ポニョ:東洋お母さんの介護、大変やったな。
ヨシオ:軽度の時はそうでもないけど、特に、妄想が始まった頃、勝手に夜中でも出て行くし、理由もなく怒り出すし、それにお袋はすごく口が立つんや。
こう言えばああ言う。ああ言えばこう言う。や。だから、誰も勝たれへん。
そのうち、平手打ちが飛んでくるで。
ポニョ:ああ怖い。
ヨシオ:機嫌が悪い時、つい最近までよく叩かれたで。唾をかけられたり、蹴られたり、嫁なんか、しょっちゅうや。
その上、さっきも言ったけれど口が立つし、血液型がA型で繊細で細かいし、いっぱい罵られるけれど、結局叩かれた理由は分かれへんし、それこそ地獄みたいやったで。
ポニョ:ほんまに、ひどい病気やな。
ヨシオ:でも、今から考えたらあの時、すぐに医者に相談して薬もらっておいたら良かったと思う。
長男が薬剤師やねんけれど、いつもそうアドバイスしてくれていたけど、俺、薬嫌いやろ。
だから、躊躇してたんや。でも、言うこと聞いて薬をもらい、妄想や暴力が始まりそうなときに薬を服用してもらうと、借りて来た猫みたいになって部屋で寝てる。
それでも、薬の量は決められた量の半分以下しかあげてないねん。
そうして、初めて家族分裂の危機を回避出来たんや。それまでは、一緒にいると皆に迷惑がかかるし、自分がお袋と一緒に家を出て介護するつもりだったんや。
おかげで、自分らも介護がとても楽になり、家族も喜んでいた。
とにかく、すぐ怒るようになって、みるみる老けた。今まで、十歳以上若く見られていたのに、逆に十歳以上老けて見られた。
怒ると身体全体が震えます。血液が熱くなります。血液が冷めるまで3ヶ月かかります。
一瞬の怒りは、6ヶ月間食事で得たエネルギーを消耗してしまうのです。
10/8/83
そのうち、暴力を振るう時期が過ぎたので抗精神剤や睡眠薬の投与をやめた。
だんだん介護の経験を積んだので、少し怒りが出て来た時は次の三つの原因って分かってきた。
一つ目は、トイレに、(大の方)行きたい。二つ目は、お腹が空いている。三つ目は、眠たい。この三つのうちのどれかがしたいから、イライラしたりして来て、暴力的になるんや。
ポニョ:まるで赤ん坊やな。
ヨシオ:その通り。だから、トイレはいつしたかを必ずノートして、出来るだけ決まった時間にしてもらうようにする。例えば、朝ごはんを食べてもらい、三十分ほどかけてゆっくり部屋でテレビを見て消化してもらう。
そのあと、外に連れ出して五分ほど歩くとガスが出てくると、こっちのもんや。
すぐに便所に連れて行けば、OK。
食事のコントロールは、そんなに難しくは無い。いつどれぐらいの量を食べたか食べてないかをチェックして、食事の間隔を狭めたり開けたり、量を加減したり、好きなものを多めに入れたり、色々出来る。
睡眠のコントロールも、難しくはない。昼寝をどれくらいの時間したか、夜は寝ていたか、朝早く起きすぎていないか。そういうことを毎日チェックして、必要であれば、昼寝を抜いたり、長くしたり、夜に好きなビデオをつけて遅い目に寝てもらったり、早く寝てもらう。
一番難しいのが、トイレのコントロールやった。というのも、西洋式トイレではどれくらいの量をしたのかよく分からないし、奥の方へ行ってしまうので元々したのかどうかも、確認するのが難しい。
それで、トイレに座ってもらう前にトイレットペーパーを便器に入れて、便が奥に行かないようにしてから用を足すようにしたんや。
だから嫁との合言葉はいつも、「やったか。まだか。どれくらい。お腹壊してないか。」
やった。
それで、順調やったら嫁と「良かったな。今日もこれで安心!」と言って喜び、両手を伸ばしてハイファイブして叩き合うんや。
