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性同一性障害になやむ若いMTF当事者に向けてのメッセージです

歴史をどうとらえるか

2021-07-11 18:43:05 | GIDパラダイム
 ゴールデンウィーク、旅行にも行けなかった私はひたすら部屋のそうじと読書三昧でした。そこで、「一度きりの大泉の話」(萩尾望都)を読み、衝撃をうけ、その衝撃のままに「扉はひらくいくたびも」「その名はジルベール」(竹宮惠子)、「萩尾望都と竹宮惠子」(中川右介)、「私の少女マンガ講義」(萩尾望都)までを週1くらいのペースでずっと読み続けました。どちらの先生も尊敬するし、それぞれの今の立ち位置もそもそも私が意見を述べるべき立場ではなく、人としての難しさやすばらしさを感じました。
 さて、二人のすれ違いの生き様にも衝撃を受けたのですが、それ以上に、歴史(この場合少女マンガの)の語り方の違いがとても新鮮で、わたしは先生方の著作を読んだのは80年代以降で同時代ではないのですが、ふたりの語られる漫画家さんの半分くらいは実際に読んだことがあり、数名は愛読していたこともあり、リアルに感じたことがありました。どちらかといえば、萩尾望都先生の捉え方のほうがしっくりきて、今までなんとなく竹宮惠子先生やそれこそ中川氏の分析している少女マンガ論が主流で(わたしにとって)なにかしっくりこなかったことがすっきりした、自然に受け入れられた感じがありました。
 で、どちらの論じ方が正しいかをここで言いたいのではなく、時代が現在進行形で進む中でどう物事をとらえるか、すなわち自分の行動をどう歴史にはめ込んでいくのか(自分がどう歴史をつくっていくのか)、ということは、その人によってかわってくる、そしてその中で主流になった人たちによって歴史が物語になっていくということです。
 トランスでも、過去には「性同一性障害」という病気を定義づけることで様々な方の苦しみが可視化され、物語となり、共感を得てうねりとなり、法律が変わる、という歴史がありました。歴史をつくってきた人にとっては、それは真実であり、自分のありようが認められてきた戦いの結果であります。
 同時代でその恩恵を受け、その流れにのって性別を変え幸福に生きている広瀬沙織は、その歴史に流れる「違和感」について、このブログで綴ってきました。けれども、決して私の考えが本当の正解だというつもりもないし、こういう考え方もあるとおさえたほうが裾野がひろがる、苦しむ人が少なくなる、というくらいのつもりです。今後主流になる考え方ではないかもしれません、50年後に私のブログの記事なんて誰も読まないネットの地層の奥深くに眠るかもしれませんが、また、ときどき触れていければと思っています。

 歴史が動いた当時のトランスの考え方は「「性同一性障害」というつらい病気で苦しむ人をすくいたい」ということだったと思います。今はどちらかといえば「「性別」ということは人にとって大切な価値であり、当人の主張が尊重されるべき」という考え方になってきているのかな。そういう意味では、すくい上げられる人が多くなってきていると思います。私の考えは「「性別」というのは他者との関係性の中で成り立つものであり、「私が」(埋没含め)周りに理解させられるよう行動することそのものである」すなわち周りの理解は私の自己責任ということです。そういう視点で歴史を見ていくと、今見えてないたくさんの無名の幸福なトランスジェンダーの生き様がみえてくると思うのですが、たぶん主流の考え方、捉え方にならないですね。

 歴史をどうとらえるかという史観の部分と、トランスをどう定義づけるかの思想の部分が混同してしまったかもしれません。あとから読み直して駄文と思えばさりげなく削除しますね。

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