ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

09/07/25 歌舞伎座昼の部②今回の「海神別荘」で見えたもの

2009-08-12 23:58:42 | 観劇

ようやくキーワードが見えたので今回の公演の感想を書いておきたい。
【海神別荘】一幕
Wikipediaの「海神別荘」の項はこちら
あらすじは前回の記事を参照いただく。
2006年昼の部の「海神別荘」の記事はこちら
今回の主な配役も以下の通り。
美女=玉三郎 公子=海老蔵
博士=門之助 沖の僧都=猿弥
女房=笑三郎

2006年に観た時はあまりにも恋愛至上主義ので耽美的な物語だし、美女の見栄っ張りすぎる性格にあきれてしまってあまり魅力を感じず、海老蔵の公子があまりにもハマリ役なのに感心していた。今回はずいぶんと感じ方が変わってしまった。
海の公子たちの世界の価値観は人間界への風刺がきいていて今回も面白い。沖の僧都や博士を相手に滔滔と語る公子の恋愛感が今回はさらに説得力があった。海老蔵の台詞が前回よりも遥かに胸に届くようになっている。さらに前回よりも貴公子然と振舞う前半の端麗さが際立っていて、身体も絞っていることもあろうが役をさらに自分のものにしているためにちっとも力みを感じないためだと思えた。

玉三郎の美女も前回は本当に見栄っ張りな感じが鼻をつくように感じたのだが、今回は自己主張をきちんとする女というように受け止められた。父親に海の宝の身代として差し出されても死をただ恐れるのではなく、不思議な力に召されることの意味を冷静に考える力のある女だった。
そうして公子を喜ばせる。「やぁこの女はえらいぞ。はじめから嘆いておらん。慰め賺す要はない。私はしおらしいあわれな花をながめようと思ったが違う。これは楽しく歌う鳥だ」
ところが、美女がこの幸せに生きている姿を親に見せることに執着したことから、物語は急展開する。海で生きていくためには人間の姿でいることはできず、美しい蛇の姿になったということを知らされ、地上に行ってそのことを確かめた美女は泣き死にに死ぬんですと悲嘆にくれる。
公子は「ここでは悲哀のあることを許さんぞ」といい、「女、悲しむものは殺す」と言う。
「ええ、ええ、お殺しなさいまし」と言い放つ。そこで碇に縛り付けられての処刑の命がくだる。美女は公子に「見ていないで御自分でお殺しなさいまし」とまで言い、刀を抜き放った公子と初めて瞳をかわすことになる。そこで初めて公子の気高さを悟り、その公子に殺されるということを喜ぶようになる。

前回、実はここで飛躍を感じてしまったのだが、今回はこの耽美な感覚にすっと入っていけてしまった。
前半の博士たちとの問答の中で、公子が一番好きな女だと言った「八百屋お七」と重なったのである。お七は男恋しさのあまり再会の機会をつくるために街に火をつけてその大罪に問われて減刑されようとするのを自ら成年になっていることを申告して火あぶりになって死んでいった。

そうか、この美女も自分のしたことに対して引き受けるべき死を潔く誇り高く願ったか!流されない自分というものをきちんともった女ということで八百屋お七と美女には共通の魅力があるのだ。だからこそ、公子は好ましく思って女を許し、終生を誓うことにしたのだろう。

人間界と異界の者の価値観が不協和音を奏でた後、二人の愛情がきちんと育まれて迎える大団円。
そこで美女がここは極楽かときくと答える公子の台詞。
「そんな処と一緒にされてたまるものか、女のいく極楽に男はおらんぞ、男のいく極楽に女はいない」
仏教の極楽浄土とは異なる至福の世界もあっていいではないかという、泉鏡花の独自の境地にすんなり引きずり込まれて、至福感にひたってしまう。

そして、玉三郎と海老蔵の二人の役者が歌舞伎座さよなら公演としてこの高みにまで「海神別荘」の世界を描ききったことに、最後は目頭が熱くなってしまった。

歌舞伎座でのカーテンコールの是非論が以前はあったが、この舞台には当然のようにカーテンコールがあることがふさわしい。作品やその時の舞台によってはあっても問題にならない時代がもうここにきていることにも感慨が深い。

写真は七月大歌舞伎の泉鏡花もの2本を並べた特別ポスターの「海神別荘」部分を携帯でアップで撮影したもの。
7/25昼の部①勘太郎と獅童の「五重塔」
7/27鏡花を軸に七月大歌舞伎のイメージの連鎖
以下、比較の意味でリンク。
2006年七月大歌舞伎の玉三郎の鏡花作品一挙上演を考える


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