とにかく、便の世話が大変やし、実は本人も悪いなぁ。と思っている。
あとかたずけをしながら、本人に全然大丈夫。平気だよ。という振りをして介護していても、床に落ちた便を踏みつけたり、身体の上に落ちてきたり、妄想時には、それを手で取って投げつけて来たりした時には、こっちも必死になるから大きな声を出してしまう。
その時には、本人は忘れてしまって覚えてないやろうと思っていても、実は見たこと聞いたことを少しは知っていて、あの時悪かったな。とか、もう死にたくなって来た。とか言って落ち込むんや。
介護していて、それを見るのが一番辛かった。可哀想で、胸が締め付けられそうになったな。
トイレに入るときは何時も、雑誌を渡すとページを裂いて遊ぶんや。
時々、大きな声で「現在の、経済状況を鑑みるに当たって、大切なことは通貨供給量をどのようなレベルに持って行くかということを、考慮し…」などと言ってびっくりすることがある。
また、「ダウンスイングは脇を締め、クラブを振り下ろす際は、出来るだけ…」などという時もある。
隣の応接間で、みなでそれを聞いて大笑いをしたのは良い思い出だった。
でも、ヴェーダのおかげで、だんだんと症状が回復してきたやろ。
逆に、それがプレッシァーになった時もあった。例えば、
ある日、トイレに座ってもらって、しばらくして様子を見に行ったんや。
それで、まだ本を読んでいる様子なので、どうや、何してるねん。と聞くと。
俺を睨みながら、「私が何をしているか見て分からないのですか。それとも、私が自分自身でここで便器の上に座って、何をしているのか自分で分からないと思ってそんな質問をしたのですか。」
「もしそうだとしたら、私に死ねと言っているのと同じこと。分かるでしょう。もっと、言葉に気をつけて話すようにしなさい。」と言われたことがある。
以前のように、ボケた会話してたら、お袋を傷つけてしまうので注意せなあかんかった。
時々、アルツハイマーって不思議な病気やなぁーと思った。
妄想や徘徊、暴力行為が酷かった頃、サイババさんが夢に来られて「一人で、何でも全てしようとしてはいけない。この種の病気は、家族みんなで協力しあって見なさい。理想的には、社会が、コミュニティー全体でこの患者の面倒を見ることだ。」と言われたんや。
それで、自分も少し楽になって、みんなで、家族で手分けして介護するようにした。
その夢を見てから、積極的に母を表に連れて行こうと、近くの幼稚園や小学校にも母の事情を話したら、喜んでいつでも連れ来ていいよ。と言われ、毎日のように子供達が遊んでいるところに出かけ、長い間喜んで手を叩きながら見ていた。
そのうち、子供達も慣れてきてお袋に話しかけて来たり、キスをしたり、抱きついたりしてたな。
お袋の一日で一番幸せな時やった。
そのサイババさんのアドバイスがあってから、とても介護が楽になったんや。
今も、老老介護とか、いろんな違った状況で介護に携わっておられる人がいると思うけれど、俺が言えることは、決して自分一人で全てのことを背負い込まずに、外に出かけよう。
たとえ周りに、誰もいなくて一人で介護しなくてはならない状況であっても、恐れずにできる限り近くのコミュニティー幼稚園や保育所に車椅子でも、何でも連れ出して行けば必ず、誰かが助けてくれる。
全てが、本当は神さんやから、自分達の周りは、愛でいっぱいの神さんやねん。
この世には、愛によって達成できないことは何もありません。それは最も固い岩をも溶かすことができます。
一人ひとりの人間の内にある愛の原理が一つに統合されたとき、それは宇宙的な愛(ヴィシュワ・プレマ)になります。
あなたが愛の渇きを癒したいのであれば、神の恩寵を切望し、神を礼拝しなさい。
