ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】ウィトゲンシュタイン入門

2009年09月23日 22時02分43秒 | 読書記録2009
ウィトゲンシュタイン入門, 永井均, ちくま新書 020, 1995年
・注目している哲学者について、注目している著者が解説した書。書かれている内容はさっぱり理解出来ないが、これまで読んだウィトゲンシュタインの関連書よりもその思想によりはっきりと触れることができ、生々しい感触が味わえる。その難解な文章を読み進むのは、激辛カレーを脂汗流しながら食べ進むかのような感覚。読み応えあり。
・「この本は、ウィトゲンシュタイン哲学の入門書である。あたりまえのことを言っていると思われるかも知れないが、そうではない。まず第一に、この本は「哲学」の本であって、人物紹介の本ではない。そして第二に、この本は入門書であって、解説書や概説書ではない。(中略)その意味で本書は、本質的に「哲学」の本なのである。私はウィトゲンシュタインの哲学の妙技を紹介することを通じて、哲学がどんなに魅力的なものか、一度も「哲学」をしたことがない人に、何とか伝えたいと思った。しかし、とりわけウィトゲンシュタインの哲学は、彼と同じ問いをみずから持ち、彼と同じように徹底的に考えてみようとする人しか受けつけない、という側面を持つので、それは至難のわざであった。」p.7
・「こう言うと、読者の皆さんは驚かれるかも知れないが、哲学にとって、その結論(つまり思想)に賛成できるか否かは、実はどうでもよいことなのである。重要なことはむしろ、問題をその真髄において共有できるか否か、にある。優れた哲学者とは、すでに知られている問題に、新しい答えを出した人ではない。誰もが人生において突き当たる問題に、ある解答を与えた人ではない。これまで誰も、問題があることに気づかなかった領域に、実は問題があることを最初に発見し、最初にそれにこだわり続けた人なのである。」p.9
・「デカルト、バークリー、シュティルナー、キェルケゴール、フッサール、大森荘蔵ら、その問題に関係がありそうな「哲学」の本を読んでは、かゆい足の上から掻いているような物足りなさを感じていた私は、自分が本当に知りたい問題は「哲学」では扱われていないのだ、となかば諦めかけていた。だが、このような錚々たる面々が最も重要な(と私には思われた)問題を取り逃がしているように見えることが不思議でならなかった。そのとき、あの顔見知りのウィトゲンシュタインさんが、実は私がいちばん知りたかったことをすでに論じていたことを知ったのである。」p.14
・「それは、かんたんに言えば、「私はなぜ、今ここにこうして存在しているのか」という問いであった。」p.15
・「私が何よりも感動したのは、「他人は『私が本当に言わんとすること』を理解できてはならない、という点が本質的なのである」という最後の一文である。私の解するところでは、ウィトゲンシュタインの哲学活動のほとんどすべてが、陰に陽に、この洞察に支えられて成り立っている。」p.20
・「超越論的主観とは、素材としての世界に意味を賦与することによって世界を意味的に構成する主観である。(中略)ウィトゲンシュタインは、そのような主体をまったく想定していない。イメージ的に言えば、むしろその逆の主体を考えた方が近いだろう。つまり、すでに「机」「地球」「恋愛」「日本」「永井均」といった意味に満ちた世界に対して、一挙に実質(それが実現するための素材)を賦与することによって、形式としての世界を現実のこの世界(=私の世界)として存在させる主体、というようにである。」p.24
・「つまり『論理哲学論考』とは、沈黙すべきものを内側から限界づけ、そのことによってそれに正当な位置を与えるために書かれた書物なのである。彼にとって、本当に重要なのは、明晰に語りうることがらにではなく、沈黙しなければならないことがらにあったのである。」p.48
・「まず何よりも、「多摩川の上流に大雨が降った」という文は、多摩川の上流に大雨が降ったという事態の表現としてしか理解できない。そしてまた逆に、多摩川の上流に大雨が降ったという事態は「多摩川の上流に大雨が降った」という文の理解を通してしかとらえられない。独立に把握できる二つの事象の間に成り立つのではない、このような関係を、内的関係というのである。  それでは、内的と言われるこの独特の関係は、いったい何によって成り立っているのか。「論理形式」を共有することによって、というのがウィトゲンシュタインの答えである。」p.53
・「一 世界とは、そうであることのすべてである。
一・一 世界は、事実の全部であって、物の全部ではない。
一・一一 世界は、諸事実によって、そしてそれがすべての事実であることによって、決定されている。
」p.54
・「ウィトゲンシュタインの主張を、簡単に要約すれば、こうである。  事態とは、諸対象(事物、物)が特定の仕方で結びついてできたものである。事態には、現に成立している事態と、現に成立してはいないが成立可能な事態があり、現に成立している事態が事実と呼ばれる。また、要素的な事態が結びついてできた複合的な事態は状態と呼ばれる。そして世界とは、対象ではなく事実(成立している事態)を全部集めたもののことである。事態には成立している事態と成立していない事態があるが、事態は相互に独立であるから、ある事態が成立している(いない)ということから、他の事態が成立している(いない)ということを、推論することはできない。また、対象が対象でありうるのは、他の対象と結合して事態を構成しうる限りにおいてでしかない。」p.56
