ポニョ:今日もダイアナさんの手記をお送りします。内容が盛りだくさんで楽しいですよ。
ヨシオ:その前に、前回ポニョが、サイババさんが物質化された指輪の肖像が二十四時間で指輪の中を一周回るというエピソードを紹介してくれたけれど、ヒスロップさんもサイババさんから、アメジストの大きな指輪をもらっていて、プレマサイババの絵が浮き出ているんや。
と言うか、三センチか四センチの長さのプレマサイババの顔がアメジストに刻んであって、サイババさんからもらった時は、横顔やったんやけれど、毎年プレマサイババが少しずつ正面の方を向いて、俺に見せてくれた時は、両目が見えるぐらいハッキリとプレマサイの顔が見えたな。
ポニョ:それは誰でも知っている有名な話やぜよ。おいらがアシュラムで出会った人は、サイババさんからサイババさんの肖像が付いている指輪をもらったんやけれど、その肖像の真ん中から金の糸が一センチぐらい出ていて、その先に小さな真珠が付いていたんや。
その真珠は、その人が手を動かす度にサイババさんの絵の周りをクルクルと回るんや。それで普段の生活をする上で支障になるから、「どうしてこんな真珠がクルクルと回る指輪を下さったんですか?」とサイババさんに尋ねたら、サイババさんはニコニコと微笑みながら、「君が普段、僕のことをいつも思いながら生活をしてくれているので、僕はとても嬉しいんだよ。だから、僕の絵の周りに君である真珠を付け加えたんだ。その真珠は実は君なんだよ。」と幸せそうな表情で言われたので、その人は真珠を取り除いて欲しいと言うことが出来なくなって、毎日その指輪をされているんや。
ヨシオ:それってありがた迷惑って感じやな。
人間的価値
道徳は感覚の制御を通して達成されます。自分自身を制御できる人だけが、他の人々を制御できます。自己抑制できない人が、他人に自己抑制を強いることができるでしょ うか? 言葉と行動が一致していれば、人は人生で偉大なことを成し遂げることができ ます。もし自分の説くことを実践するなら、その人は普通の人ではなく、マハートマ(悟 りを得た人)であり、偉大な人です。もし一つのことを言い、別のことを行うなら、そ の人は人間ではなく、ただの獣です。現代社会には言葉と行動の間に一致がありません。
-サティヤ サイ ババ
スワミはくり返し、不滅への道は不道徳を取り除くことだとおっしゃっている。西洋 で道徳と見なされているものは、現に、古い規則の型に基づいたピューリタニズム〔清 教徒主義〕の型である。そのような教えの信奉者たちは、一連の規則に従わない人々を 批判したり、非難したり、罰したりしている時、たいてい自分は正しいと感じている。 しかし、罪悪感や怖れや非難によって強要された規則は、道徳の烙印を押されるはずが ない。それらはまったく愛や慈悲や許しを欠いたものである。
道徳とは、ただ文化や時代によって変化する一連の指導方針ではない。何であれ変化 するものは束の間のものであり、それゆえ真理に基づいたものではない。道徳とは、ス ワミがこの言葉を使われる場合、勇気、忠誠心、正直さのような徳目に基づいている。 これらの価値は真理に根ざしているために永遠である。道徳とは、より劣った動物的な 性質の代わりに、そのような神聖な性質に同調して、もっぱら最高の霊的高潔さに従う ことを意味している。
人間の高潔さと高貴さは、スワミの教えである五大価値――サティヤ〔真理〕、ダル マ〔正義〕、シャーンティ〔平安〕、プレーマ〔愛〕、アヒムサー〔非暴力〕――をしっかりと守ることによってもたらされる。それぞれの価値は本質的に不変であり、すべて の宗教の共通核をなしている。人生の他のものごとや価値は、時おり所々で変化して正 当性を失うかもしれない。しかし、これら五つの基本的な不変の価値は、常に永続して 残ることだろう。そういうわけで、スワミはこれらの価値を、人生の五つの生命原理(パ ンチャ・プラーナ)になぞらえていらっしゃる。
さらに、スワミはこれらの価値を解説なさり、明瞭に二段階に分けていらっしゃる。 道徳および人間の段階と、霊性および神の段階である。これらの価値を道徳の段階で実 践することによって、人は、過去世から受け継がれてきた残存する動物的な性質を取り 除き、純粋な人間の地位に上ることができる。これらの価値を霊性の段階で順守するこ とによって、精神の浄化プロセスが完了すれば、人は人間の性質を超越して、生まれ持 った神の卓越性を実現することができる。
人間としての生は、単なる楽しみのために起こったわけではない。世界は感覚に耽る ための遊園地と見なされるべきではないのだが、今や多くの人や文化はそのように見な している。むしろ、この世界は霊的成長のための最も素晴らしい見込みある機会を私た ちに差し出している。ここで、もし「遊園地」の刺激と興奮を超越することができれば、 私たちは覚醒し、自分が誰であるかを思い出す機会を手に入れる。
