唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

義武軍[易定]節度使 その4

2012-01-09 09:37:45 | Weblog
・その後神策軍系の武将の赴任先となり安定した時期が続いた。
・乾符6年[879年]豪商の息子で神策軍系の王處存が赴任した。直後の廣明元年[880年]黃巢が京師を陥し、
處存はいち早く軍を率いて勇戦し功績をあげた。
・中和二年[882年]處存は沙陀の李克用(この後河東節度使となる)と姻戚となり同盟を結んだ。
それに対して幽州李可擧など河北諸鎭勢力は警戒を強めた。
・光啓元年[887年]幽州李可舉・成徳王鎔は義武軍を併呑しようとて易州に侵攻したがかえって
處存に逆襲されて大敗した。そのため幽州は軍乱がおき李可擧は自殺した。
・景福元年[892年]處存は克用とともに成徳王鎔・幽州李威を攻め大破した。
・乾寧二年[895年]處存は卒し、子の郜が嗣いだ。
・光化三年[900年]朱全忠は北進し、成徳王鎔を服属させ、幽州劉仁恭軍を大破して義武に迫った。
處存の弟處直が率いる義武軍も沙河で大敗し、郜は河東へ奔り、處直は全忠に降った。
全忠は處直を義武軍節度使として服属させた。

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