし、経済的にも体力的にも差し迫った不安がないので安定しています。
けれども、仕事を遂行する能力やコミュニケーション能力や体力、そもそもそれまでの社会的資源には、人によって差があります。自分の能力ぎりぎりで生きていかなければいけない人もたくさんいるのです。毎日毎日辛い思いをしながらその人なりに一生懸命生きています。そういう人が、ただブログでストレスを発散させることくらい許されても、いいじゃないですか、と私は思います。
勿論、現実は厳しいので、それ相応の行動が伴わないと幸福な移行ができないのは当然です。ただ、どうそこにたどり着くかはその人が自分でその人なりに歩んでいくしかありません。


次に、伝えたいのは、他者が性別を判断するのはあなたの内心の性別とは関係ないということです。
道端ですれ違った時に違和感がないように生きたいなら外見や振る舞いを磨かなければいけないし、職場など密に人と関わる場合に違和感なくやっていくためには、上手に人と関われる能力が求められます。

実はお蔵入りになったのですが、2012年の暮れ頃、翌年のGID学会で発表しようと思って、他者はMTFをどうして女性と認識しているのかを、何人かの友人に聞いたことがありました。
数人の純女さんに聞いたのですが、そもそも定義も基準もそれぞればらばらで、調査の視点がぼやけてしまってまとめられませんでした。


性別でなく人として関わっているからあなたがどっちの性別なんか関係ないという人

今は仲が良く人としてもお互い尊敬しあえるから女性として見られるけど、もしあなたのことを嫌いで、MTFと知ったら絶対男に見てしまうかもと言った人

変わる前から女っぽかったよ、と言った人

などさまざまです。
実際に職場で私の過去の性別を知らない人は、マスコミに登場するMTFや道ばたですれ違った人への性別批評を好き勝手にしています。もしカミングアウトすれば、それぞれがそれぞれの感覚や論理で私と関わっていくことでしょう。

法律や診断書、啓蒙で社会的な性別は変えられても、他人の心は変えられません。

仮に「真のMTF」と「フルタイム女装娘」に、心理的な違いがあっても、周りの人は、その人の行動や発言、人間性や外見と見る人自身の価値観を掛け合わせて性別を判断します。

だから「真のMTF」でも、周りの人と調和できなければ幸福に生きるのは難しいでしょうし、

「フルタイム女装娘」でも、他者から好かれて周りの人と調和できるような方なら「女性」として幸福に生きていくことができると思います。

勿論、100パーセント完璧な人格者も、人間失格の人もこの世には存在しませんし、環境が変われば誰でも善人にも悪人にもなりえます。

だから、私は
「どんな風に生きたいのか」
ということを、行動の規範に据えてほしいと考えています。

他人から嫌われても自分のしたい格好をする

という行動をしたいならそうすればいいし、それはとてもすばらしいことです。

(お子さんなど家族に対し)責任をとった上で、自分の望む生き方をしたい

という場合は、養育費や慰謝料などのペナルティを負えば、堂々とそういう行き方をえらべばいいと思います。そういう生き方をするんだから、恨まれても仕方ないし、お子さんや配偶者の方に深い傷をおわせるかもしれません。病気のせいにして逃げてはいけないと思います。けれど、私が子供だとして、親が性別を変わりたいと告白されたら、全力で応援します。どの子もどの配偶者も、あなたのことを恨むとは限りません。

けれど、
「子どものせいで自分はしあわせになれない」
と親から言われたり思われたりしたら、親を恨むでしょうね。恨むまで行かなくても哀しいというか、自分の存在意義を悩んでしまいます。

だから、自分は精一杯生きる

それでいいんじゃないでしょうか。

再度確認します。

お父さんが女の人になりたい
と言ったり、
お母さんが男の人になりたい
となった場合、子どもに社会的な不利益があったとしたら
それはそんなお父さんやお母さんを許さない社会のせいです。
ただし、社会は倫理的に完璧な存在ではありません。
私たちの心も完璧ではありません。

なので、現実には仕事を首にならないように自分の内心の性別を隠したり、
理解されるように必要以上にまわりに配慮しながら生きます。

けれども、それはそう選択した当事者の自由で

別に社会が悪いのだから仕方ない

とまわりのことを犠牲にして自分のやりたい行動をしても
倫理的には何の問題もありません。
他者がとやかく言うのは
無理解の社会に対してであるべきで
本人に対してであってはいけないと思います。

けれども、
どう生きるかは
その人の自由であるので
周りの理解を得て幸せに生きたいなら
理解が得られるような行動
(啓蒙ではなく、人一倍働くとか、家族を具体的に大切にするとか、友人をたくさん作るとか、家族の理解が得られてから身体の工事をするとか)
を先にしたほうがいいんじゃないかなと思います。

あなたがGIDだったら周りが理解すべきで
あなたがフルタイム女装娘だったらあなたが周りを理解させるべき
なのではありません。
どちらも同じです。
GIDを理由に社会や家族から要請される様々な役割や責任が回避できるわけではありません。

あなたが幸福に生きぬくためには、病気のせいにするのではなくあなた自身の判断と責任で現実社会を生きていかなくてはいけないのです。

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