至福を体験するためには、もっともっと愛を培うことです。
愛を育てれば育てるほど、あなたはますます至福を体験するようになります。至福(アーナンダ)は、愛がなければ得られません。
実際、至福という形をとっているのは、愛に他ならないのです。
28/7/99
いつも立ち寄る、近くの小学校で働くエルサルバドルから来た掃除人のおばちゃんは、結婚して三日後に夫を事故で亡くし、その時に妊娠していた子供を女手ひとつで育てあげた。
お袋を見て、自分と似ている境遇だから親しみが湧く。と言っていつも抱きしめてくれた。
お袋も、その掃除婦のおばちゃんを見つけると、精一杯愛想をして何かを話そうとしていた。
亡くなった日も、あのおばさんは、お袋を見つけるや否や走って来て抱きしめてくれた。
お袋は、その一時間後に逝ったんや。
ポニョ:そのおばちゃんきっと死神やったかもしれんで。抱きつかれてから一時間で死ぬって怖い話や。
ヨシオ:アホ。また、道端で生えている白い花を嫁にプレゼントしたいと言って、大事そうに持って帰ってきたことがあった。
いつも世話になっているお礼やから。と言っていた。
私には、これぐらいしかあの子に出来ることが無いけどええやんな。と言っていた。
いつもの散歩する道の途中に、腰が直角に曲がったベルギーから来た九十四歳のおじいちゃんが一人で住んでいるやけれど、毎日そこに立ち寄って、お袋は自分の好きな日本のお菓子をあげるんや。
おじいちゃんはそれが毎日楽しくて、俺たちの散歩の時間が近づくと戸を開けて待ってる。
お袋が来ると両手で、お袋の手を握り、「わしの家内は二十五年前に逝ってしまったけれど、この年になってガールフレンドが出来るとは思わなんだ。長生きしてよかった。」
「今は、こんなんやけど、昔はハンサムやったんやで。背もこれくらいやったんや。」と言って背中を無理に伸ばすと、結構背が高かった。
お袋は、「You are so handsome.」と言って抱き合って喜ぶんや。
おじいちゃんは、「わしら二人とも、もうすぐ天国からお迎えくるなぁ。どっちが先か分からんけれど、一緒に行ってもええな。わしの嫁はんは、そんな事で怒らんやろ。」
「わしを長い間1人にして逝ってしまいよったから。あんたの年ぐらいであいつ逝きよったから、あんた見てたら、あいつの事思い出すなぁ。」などと笑いながら言っていた。
そんなふうな会話をして、その家に寄って話し込むのも日課になった。
亡くなった日に、追悼会に出したケーキをお裾分けに持って行ってあげたら、とても悲しい顔をして涙を浮かべながら、何も言わずに家の中へ入って行かれた。
お袋のように、身体も自分の思うように自由にならず、言葉も不自由で、その上精神的にも異常をきたしているこんなに老いた女性でも、愛があれば他の人を少しでも幸せにできる。
お袋の出来ることといえば、手を握る。抱きしめる。花を積むことぐらいだけれど、毎日の不自由な生活の中で、愛を持っていれば、他の人をこれ程幸せに出来るなんてすごいなぁと思った。
振り返って、自分を見ると五体満足で、精神も取り敢えず正常、言葉も話せるし、お袋と比べられない位良い条件を持っているにも関らず、毎日の日常生活で一体どれほどの人に愛を分かち合って暮らしているのか。と考えると、お袋の方に軍配が上がってしまうと思う。
それほど、他の人をいつも気遣って生活をしてきた人だった。
人間として生まれた限りは、他の人を幸せにしなくてはなりません。
これが愛というものです。あなたのハートは愛で一杯なのです。
あなたはそれを他の人と分かち合わなければなりません。
たくさんの食べ物があるとき、あなたは他の人と分け合うでしょう?
