夕風桜香楼

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【史伝+旅行記】 激闘鳥羽伏見Ⅰ ~維新回天の号砲~

2010年11月22日 17時29分18秒 | 旅行
 先週、京都に旅行に行ってきました。
 向こうでは2日間ほど過ごしたのですが、1日目は嵐山方面および東山方面を、そして2日目は鳥羽・伏見方面と大阪方面をめぐりました。今回の記事は、とくにその2日目における戊辰戦役戦跡めぐりのまとめです。

 こういった旅は、世間一般には“地味”な観を拭えないかもしれません。しかし、そこで感じることのできる“ロマン”には、何物にも代えがたいものがあるように思います。この記事を読まれた方に、少しでもそれを受けとっていただければ幸いです。

Ⅰ.維新回天の号砲 ―鳥羽ノ戦

 初め幕の歩兵・見廻組などは我が藩(桑名藩。筆者注・以下同)より前に上陸し、滝川播磨守、前将軍の建白書(いわゆる“討薩の表”)を持し四ツ塚まで至りしに、肥後の兵は先立ちて入京せり。継ぎて入らんとせしに、薩州勢四ツ塚の関を固め、「幕府・会桑の兵は入京を許さず」という。播磨守、「これは先般尾張・越前両侯より御内諭の筋これある徳川慶喜上京の先供なり。入京を許さずとは如何の義にや」などと談判せしに、応答いまだ終らず薩藩より銃先揃えて不意に打ち出せり。見廻組は銃を持たず。歩兵も銃に玉を込め居かず、右往左往に立ち騒ぎ、やにわに死する者もあり、手負はもとより数を知らず。ようやく足を立て直して戦うというとも、崩れ立ちたる習いゆえほとんど難儀に及びしに、我が桑名の砲隊、銃隊に先立ちて進みしが、この有様を見て砲丸を敵中に連発す。敵は少しひるみし間に辛くして引き揚げたりとぞ。
(『桑名藩戦記』)
【旧字・難読字・カナ改】


 1年以上におよぶ戊辰戦役の幕開けとなった地、鳥羽。京都の南西に位置するこの地は当時、鴨川や桂川といった河川や、赤池のような湖沼がつらなる一大湿地帯でした。


筆者作成。やっつけ。

 慶喜建白の“討薩の表”をかかげて大坂より北上してきた幕軍は、歩兵隊・伝習隊といった幕府直属の陸軍のほか、会津・桑名をはじめとする各藩兵、さらに京都の市中警察部隊たる見廻組・新選組を加えた約15,000名。これが二手に分かれ、それぞれ鳥羽ルートと伏見ルートとで陸続と前進しました。
 迎え撃つ京軍(新政府軍)は、主力である薩摩藩兵に長州・土佐の各藩兵を加えた約5,000名。なんと幕軍の3分の1にすぎません(しかも土佐藩兵は政治的事情から、戦闘要員としてはアテにならなかったため、実際の戦力はさらに減って4,000名程度!)。西郷・大久保らは、いざとなったら帝を擁して都落ちするハラだったといいますから、まさに背水の陣でいどむ大バクチであったといっていいでしょう。


写真①:小枝橋脇の鳥羽伏見戦跡碑

 慶応4年1月3日午後、幕軍の先鋒は、鳥羽の線に達しました。幕軍の意図はこの時点ではまだ、大兵力によって京軍を威圧しつつ二条城へ入城し、爾後の政治的展開に備えることにあったようです(彼らが必ずしも戦端を開くつもりはなかったことは、小銃に弾込めを行っていなかったことや、歩兵の隊列の編成などをみてもわかります)。
 幕府大目付・滝川播磨守は、列の先頭を見廻組に護衛されつつ進み、鳥羽の関門に立ち塞がる京軍に対し入京を申し入れます。しかし京軍は「しばし待たれよ」という返事を繰り返すのみで、まったく道を開けようとしません(当り前だ)。
 えんえん繰り返される「通せ」「通さぬ」の長談義。両陣営の間の空気は、しだいにピリピリと張り詰めていきました。樺山資紀(薩摩藩士。のち海軍大将)の述懐によれば、薩兵が地面に線を引き「ココを越えたら撃つからなッ!」と警告する一幕もあったそうです。


写真②:小枝橋よりのぞむ鴨川堤  橋は移築され、当時の位置にはない。

 同日夕刻、ついにしびれをきらした幕軍は歩兵を縦隊に展開し、強行突破も辞さぬ前進を開始。これに対し京軍は銃砲を整え、迫る敵影に狙いを定めます。
 幕軍の先鋒が関門にさしかかったそのとき、合図のラッパの号令一下、薩長兵の銃先が一斉に火を吹きました。
 史上名高い“鳥羽伏見の戦”、4日間にわたる激闘の幕開けでした。


