磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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ぼく生きたかった   被爆二世 史樹ちゃんの死

2006年07月19日 | 読書日記など
『ぼく生きたかった
  被爆二世 史樹ちゃんの死』
      竹内淑郎・編/宇野書店1968年

この本の関係者はマスコミによって傷つけられたと
他の本に書かれてありました。



表紙の裏に、お父さんだと思う方が書かれています。酔って書道家の友人をつれてかえってきて、その友人に書をかいてもらっていると、史樹ちゃんがやってきて、鉄人28号をかいたという。その絵が表紙の絵です。

この史樹ちゃんのことについて書かれてあります。下「」引用。

「今年(昭和四十三年)二月二十二日、午前二時四十五分、ヒロシマで死にました。満七才。
 三年まえ。広島二十年目の夏のはじまる七月下旬のことです。食べざかりなのになんにも食べたくないとぐずってばかりいて、お母さんの操さんをすっかり困らせていました。手をひたいにあててみると、熱がありました。三十八度の熱が、二日つづきます。そのときはもう、口の中が膿み--それは、二十年前の八月六日のヒロシマ、原爆にみまわれたお母さんの症状と、あまりにもよく似ていました。」


ぼくも母におんぶされて、大学病院に運ばれたことがあります。

史樹ちゃんもそうだったようです。

ぼくの母は体が弱いので、その後、体調がすごく悪くなりました……。


史樹ちゃんの兄はこんなことを書いています。下「」引用。

「由樹(よしき)--兄
 広島市牛田中学校一年生。小学校六年のときサッカー部員。中学に入って野球部員。今はタマ拾い。
 野球の練習でおそくかえったことを知っていても、腕が痛いと言うと、お母さんはサッと身をこわばらせてしまうのです。謙蔵さんは、すぐ由樹君をひっとらえて、マッサージをはじめます。あくる朝「もう痛くない」といえば、みんなの顔は明るくなる。こんなことは、被爆者でない人に話しても、わかってもらえないかもしれない……。」


昭和41年7月10日、広島在住の児童文学者の山口勇子(*おこりじぞうの作者)さんが、「胎内被爆者、被爆二世を守る会」の結成と書かれてありました。

共働きでもあったのも、ボクの所といっしょだなあと思いました。
でも、ボクの場合は小学四年だから、もう大きいですね。

深川宗俊さんの歌などもいつくか掲載されていました。

ソードフィッシュ号事件のことも書かれてありました。


【関連本】

合唱構成・あの星はぼく

ぼく生きたかった

「ヒロシマの母の記」史樹の死を生きて







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