そうでないと食べ物がいたむでしょう?それと同じで、あなたの愛を毎日少なくとも5人の人に分け与えるべきです。
この神聖な愛をあなたは他の人と共に分かち合い、修行し、経験しなければなりません。SS2/94p53
今日、久しぶりにいつも散歩に通っていた近くの小学校と公園に一人で行きました。いつもゆっくりとお袋の歩くスピードで歩いていたので景色がとてもゆっくりと流れて行ってたのですが、今日はとても早く流れたので驚きました。いつもの道、いつもの景色なのにお袋だけ、景色の主人公だけがそこにいませんでした。
ポッカリと空いた心の穴がこんなに大きいと今更、気付いたのです。
自分では、その穴を塞いだつもりだったんですが、やはり毎日、毎日歩いた散歩道を歩くと色々な想い出が蘇ってきて少しセンチになってしまいました。
【 母と歩く 】
母と歩く
年取った、母と歩く
ゆっくりと歩く
腕を組んで歩く
俺が、三歩 歩く間に、母は六歩 歩く
俺が、綺麗な花が咲いてると言っても、母は俺を見てる
微笑んで見てる
母と歩く
年取った母と歩く
ゆっくりと歩く
腕を組んで歩く
俺が三歩 歩く間に、母は六歩 歩く
俺が綺麗な鳥が飛んでると言っても、母は俺を見てる
微笑んで見てる
母と歩く
年取った母と歩く
ゆっくりと歩く
腕を組んで歩く
俺が三歩 歩く間に、母は六歩 歩く
俺が綺麗な夕焼けだと言っても、母は俺を見てる
微笑んで見てる
母と歩く
俺と母の大切な時間
年取った母と歩く
俺が小さい時の借りを返す時間
ゆっくりと歩く
俺が母に迷惑をかけた事を詫びる時間
腕を組んで歩く
俺がガキの頃手を繋いでくれたよな
俺が三歩 歩く間に、母は六歩 歩く
俺の人生に付き合ってくれてありがとうな
俺が母と歩く時の幸せは、もう行っちまった
もう二度と来ない、母と歩く時
母が幸せを感じていた時、俺も幸せを感じていた
一人で歩く、いつもの散歩道
母がいない、通い慣れた道
母のスピードで歩く、枯葉が舞う道
寂しいなぁ。寂しいよ。
母のいない散歩道
母と歩いた散歩道
あのカタカタ六歩の足音聞こえなくなって寂しいよ
あの愛に溢れた眼差しを見れなくって寂しいよ
あのギュって握ってくれた手に触れられなくって寂しいよ
俺の涙を拭ってくれるのは、もう俺のシャツのそでだけ
俺の涙を拭ってくれるのは、もう空のふんわり雲だけ
俺の涙を拭ってくれるのは、もう心の中の神さんだけ
もう、母と歩けない寂しい俺
世俗に関する思いが神への思いと入れ変わった時、初めて真の平和が訪れます。神は平和の創造者であり、維持する者です。神をよりどころとしてこそ、私達は真の平和を体験できるのです。
ヨシオ:軽度の時はそうでもないけど、特に、妄想が始まった頃、勝手に夜中でも出て行くし、理由もなく怒り出すし、それにお袋はすごく口が立つんや。
こう言えばああ言う。ああ言えばこう言う。や。だから、誰も勝たれへん。
そのうち、平手打ちが飛んでくるで。
ポニョ:ああ怖い。
ヨシオ:機嫌が悪い時、つい最近までよく叩かれたで。唾をかけられたり、蹴られたり、嫁なんか、しょっちゅうや。
その上、さっきも言ったけれど口が立つし、血液型がA型で繊細で細かいし、いっぱい罵られるけれど、結局叩かれた理由は分かれへんし、それこそ地獄みたいやったで。
ポニョ:ほんまに、ひどい病気やな。
ヨシオ:でも、今から考えたらあの時、すぐに医者に相談して薬もらっておいたら良かったと思う。
長男が薬剤師やねんけれど、いつもそうアドバイスしてくれていたけど、俺、薬嫌いやろ。
だから、躊躇してたんや。でも、言うこと聞いて薬をもらい、妄想や暴力が始まりそうなときに薬を服用してもらうと、借りて来た猫みたいになって部屋で寝てる。
それでも、薬の量は決められた量の半分以下しかあげてないねん。
そうして、初めて家族分裂の危機を回避出来たんや。それまでは、一緒にいると皆に迷惑がかかるし、自分がお袋と一緒に家を出て介護するつもりだったんや。
おかげで、自分らも介護がとても楽になり、家族も喜んでいた。
とにかく、すぐ怒るようになって、みるみる老けた。今まで、十歳以上若く見られていたのに、逆に十歳以上老けて見られた。
怒ると身体全体が震えます。血液が熱くなります。血液が冷めるまで3ヶ月かかります。
一瞬の怒りは、6ヶ月間食事で得たエネルギーを消耗してしまうのです。
10/8/83
そのうち、暴力を振るう時期が過ぎたので抗精神剤や睡眠薬の投与をやめた。
だんだん介護の経験を積んだので、少し怒りが出て来た時は次の三つの原因って分かってきた。