スワミは、私たちの状態を見事に説明するストーリーをお話しになっている。天界の 賢者が二人、大地の上を飛んで下界を眺めていた時、大きな豚とその家族が泥の中で遊 んでいるのを見かけた。二人は即座に、その豚が偉大な聖者ナーラダであることに気づ いた。ナーラダが豚の姿になっているのを見てショックを受けた二人は、急いで地上に 降りて豚に話しかけた。
「ナーラダ、君はいったい何をしているのだ?」と二人は尋ねた。 「家族と泥んこ遊びをして楽しんでいるのさ」と、その豚は答えた。 「しかし、君は自分が誰なのかを知らないのか? 君は偉大な天界の聖者、ナーラダなんだぞ。どうかその豚の体を捨てて、自分のいるべき場所に戻ってくれたまえ」 二人は豚のナーラダに懇願した。しかし、ナーラダは答えた。 「私が誰であろうとかまうものか。私はここで、妻や小さな子豚たちと泥の中にいて幸せなのだ。ここを立ち去れ、私のことは、ほっといてくれ」と。
これが私たち全員の現状だとスワミはおっしゃっている。私たちは自分の本性を忘れ てしまった神なる存在なのだ。無知のせいで、感覚の罠は魂の代わりに物質(肉体)と の自己同一視を引き起こす。欲望に従い、感覚に引きずられるのを許せば許すほど、私たちはこの世に夢中になり、真理から離れた状態により長く留まることになる。14 世紀のスーフィーの神秘主義者、ラッラは自分の在り方を次のように述べた。
「私は病んでいる、この世が私の病気。私はこの世の愛が、私をそっとしておいてくれるのを待っている」
私たちは道徳に従わなくてはならない。それは道徳が私たちを「善」であると感じさ せてくれるからではなく、道徳性は私たちに生来備わった神なる本性の一部だからであ る。私たちが「覚醒する」までは、自分を真理の性質に同調させようとする意識的な努 力が、私たちを正しい方向と正しい意志へと導き、その間、ゴールへの道すがら、助言 や激励として働くのだ。本当に「覚醒する」時、私たちが道徳的でないことなどあり得 ないだろう。
敬愛する友人であり、アメリカのサティヤ・サイ・オーガニゼーションの初代会長で、 サティヤ・サイ・ババの何冊かの傑出した本の著者でもあるジャック・ヒスロップ氏は、 彼がスワミの御名をくり返し唱え、意識の高い境地にいた時、悪を為すことは不可能だ ったと教えてくれた。私にも似たような体験があり、神の愛を前にすれば不道徳は実行 不可能であることを私は知っている。
社会から課された規則や規範に従うことは、善き国民でありたいという願いからだけ ではなく、私たちが目的もなく勝手に特定の国に生まれてきたのではないという認識の ためにも必要だ。人生は過ちを犯さない。人生は、私たちの成長と進化と理解を最大限 まで発揮させるよう計画された場所に私たちを置く。法そのものの一部となるまでは、 私たちが法より勝ることはない。その後、私たちは法を破ることを超越する。
多くの人は、不当な法や状況であると思うものの中に身を置いているとわかると、自 分が犠牲者になっていると感じて、大声で反抗し、変化を要求する。だがスワミは、「あ なた方は(人を)導く前に、従うことを学ばねばならない」とおっしゃっている。変化 は真理に根ざした強いリーダーシップを必要とする。自らの人生の運命を受け入れ、身 を任せることは、神意の英知である。それは、高次の原理に基づいた行動に私たちを駆 り立てる神の召命を感じる場合を除いては、よりよい行動方針である。
時おりスワミが、正しい行動基準に従わない人々に大変厳しくなるのを私は見てきた。 けれども、ある時には驚くほどの理解を示し、寛容なこともあった。1970 年代の初期、 自由な精神で生きるヒッピーの小集団がアシュラムに住んでいた。彼らの多くは西洋人 だった。私たちはヒッピーやヒッピーの生き方を個人的には知らなかったが、スワミか ら彼らについて多くのことを聞いた。スワミは時おり明らかな不満を示して、私たちに ヒッピーたちの行動を語られることがあり、とりわけドラッグ〔麻薬〕の使用に関してお話しになっていた。
スワミは私の母に、ヒッピーたちに話をしてドラッグの使用をやめさせるようにとおっしゃった。しばらくして、母の話は効果がなかったことを知ると、 スワミはヒッピーたち全員をブリンダーヴァンのスワミの住居に呼び集め、最大の愛を込めて話をなさった。スワミはドラッグの有害な影響を説明し、その使用をやめるよう申し分のない激励を与えられた。
スワミは、誰であれドラッグをやめた者には、ブリンダーヴァンの敷地の中の部屋を与えようと約束なさった。
ヒッピーたちが去った時、私は彼らの意見を小耳に挟み、後ほど確認したのだが、そ の集団全体の中で、スワミの忠告を真剣に受け止めたのはたった一人だった。
ヒッピー たちは、スワミは彼らを自宅に招く口実としてその話をしただけで、本気で自分たちにドラッグの使用をやめてほしがっているのではないと感じていた。それは私にとって、人々は自らの欲望に耽溺するためには、どれほど理屈をこね、それを正当化しかねない かを知る啓示となった。スワミの忠告を受け入れた唯一の女性は、今日までずっとスワ ミから与えられた部屋を所有している。