午後から中野に出かけて数年来の溜飲の下がる大仕事ができ、四ツ谷の職場に戻り、夜の部ぎりぎりに渋谷のシアターコクーンへ滑り込み。
コクーン歌舞伎初体験が2005年の福助主演の「桜姫」。面白かったのだが、幕切れに違和感を感じたのがひっかかる。今回は現代劇版と歌舞伎版で6・7月に連続上演する企画だが、どうだろうと思っていたが・・・・・・。
【桜姫 清玄阿闍梨改始於南米版】
作・鶴屋南北 脚本・長塚圭史 演出・串田和美
今回の主な配役は以下の通り。( )内は歌舞伎で相当する役名。
大竹しのぶ=マリア(桜姫)・墓守
中村勘三郎=ゴンザレス(権助)
白井晃=セルゲイ(清玄)
笹野高史=墓守ほか7役
古田新太=ココージオ(残月)
秋山菜津子=イヴァ(長浦)
佐藤誓=イルモ・イルノルト、ほか
キャストは豪華。舞台の左右には稼動舞台があって、冒頭の死体を焼く墓場の場面の後に奥に動いていって、客席と奥の羅漢台で挟むという配置になる。舞台には何ヶ所も切穴があいて、そこからの登場とか穴にスポーンと飛び降りての退場とかは目新しい。列車の模型の上に座って列車での移動の場面をつくったりというところもあり、串田和美の舞台装置へのこだわりはいつもながらである。
また、大竹しのぶは笹野高史とともに墓守として狂言回しの役もつとめるというのも工夫を感じた。しかしながら先に汚ない役からお嬢さんに替わるので、観る方はマリアが身を落した時の落差を感じなくなってしまうというのが良し悪しだ(ここのくだりを追記した)。
しかし、南米版ということで南米と思われる土地の話に翻案され、役の名前も南米風。清玄阿闍梨はキリストのように十字架をしょって伝道する聖人という設定。権助にあたるゴンザレスはただのやさぐれ男ではなく革命家という風評も持たれている。チェ・ゲバラをもじっているのかもしれないが、正義の人というよりも金持ちをひどい目に合わせることが貧しい人々の支持を受けているだけのようだ。
ちゃんと南北の「桜姫」を踏まえて翻案しているんだなぁと感心。しかしセルゲイがオカマだと言われていることにひっかかったりする。衆道の立役の方はオカマなのか?わかりやすくするためなのかとも思うがちょっと違う気がする。こだわりすぎか?
残月・長浦カップルに相当するココージオ・イヴァの古田新太・秋山菜津子は思い切り笑いをとるキャラ設定だが、最後は何故二人とも死んじゃうの?金と色の欲の皮をつっぱらかして最後は身ぐるみ剥がれた惨めな姿で退場というのが一つのあり方としていいのに、これじゃちょっとおセンチ路線だろうと少々興ざめ。
最後もマリアが何故か切穴から姿を消して終わり、桜姫との因縁で死ぬ清玄と権助に当たる二人が最後に残るという終り方もすっきりしない。
かたや白菊丸にあたるジョゼとの心中で死にはぐり、一人死なせたジョゼへの贖罪のために生き、転生したマリアへの妄執の中に死に、死んでもなお霊になってつきまとうセルゲイ。マリアの父を殺したことがわかり、仇を討たれるのかなぁと思っていたら「どんな姿になっても生きていたい」と生きることへの妄執をさらけだすゴンザレス。男がちっともカッコよくない弱さの塊のような存在に描かれ、マリアにしてもイヴァにしても女は逞しく生き、潔く姿を消してしまうという対照的な描き方。
これは長塚イメージなのか、串田イメージなのか?それは筋書の長塚圭史からの文章に答えがあった。
