磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

ぼく生きたかった

2008年05月09日 | 読書日記など
『ぼく生きたかった』
  名越謙蔵・操(文)/矢野洋子(絵)/
    労働教育センター1982年、1983年2刷

以前、紹介した本にも、このことは書かれてありました。

ぼく生きたかった 被爆二世 史樹ちゃんの死

この本は、その親御さん、そしておばあさんがかかれた文章をもとに絵本が作られたようです。



この絵本の主人公はボクと同い年生れです。下「」引用。

「名越史樹(なごやふみき)
 お母さんは原爆症に苦しんでいましたが、昭和35年8月、元気な産声をあげて生れました。まるまる太った赤ちゃんでした。-略-昭和43年2月22日夜明け。被爆後23年後めにあらわれたそれはヒロシマの死でした。」

お母さんは、被爆者の運動でがんばっておられたようです。下「」引用。

「昭和四○年夏 母
 被爆者の体験記集『木の葉のように焼かれて』第二集の編集会議に、私はぐずつく史樹(ふみき)をおんぶして出かけた。-略-
 そのころ、史樹は、「肝臓が少しわるい」ということで、病院にもかよっていたが、むし暑いのと両方で、頭へ来て、途中で帰ると言いだし、会議もそこそこにら帰ったのだ。」

白血病は今は治療法もあって、助かる場合がありますね。俳優の渡辺謙さんも、その一人ですね。しかし、当時はそうではありませんでした。下「」引用。

「七月二七日、白血病と診断され、文字どおり死の宣告をうけた。それは、あの昭和二○年八月六日原爆が落ちた時にうけた衝撃と同じ、生と死の境の衝撃だった。」

もちろん、今もきつい病気であることには変わりがありません。

プールで兄や母と遊んだという。下「」引用。

「夏休みなので、由樹、史樹と三人で、有料屋内プールにも、二度行った。」
「昭和四二年八月一一日 母
 職場のレクリエーションで、みんな奥さんや子どもをつれて宮島の近鉄会館に行った。もう、これが最後の夏になるかもれ知れないと思いながら、いい年をして私もいっしょにプールで泳いだ。」

やさしいタクシーの運転手さん。下「」引用。

「タクシーの運転手は、いそがず、ゆっくり車を走らせてくれる。「こちらは何も頼まないのに、どうもありがとう」と言って、降りるとき一○○円別にさし出しても、どうしてもうけとらなかった。地獄で仏に会ったような、なんと感謝してよいかわからないほどうれしかった。」

おばあさんの文もありました。下「」引用。

「かわいい史樹、史樹はついに逝きました。病院の先生方の治療も、両親の一生懸命な看護のかいもなく、逝ってしまいました。どうしてそんなに早く逝ってしまったのか、ばあちゃんはかなしい。-略-」

父は、高校教諭。


【関連本】

合唱構成・あの星はぼく

「ヒロシマの母の記」史樹の死を生きて







もくじ







エンタメ@BlogRanking


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (みずき)
2010-10-25 08:34:53
小学生の頃、図書館でこの絵本を読んで、涙が止まらなくなってしまったのを思い出しました。

あれから四半世紀、この本が絶版になってしまっているのはとても残念です。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。