写真③:城南宮  薩軍砲兵隊はこの地に展開した。

 京軍の凹角陣地に入り込んだ形となった幕兵に、銃砲弾が雨あられと降り注ぎます。城南宮の薩砲兵隊の放った初弾は、幕軍の隊列中にあった砲架に命中(Unbelievable!)。幕兵たちは大混乱に陥り、一部を除いて応戦する間もなくバタバタと斃れていきました。
 そんななか奮戦したのが、佐々木只三郎率いる見廻組でした。小銃をもたぬ彼らは、京軍の銃砲陣地に対し、刀槍による決死的突撃を繰り返し敢行。結果としてこの攻撃は失敗に終わり、見廻組は大損害を出した末に敗退しますが、この犠牲は決して無駄にはなりませんでした。すなわち、これが時間稼ぎとなって、幕軍は混乱した態勢をある程度立て直すことに成功するのです。


写真④:鳥羽伏見戦跡碑よりのぞむ赤池方面  街道から迫る幕兵を、薩軍はこの位置から射撃した。

 隊列を整えた歩兵隊は、桑名藩砲兵の支援のもと前進を開始。見廻組の残兵も、散乱する小銃を拾ってこれに加わります。満を持しての欧州式戦列攻撃!……でしたが、正面陣地からの猛射および中島方面からの側射は凄まじく、結局この攻撃もなかばにして頓挫。幕軍はついに、後退を余儀なくされたのでした。

 日が暮れたあとも、砲撃によって生じた火災の明かりを頼りにして、両軍の小競り合いはしばらく続きました。しかし、京軍は敵を深追いせずおおむね現位置を保持し、また幕軍のほうも下鳥羽までいったん後退して、翌日以後に反攻を期することとなったため、大規模な戦闘は行われぬまま夜明けを迎えることとなりました。


▼ 

 ……思いのほか長くなってしまいましたので、いったんここでひと区切り。

 Ⅱ.伏見に続きます。更新がんばらなくちゃ。




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4 コメント

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Unknown (Ernest)
2010-11-25 15:45:38
中坊のころに興味があったら、ひとりだけ修学旅行から外れてでも行きたかった…(なにを無茶な)

入京を目指す幕軍側には戦闘に臨むような緊張感がほとんど見当たりませんね。本なんかで読むと前線指揮官も後方の大坂城も、なんか楽観的な印象があります。
対して京軍側の緊張感がすごい。いざとなったら~という覚悟の上での開戦だったんですね。
しかし幕軍も痺れを切らして歩兵の前進命令は出しても、小銃への装弾は指示してなかったんですね。

写真で見ると薩軍の射撃位置は街道に対して、少し高い位置にあるんですね。ううん、googleアースでは解らなかった部分です…。

小具足甲冑主体の見廻組と洋式装備の歩兵とが一緒になって戦闘というのもすごい光景です。見廻組に半ば脱走防止の「督戦」的な意味合いもあったのかも。
Ernest 様 (桜丘)
2010-11-25 19:41:01
 先日はありがとうございました!

 修学旅行で単独行動……私は高坊の修学旅行の際、自由時間を使って靖国神社の遊就館に行こうと企てたことがありますw 時間的制約がきつくて、断念しましたがw
 
 煮えきらない態度の最高指導者、大軍を擁するがゆえの慢心……幕軍のノーテンキさは、いろんな事情が積み重なったことに起因するんでしょうね。これに対し京側は、まさに猫を噛まんとする窮鼠だった……。その覚悟に差が出たのは、当然といえば当然の結果なのかもしれませんね。『戊辰役戦史』における大山柏の、
「(京側の作戦要綱を)幕府側の軍配書と比較して見ると、軍配書が単に狭い戦術的着眼しかないのに対し、京側では政略、戦略的立場に立って計画され、戦術上の問題のごときには殆んど触れておらない。このように両者の間には面白いコントラストがあり、両者の視野の広狭がよく判る」
 という指摘も、大いにうなずけます。

>薩軍の射撃位置
 写真の部分が隆起してるのは、ちょうど 川の土手のへり&橋の基礎となる地面 にあたっているからです。ですんで、薩軍の陣地が当時もこんな感じだったかは、判然としません。とりあえず全体の地形としては、どちらかといえば扁平な印象を受けました。伏見はなかなか高低差がありましたので、地の利を生かした戦闘ができたんでしょうけど……。

>見廻組
 これまでは時代劇なんかでの突撃シーンをみるたびに「いくらなんでも、銃砲陣地にこんな突撃するわけないだろwww考証無視の過剰演出乙www」と思ってたので、ホントにやっていたと知ったときは驚きでしたね。かの赤軍も真っ青の督戦ぶりだったことでしょう……!


 ところで、急な話で申し訳ないのですが、あす金曜の夜はおひまでしょうか? もしよろしければ、この間の続きでも……。
Unknown (Ernest)
2010-11-25 20:52:11
>金曜の夜
今週も大丈夫なので、ぜひ、先週と同じ9時にお邪魔させていただきたいです。

またよろしくお願いします
ありがとうございます! (桜丘)
2010-11-25 22:17:08
 ではまたよろしくおねがいします!
 出張分営でお待ちしてます∠(^^)

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