「最初に串田氏から戴いたオーダーは大きく3つあった。『清玄』を支柱にした物語を見たいということ、原作では実は『清玄』と兄弟だったという唐突な結末で終る『権助』に別の繋がりとドラマを与えたいということ、『桜姫』は男たちの状況次第で形を変える『魔物』のようなものにしたいということ。正確ではないかもしれないが、私はそう受け止めて、ここで更に・・・・・・」
そうか、長塚圭史は悪くない。串田和美の男と女の描き方に私が強い違和感を感じてしまうのだ。2005年の桜姫は権助と赤ん坊を殺すと狂ってしまった。南北本来の桜姫の描き方、嘆きながらもきっぱりと仇とその血を継ぐ子を殺してお家を再興して姫に戻ってしまうという高貴の姫様というのにどうしても抵抗したいらしい。
私は南北の桜姫の人物造詣の方が好みなので、「桜姫」というタイトルにする以上はやはりタイトルロールが逞しい姫であってほしい。どうもその期待とのずれが大きいのがつらいのだ。
役者たちの熱演は見事である。そこには全く文句はない。
しかしさらに、暗い話を一方で楽しげな縁取りをするように楽隊が何度も登場してギャップも浮かび上がるという演出が私にはダメだった。笹野高史もトランペットの腕前を披露。大竹しのぶはフェリーニの「道」のジェルソミーナのように太鼓を打ち鳴らす。しかし全体的に楽隊がどうにも安っぽいのだ。
中二階の右サイドの席でまさに斜に構えての観劇となった。こういうどんな感じかわからないリスクのある作品は千穐楽に観るものじゃないなぁと痛感。贔屓が多くてカテコも盛り上がったが、盛り上がっている方たちとのギャップが大きすぎて居心地が悪い。もちろん役者たちの熱演への拍手は送ったことはいうまでもない。
写真は今回の公演のポスター等のデザイン。
2007年9月に観た長塚圭史作「ドラクル」の記事はこちら(贖罪あたりのテーマに共通性があるかな。)
2度目は途中で帰っちまったの。
後日、後輩の犬丸治君と、あたいが企画した「小山三丈トークショウ」の後、話したんだけど、彼も呆れてた。『テアトロ』で酷評しちゃえとけしかけておきました。
ほんと、つまんない芝居にしちゃった。串田さん、昔っからお父上(孫一先生)の関係で、よく知っているんだけど、いつまでも「上海バンスキング」なんだよねぇ。
だから、ご存知のように、いつも行ってる大楽は」、今回パス。ほかの方に譲っちゃったぁ。
>長塚圭史は悪くない。串田和美の男と女の描き方に私が強い違和感を感じてしまうのだ。
最もいけないのは、鶴屋南北の桜姫が好きな観客・つまりノンと唱えそうな観客を呼び込んでしまったプロモーションのあり方がいかんと思います。
キレイと汚いのコントラストがなさすぎます。席の移動も良く分からない。綯い交ぜの趣向のきいた戯曲、演技者は約1名を除き最高、演出は厳しかったですね。しかしこういう時こそ、救世主が現れます。白井さん最高でした。
「桜姫 現代版」私にはとても難しいお芝居でした。
でも結構楽しめたのは、役者さんの魅力と、
苦手な長塚脚本に余り期待してなかったことと(え)、
歌舞伎版を観たことがなかったからかなあ、と。
今月の歌舞伎版を観た後に、また別の感想が持てるかもしれません。
>マリアが身を落した時の落差を感じなくなってしまう
あぁ~これ、分かります!