一つ目は、トイレに、(大の方)行きたい。二つ目は、お腹が空いている。三つ目は、眠たい。この三つのうちのどれかがしたいから、イライラしたりして来て、暴力的になるんや。
ポニョ:まるで赤ん坊やな。
ヨシオ:その通り。だから、トイレはいつしたかを必ずノートして、出来るだけ決まった時間にしてもらうようにする。例えば、朝ごはんを食べてもらい、三十分ほどかけてゆっくり部屋でテレビを見て消化してもらう。
そのあと、外に連れ出して五分ほど歩くとガスが出てくると、こっちのもんや。
すぐに便所に連れて行けば、OK。
食事のコントロールは、そんなに難しくは無い。いつどれぐらいの量を食べたか食べてないかをチェックして、食事の間隔を狭めたり開けたり、量を加減したり、好きなものを多めに入れたり、色々出来る。
睡眠のコントロールも、難しくはない。昼寝をどれくらいの時間したか、夜は寝ていたか、朝早く起きすぎていないか。そういうことを毎日チェックして、必要であれば、昼寝を抜いたり、長くしたり、夜に好きなビデオをつけて遅い目に寝てもらったり、早く寝てもらう。
一番難しいのが、トイレのコントロールやった。というのも、西洋式トイレではどれくらいの量をしたのかよく分からないし、奥の方へ行ってしまうので元々したのかどうかも、確認するのが難しい。
それで、トイレに座ってもらう前にトイレットペーパーを便器に入れて、便が奥に行かないようにしてから用を足すようにしたんや。
だから嫁との合言葉はいつも、「やったか。まだか。どれくらい。お腹壊してないか。」
やった。
それで、順調やったら嫁と「良かったな。今日もこれで安心!」と言って喜び、両手を伸ばしてハイファイブして叩き合うんや。
とにかく、便の世話が大変やし、実は本人も悪いなぁ。と思っている。
あとかたずけをしながら、本人に全然大丈夫。平気だよ。という振りをして介護していても、床に落ちた便を踏みつけたり、身体の上に落ちてきたり、妄想時には、それを手で取って投げつけて来たりした時には、こっちも必死になるから大きな声を出してしまう。
その時には、本人は忘れてしまって覚えてないやろうと思っていても、実は見たこと聞いたことを少しは知っていて、あの時悪かったな。とか、もう死にたくなって来た。とか言って落ち込むんや。
介護していて、それを見るのが一番辛かった。可哀想で、胸が締め付けられそうになったな。
トイレに入るときは何時も、雑誌を渡すとページを裂いて遊ぶんや。
時々、大きな声で「現在の、経済状況を鑑みるに当たって、大切なことは通貨供給量をどのようなレベルに持って行くかということを、考慮し…」などと言ってびっくりすることがある。
また、「ダウンスイングは脇を締め、クラブを振り下ろす際は、出来るだけ…」などという時もある。
隣の応接間で、みなでそれを聞いて大笑いをしたのは良い思い出だった。
でも、ヴェーダのおかげで、だんだんと症状が回復してきたやろ。
逆に、それがプレッシァーになった時もあった。例えば、
ある日、トイレに座ってもらって、しばらくして様子を見に行ったんや。
それで、まだ本を読んでいる様子なので、どうや、何してるねん。と聞くと。
俺を睨みながら、「私が何をしているか見て分からないのですか。それとも、私が自分自身でここで便器の上に座って、何をしているのか自分で分からないと思ってそんな質問をしたのですか。」
「もしそうだとしたら、私に死ねと言っているのと同じこと。分かるでしょう。もっと、言葉に気をつけて話すようにしなさい。」と言われたことがある。
以前のように、ボケた会話してたら、お袋を傷つけてしまうので注意せなあかんかった。
時々、アルツハイマーって不思議な病気やなぁーと思った。
妄想や徘徊、暴力行為が酷かった頃、サイババさんが夢に来られて「一人で、何でも全てしようとしてはいけない。この種の病気は、家族みんなで協力しあって見なさい。理想的には、社会が、コミュニティー全体でこの患者の面倒を見ることだ。」と言われたんや。
それで、自分も少し楽になって、みんなで、家族で手分けして介護するようにした。
その夢を見てから、積極的に母を表に連れて行こうと、近くの幼稚園や小学校にも母の事情を話したら、喜んでいつでも連れ来ていいよ。と言われ、毎日のように子供達が遊んでいるところに出かけ、長い間喜んで手を叩きながら見ていた。
そのうち、子供達も慣れてきてお袋に話しかけて来たり、キスをしたり、抱きついたりしてたな。
お袋の一日で一番幸せな時やった。
そのサイババさんのアドバイスがあってから、とても介護が楽になったんや。
