磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

被曝治療83日間の記録-東海村臨界事故-

2009年08月20日 | 読書日記など
『被曝治療83日間の記録-東海村臨界事故-』
   NHK取材班・著/岩波書店2002年

東海村事故の作業員の治療をした東大病院の人たちからの取材によってつくられたNHKの番組。それを元にした本のようである。



事故が起きた当日、東京大学医学部教授・前川和彦は医局でテレビをみていたという。下「」引用。

「病院の医局に到着すると真っ先にテレビのスイッチを入れた。目に飛びこんできたのは、これまで見たことのない映像だった。活性炭入りフィルターが付いたガスマスクのような防護マスクで顔を覆い、白い放射線防護服で頭から足先まですっぽりと身を包んだ数人の医師と看護婦が、患者を乗せたストレッチャーを運んでいた。患者は体中、透明のビニールで包まれていた。
 患者の運び込まれた建物が、何度も訪れたことのある千葉県の放射線医学総合研究所(放医研)の入口だと気づくのに多少の時間がかかった。-略-」

1999年10月2日、東大病院へ大内氏か転送される。

最初、見た目はよかったという……。下「」引用。

「横たわった大内が声を発した。
「よろしくお願いします。」
 細川は、「あれ?」と思った。ふつうの会話できる状態だとは思っていなかった。被曝という言葉から、外見的にもかなりダメージを受けているだろうし、意識レベルも低いのではないかと想像していたのだ。しかし外見だけでは、一体どこが悪いのだろうとしか思えない。致死量といわれるほど高い線量の放射線を浴びたと聞いたのが、とても信じられなかった。
「ひょっとしたらよくなるんじゃないか。治療したら退院できる状態になるんじゃないかな。」
 そういう印象を持った。」

右手だけ少し赤くはれていたという。下「」引用。

「何ともないように見える大内の体のなかで、唯一右手だけが目をひいた。一日で一気に日焼けしたような赤さを帯びて、はれていてた。大内は被曝したとき、ウラン溶液を注ぐロウトを支えていた。臨界を起した沈殿槽にもっとも近かったのが、この右手だった。それでもこのとき、もっとも多くの放射線を浴びたと推定される右手は少し赤くはれているだけだった。」

しかし、時間がたつにつれて、変化していく……。それも、むごたらしいものに……。

染色体はなかった?……。下「」引用。

「一○月五日、被曝から六日目、無菌治療部の平井久丸のもとに、転院の翌日に採取した大内の骨髄細胞の顕微鏡写真が届けられた。
 そのなかの一枚を見た平井は目を疑った。
 写真には顕微鏡で拡大した骨髄細胞の染色体が移っているはずだった。しかし、写っていたのはばらばらに散らばった黒い物質だった。平井の見慣れた人間の染色体とはまったく様子が違っていた。」



死亡1999年12月21日午後11時21分。

猛省を願うと医師が……。下「」引用。

「大内が死亡した際の記者会見の最後に、前川はこう言った。
「原子力防災の施策のなかで、人命軽視がはなはだしい。現場の人間として、いらだちを感じている。責任ある立場のかたがたの猛省を促したい。」
 事故など起きるはずがない--。
 原子力神話という虚構のなかで、医療対策はかえりみられることなく、臨界事故が起きた。国の法律にも、防災基本計画にも、医者の視点、すなわち「命の視点」が決定的にの欠けていた。」

放射能は安全などという学者たちのでたらめも、影響しているだろう……。

放射線医学総合研究所(放医研)といえば、超能力を研究もしているという本(『カルト資本主義-オカルトが支配する日本の企業社会-』)がありましたね。

この本の元の番組は、NHKのオンデマンドで視聴可能のようですよ。








index

index

目 次



エンタメ@BlogRanking


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。