唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

成德 王承宗の乱 3

2022-11-14 08:43:04 | Weblog
元和10年正月

消極的な反唐朝傾向であった淮西吳少陽が卒し、その子元濟は自立した上に周辺地域への侵攻をくり返したため憲宗皇帝は淮西征討を始めました。元濟は淄青李師道や成德王承宗に支援を求めてきました。師道・承宗は元濟の淮西継承を求めましたが憲宗は峻拒しました。

元和10年5月
承宗は牙將尹少卿を送り、強硬派の宰相武元衡に元濟を取りなしましたが拒否されました。

元和10年6月
承宗・師道の派遣した刺客は、京師で宰相武元衡を殺し、御史中丞裴度に傷を負わせました。真犯人は師道麾下の刺客だったようですが、事前の強迫もあり承宗が疑われました。承宗系の刺客は事に遅れたようです。

王士則や士平は承宗の麾下の仕業であると告発し、成德軍進奏院の張晏等八人が捕縛され誅されました。しかし世間は疑っていました。

憲宗は激怒してただちに強硬派の裴度を宰相に任じました。

元和10年7月
王承宗は有罪とされ追討されることになりました。

元和10年10月
魏博節度使田弘正は承宗軍と争い、征討することを請いました。弘正は貝州から出兵しました。

元和10年11月
振武兵二千が義武軍と合して承宗征討にあたります。

元和10年12月
承宗軍は活発に活動し、幽州・横海・義武などは被害を受けて征討を望みました。
宰相張弘靖は淮西・成德の両面作戦に反対しました。

元和11年正月
承宗の官爵を削り、河東、幽州、義武、橫海、魏博、昭義六道に征討を命じます。

宰相韋貫之も両面作戦に反対しました。

幽州節度使劉總は承宗軍を冀州武強縣で破り落としました。

元和11年2月
王承宗が反撃して幽州節度の蔚州を焚掠しました。

昭義節度使郗士美は成德兵を破ったそうです。

幽州劉總も成德兵を破ったそうです。

魏博軍は成德兵を破り、固城や鴉城[位置不明]を落としたようです。

元和11年3月
幽州節度使劉總は深州樂壽縣を囲みました。

元和11年4月
幽州劉總は承宗軍を深州で破りました。

義武節度使渾鎬は成德兵を鎭州九門で破りました。

元和11年6月
魏博田弘正軍は冀州南宮まで侵攻しました。

元和11年7月
田弘正軍は成德兵を南宮で破りました。

元和11年8月
昭義軍節度使郗士美は承宗軍を趙州柏鄉縣で破りました。これは真面目にたたかったようです。
他の「破った」というのは「戦った」程度の小競り合いでしかありません。

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