今も、老老介護とか、いろんな違った状況で介護に携わっておられる人がいると思うけれど、俺が言えることは、決して自分一人で全てのことを背負い込まずに、外に出かけよう。
たとえ周りに、誰もいなくて一人で介護しなくてはならない状況であっても、恐れずにできる限り近くのコミュニティー幼稚園や保育所に車椅子でも、何でも連れ出して行けば必ず、誰かが助けてくれる。
全てが、本当は神さんやから、自分達の周りは、愛でいっぱいの神さんやねん。
この世には、愛によって達成できないことは何もありません。それは最も固い岩をも溶かすことができます。
一人ひとりの人間の内にある愛の原理が一つに統合されたとき、それは宇宙的な愛(ヴィシュワ・プレマ)になります。
あなたが愛の渇きを癒したいのであれば、神の恩寵を切望し、神を礼拝しなさい。
至福を体験するためには、もっともっと愛を培うことです。
愛を育てれば育てるほど、あなたはますます至福を体験するようになります。至福(アーナンダ)は、愛がなければ得られません。
実際、至福という形をとっているのは、愛に他ならないのです。
28/7/99
いつも立ち寄る、近くの小学校で働くエルサルバドルから来た掃除人のおばちゃんは、結婚して三日後に夫を事故で亡くし、その時に妊娠していた子供を女手ひとつで育てあげた。
お袋を見て、自分と似ている境遇だから親しみが湧く。と言っていつも抱きしめてくれた。
お袋も、その掃除婦のおばちゃんを見つけると、精一杯愛想をして何かを話そうとしていた。
亡くなった日も、あのおばさんは、お袋を見つけるや否や走って来て抱きしめてくれた。
お袋は、その一時間後に逝ったんや。
ポニョ:そのおばちゃんきっと死神やったかもしれんで。抱きつかれてから一時間で死ぬって怖い話や。
ヨシオ:アホ。また、道端で生えている白い花を嫁にプレゼントしたいと言って、大事そうに持って帰ってきたことがあった。
いつも世話になっているお礼やから。と言っていた。
私には、これぐらいしかあの子に出来ることが無いけどええやんな。と言っていた。
いつもの散歩する道の途中に、腰が直角に曲がったベルギーから来た九十四歳のおじいちゃんが一人で住んでいるやけれど、毎日そこに立ち寄って、お袋は自分の好きな日本のお菓子をあげるんや。
おじいちゃんはそれが毎日楽しくて、俺たちの散歩の時間が近づくと戸を開けて待ってる。
お袋が来ると両手で、お袋の手を握り、「わしの家内は二十五年前に逝ってしまったけれど、この年になってガールフレンドが出来るとは思わなんだ。長生きしてよかった。」
「今は、こんなんやけど、昔はハンサムやったんやで。背もこれくらいやったんや。」と言って背中を無理に伸ばすと、結構背が高かった。
お袋は、「You are so handsome.」と言って抱き合って喜ぶんや。
おじいちゃんは、「わしら二人とも、もうすぐ天国からお迎えくるなぁ。どっちが先か分からんけれど、一緒に行ってもええな。わしの嫁はんは、そんな事で怒らんやろ。」
「わしを長い間1人にして逝ってしまいよったから。あんたの年ぐらいであいつ逝きよったから、あんた見てたら、あいつの事思い出すなぁ。」などと笑いながら言っていた。
そんなふうな会話をして、その家に寄って話し込むのも日課になった。
亡くなった日に、追悼会に出したケーキをお裾分けに持って行ってあげたら、とても悲しい顔をして涙を浮かべながら、何も言わずに家の中へ入って行かれた。
お袋のように、身体も自分の思うように自由にならず、言葉も不自由で、その上精神的にも異常をきたしているこんなに老いた女性でも、愛があれば他の人を少しでも幸せにできる。
お袋の出来ることといえば、手を握る。抱きしめる。花を積むことぐらいだけれど、毎日の不自由な生活の中で、愛を持っていれば、他の人をこれ程幸せに出来るなんてすごいなぁと思った。
振り返って、自分を見ると五体満足で、精神も取り敢えず正常、言葉も話せるし、お袋と比べられない位良い条件を持っているにも関らず、毎日の日常生活で一体どれほどの人に愛を分かち合って暮らしているのか。と考えると、お袋の方に軍配が上がってしまうと思う。
それほど、他の人をいつも気遣って生活をしてきた人だった。
人間として生まれた限りは、他の人を幸せにしなくてはなりません。
これが愛というものです。あなたのハートは愛で一杯なのです。
あなたはそれを他の人と分かち合わなければなりません。
たくさんの食べ物があるとき、あなたは他の人と分け合うでしょう?
