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エジプト旅行記 - 仕方噺 3日目 テル・エル・アマルナ その1

2008年11月7日 テル・エル・アマルナ観光 その1

テル・エル・アマルナ(アケト・アテン:アテンの地平線)は、アクエンアテン(アメンヘテプ4世:在位紀元前1350 - 1334)によって開かれた新しい都。父のアメンヘテプ3世は、メムノンの巨像で有名。
アメン神からアテン神へ強制的国民大宗教改革を実施し、どの神も信仰していない土地を求めルクソールからテル・エル・アマルナまで北上し都を開いた。
王妃はエジプト3代美女の一人として有名なネフェルティティ。ミニヤの街には、ネフェルティティの胸像があちこちにあった。アクエンアテンの街というよりネフェルティティの街と言う印象を与える。
また、この時代の芸術はアマルナ芸術と呼ばれ、後のエジプト芸術に大きな影響を与えたという。ツタンカーメンの墓にあった装飾品が、あのように細部にわたり美しかったのもアマルナ芸術あってこそということらしい。王と王妃、子供を一緒に壁画に描くときに、今までは王妃は王の半分以下の大きさだったのを、ほぼ対等に描くようになったのもこの時代。それが、ネフェルティティの実力だったのかもしれないが…。
有名なネフェルティティの胸像は、エジプトの博物館ではなくベルリンにある。発見したドイツ人学者が、がらくたに紛れさせ、まんまと国外に持ち出したという。エジプト政府は胸像の返却を求めているが、その日は来るのだろうか。
ネフェルティティは、浮気性だったという。胸像の片目が無いのも彫刻家トトメスと内通していて、胸像が完成すると会えなくなるので、わざと片目を作らず未完成だという理由で会っていたという。また、ネフェルティティが次のファラオ、スメンクカーラーだという説もあり、ツタンカーメンの黄金のマスクは、スメンクカーラーのマスクを流用したという話もある。

さて、アクエンアテンの墓に行くには、荒涼として広大な台地をひた走ること10分くらい。途中で、向かいから来たワゴンから人が降りてきて、こちらのバスに乗り込んだ。知り合いで途中まで乗せていくのかと思っていたら、途中の小屋で一回降り、入り口脇の石の下から隠してある(?)鍵を取り出し小屋の中へ入り、発電機のスイッチを入れたようだ。再びバスに乗り込みアクエンアテンの墓へ一緒に行った。どうやら墓の管理人だった。中は撮影禁止だったので、残念ながら写真はない。
アクエンアテンの墓入口
ここから階段を下りていく
王都アケト・アテンは、その境界を、断崖に刻まれたレリーフにより定められていた。境界碑へは急な階段を上り、その後はほとんど崖を登ることになる。岸壁は浸食されてしまい、両脇の像はかろうじてそれとわかるくらいぼろぼろになってしまっている。真ん中の文字は、王がどこで死んでも遺体はアマルナに運ばれ、そこで埋葬されるように、と書いてあるそうだ。
気温は30度を超え、かなり暑くなってきた。
結構急な階段
王と王妃の像
何もない…見晴らしがいい
次は、岩窟墓群。北の岩窟墓群と南の岩窟墓群がある。ベニ・ハッサンの墓と同じ様に、岸壁に横穴を掘って墓にしている。ベニ・ハッサンほど密集していないので、結構歩くことになる。現地ガイドさんは、常に先回りし鍵を開け、見学が終わると鍵を閉め走って私たちを追い越し次の墓を開けてくれた。珍しく(?)とても働き者のまじめな青年だった。
こちらも墓の内部は撮影禁止のため写真はない…はずだが、スーパーマリオくんが撮れ撮れとうるさかったので、何枚かの貴重な写真が残っていた。
岸壁の道をひたすら歩く
岩窟墓
よく走ってくれたガイドくん
スーパーマリオくん?
コメント ( 2 ) | Trackback ( )
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コメント
 
 
 
ここ!! (いのぶー)
2010-12-18 09:26:13
私達、アクエンアテンの墓の観光がなかったの。
すご~く残念。
写真撮影ができて、ラッキーでしたね。羨ましい。
 
 
 
Unknown (rin)
2010-12-18 16:09:56
なかなかここに行くツアーはないみたいですが、とても雰囲気があって良かったです。
もっと、アクエンアテンの勉強をしておけば良かったと…。
この辺の時代がおもしろいですよね。
 
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