売春婦になってからも、なんだか楽しそう(?)に見えてました。
愛するゴンザレスの為に嬉々としてやってるのかと。
ココージオとイヴァの二人だけが死んでしまうのも、
観終わってから(なんで?)と思ってました。
歌舞伎での「桜姫」も観た事がなく、
あらすじに関しても全く予習をしなかった私。
1度目に観た時は、(なんだか難しいな)と思っていたのですが、、、
何も知らなくて正解だったのかもしれませんね。(笑)
>串田さん、・・・・(中略)いつまでも「上海バンスキング」......私はその作品は未見で伝説として知っていて笹野さんのトランペットともども、いい意味でそれを今回もリフレインしているのかなぁとも思ったのです。演舞場で2004年に「空想 万年サーカス団」というやはり串田さん演出の舞台がつまらなかったのですが、その時と同様の感覚を持ってしまいました。あんまり楽隊を多用するのもマンネリのように思えます。
★「風知草」のおとみさま
>鶴屋南北の桜姫が好きな観客・つまりノンと唱えそうな観客を呼び込んでしまったプロモーションのあり方がいかん......確かにそうですよね。しかし現代版と歌舞伎版を並べてコクーン歌舞伎のシリーズの「桜姫」とする以上、南北の桜姫が好きな観客はもれなくついてくるでしょう。コクーンのシリーズにしなければ私はまぁ釣られなかったと思います。最近はあまり無理をして好みからはずれるものを観ても疲れる感じなので取捨選択を厳しくしているのです。これは悪い予感はしたけれど、二ヶ月連続上演の片方だけ観るのもなんだしと押さえてしまったのでした。
7月の方で女方の魅力を増している七之助の桜姫を観ることでなんとか帳尻を合わせたいと思います(^^ゞ
★「瓔珞の音」の恭穂さま
そうですね、普通にストレートプレイの感覚で観る方が楽しめると思います。最近の私は役者の魅力重視で観る作品を決めるとキリがないので、作品を重視して決めることが多くなってきています。だから今回は「桜姫」の翻案ものなので大きくはずすことはないだろうと楽観していたのが失敗でした。キャストが熱演すればするほど残念度が増してしまいました。7月の歌舞伎版に期待をつなぎます。
★「ARAIA -クローゼットより愛をこめて-」の麗さま
>何も知らなくて正解だったのかもしれませんね......出演者の魅力を堪能するという点ではよかった舞台だと思います。
けれども、作品として何がいいたいのかがすごくわかりにくい作品になってしまっていると思います。ストレートプレイ観劇歴の長い友人も「よくわからなかった。歌舞伎版も観ればもっとわかるかもしれないから7月も観たい」と言ってました。そういうことで歌舞伎を観る人を増やす効果もあるのかなぁと思ったりもしています(笑)
私はこの現代版「桜姫」、期待していたほどではなかったにしても、わりと好きだったのですが、
>しかしながら先に汚ない役からお嬢さんに替わるので、観る方はマリアが身を落した時の落差を感じなくなってしまうというのが良し悪しだ
ここは全く同感です。
これは大竹しのぶさんの演技というより、演出の功罪かな、という気もするのですが、今回のマリアは全編を通じて“高貴なお姫様”感には乏しかったように感じました。
桜姫がタイトルロールとはいえ、この現代版の主演はセルゲイのようですから、それはそれでよかったのかもしれませんが。
桜姫の現代劇版と歌舞伎版の2ヶ月連続企画ということだったのでしっかり両方観て比べて楽しもうと思っていました。あくまでも桜姫が主役の物語を観たかったのです。サブタイトルに「清玄阿闍梨改始於南米版」とついてしまい、主役が清玄の方に移ったと途中で知ってももう遅い状態。はっきり言って清玄は一番感心が薄い人物だった(笑)ですから白井さんが頑張っていてもアンタの物語を観に来たんじゃないよ状態であまり楽しめずに千穐楽で観たことを後悔。リスキーな公演は千穐楽を避けることを学習しました。
けれど2ヶ月を通してまとめて考えてみると、「桜姫」の世界を多面的に楽しむ力はついたと思えました。しつこく反芻する私の癖もこういうところで役に立った気がします。
しかしながら現代劇版の桜姫は、元々の予定の宮沢りえで観たかったですね。大竹しのぶの芸の力は大したものだけれど、玉三郎の芸の花は様式美の歌舞伎だからいいのであって、現代劇版ではやはりヒロインの若さが活きる演目は女優の年齢はどうしても影響してしまうように思えます。