そうでないと食べ物がいたむでしょう?それと同じで、あなたの愛を毎日少なくとも5人の人に分け与えるべきです。
この神聖な愛をあなたは他の人と共に分かち合い、修行し、経験しなければなりません。SS2/94p53
今日、久しぶりにいつも散歩に通っていた近くの小学校と公園に一人で行きました。いつもゆっくりとお袋の歩くスピードで歩いていたので景色がとてもゆっくりと流れて行ってたのですが、今日はとても早く流れたので驚きました。いつもの道、いつもの景色なのにお袋だけ、景色の主人公だけがそこにいませんでした。
ポッカリと空いた心の穴がこんなに大きいと今更、気付いたのです。
自分では、その穴を塞いだつもりだったんですが、やはり毎日、毎日歩いた散歩道を歩くと色々な想い出が蘇ってきて少しセンチになってしまいました。
【 母と歩く 】
母と歩く
年取った、母と歩く
ゆっくりと歩く
腕を組んで歩く
俺が、三歩 歩く間に、母は六歩 歩く
俺が、綺麗な花が咲いてると言っても、母は俺を見てる
微笑んで見てる
母と歩く
年取った母と歩く
ゆっくりと歩く
腕を組んで歩く
俺が三歩 歩く間に、母は六歩 歩く
俺が綺麗な鳥が飛んでると言っても、母は俺を見てる
微笑んで見てる
母と歩く
年取った母と歩く
ゆっくりと歩く
腕を組んで歩く
俺が三歩 歩く間に、母は六歩 歩く
俺が綺麗な夕焼けだと言っても、母は俺を見てる
微笑んで見てる
母と歩く
俺と母の大切な時間
年取った母と歩く
俺が小さい時の借りを返す時間
ゆっくりと歩く
俺が母に迷惑をかけた事を詫びる時間
腕を組んで歩く
俺がガキの頃手を繋いでくれたよな
俺が三歩 歩く間に、母は六歩 歩く
俺の人生に付き合ってくれてありがとうな
俺が母と歩く時の幸せは、もう行っちまった
もう二度と来ない、母と歩く時
母が幸せを感じていた時、俺も幸せを感じていた
一人で歩く、いつもの散歩道
母がいない、通い慣れた道
母のスピードで歩く、枯葉が舞う道
寂しいなぁ。寂しいよ。
母のいない散歩道
母と歩いた散歩道
あのカタカタ六歩の足音聞こえなくなって寂しいよ
あの愛に溢れた眼差しを見れなくって寂しいよ
あのギュって握ってくれた手に触れられなくって寂しいよ
俺の涙を拭ってくれるのは、もう俺のシャツのそでだけ
俺の涙を拭ってくれるのは、もう空のふんわり雲だけ
俺の涙を拭ってくれるのは、もう心の中の神さんだけ
もう、母と歩けない寂しい俺
世俗に関する思いが神への思いと入れ変わった時、初めて真の平和が訪れます。神は平和の創造者であり、維持する者です。神をよりどころとしてこそ、私達は真の平和を体験できるのです。