・「肖像画であれ、地図であれ、楽譜であれ、およそ現実(人物、地形、音楽)を記号的に表現し直そうとすれば、その記号的表現は現実の写像でなければならない。そして、われわれはそれが写像であることを、像そのもののうちに端的に読み取る。たとえば肖像画は実在の人物の像だが、その写像関係それ自体を再び絵に描くことはできない。かりにできたとしても、もしそういうことをするのであれば、今度はその絵とそれが写像しているものとの関係を描かねばならなくなるだろう。われわれの記号活動は、どこかで必ず、写像関係の外に出てその写像関係それ自体を写像することができない(できてはならない)地点に達する。言語はそうした写像の一例にすぎない。」p.59
・「名辞は対象を指示する。要素命題は(要素的)事態の成立を主張し、複合命題は複合的な事態、つまり状態の成立を主張する。つまり、一般に命題は事実がいかにあるかを語る。」p.60
・「できるならば事実を正しく記述する真なる文を作り、さもなくばせめて事実を誤って記述する、有意味ではあるが偽なる文を作ること――『論考』のウィトゲンシュタインにとって、これこそが言語の本来の姿なのであった。」p.63
・「子どもが言葉を持つようになるのはどうしてか、という問いに答えがないのも、実は同じ理由からである。しかし、言語学者も、心理学者も、そして現象学者も、この問いに答えようとし、言語の背後にそれを可能ならしめる何かを想定することによって、問いに答えたと思いこむ。だが、ほんとうに難しいのは、問いに答えることではなく、答えがないこと、あってはならないことを、覚ることなのである。」p.66
・「思考の表現である言語に限界を設定することは、その目的のための手段であるにすぎない。限界設定は言語の内部からのみなされうるからである。  それゆえ、その趣旨に従うならば、世界の形式そのものであるがゆえに語りえない「先験的(トランスツェンデンタール)」なものと、世界の外にあるがゆえに語りえない「超越論的(トランスツェンデンタール)」なものとは、当然区別されねばならない。つまり『論考』のなかには、二種類のトランスツェンデンタールなものが、したがって二種類の語りえぬものがあることになる。」p.76
・「言語による表現の可能性こそが、意図、予期、願望等々の志向的なはたらきを、はじめて可能にするのである。人間が自己自身を志向的に捉えて生きる動物であるのは、人間が言語を持つ動物だからである。これがウィトゲンシュタイン独自の洞察であり、言語ゲームというアイディアの中核を形づくる発見でもある。」p.124
・「彼が渾身の力を込めて到達しようと努力している地点は、ほとんどの読者や解釈者が、始めから何の問題もなく到達してしまっている地点なのである。」p.139
・「時計の比喩で言えばこうだ。この時計の針の先には「今」という時刻(!)が表示されているに違いないが、独我論者が問題にしたいのは、普通の時計の針が指すような特定の時刻でもなければ、この時計が指すような今一般でもなく、「この今」なのである。だが、それは語りえないのだ。そして、ウィトゲンシュタインはただ一人ここで、これを最後に、それが語りえないゲーム(Endspiel)を実践しているのである。もしそのゲームが人に理解されるとすれば、それは何を意味するのだろうか。ウィトゲンシュタインはこの問いに答えていない。」p.143
・「言葉の意味を定めるのは、言葉を使う人の心に浮かぶものではなく、むしろ生活の形態である。だから、「もしライオンが言葉を話したとしても、われわれはライオンの言うことがわからない」(『探求』446頁)。」p.151
・「ウィトゲンシュタインは「哲学者はいかなる観念共同体の市民でもない」と書いた。哲学者は「哲学」なる観念共同体の市民でもなければ、また「反哲学」といったそれの市民でもない。まさに「そのことが、彼を哲学者たらしめるのだ」と。」p.206
・「ウィトゲンシュタインは、思想の値段は勇気の量で決まると言った。これは私にとって、心から共感できる言葉である。しかし、なぜ勇気が必要なのか。それは、思想にはどんな交換価値も拒否する部分が、つまりそもそも値札をつけることができない部分があるからである。(中略)私自身にとって、法外な値段がつく思想家は今のところウィトゲンシュタインとニーチェの二人だけである。彼らは、他の人も別の仕方で語った、人間にとって重要な真実を、彼らなりの仕方で語った人たちなのではない。他の人がまったく語らなかった、彼らがいなければ誰も気づかなかったかもしれない、まったく独自の問題をただ一人で提起した人たちなのである。」p.210
・「すべては言語ゲームなのであり、倫理も芸術も宗教もその一形態以外の何ものでもない。それを超えるものは<無い>のだ。だから、ウィトゲンシュタインは倫理や芸術や宗教を語りえぬものの側に置いた、などということはできない。まさにその意味において、後期において、すべては言語ゲームになったのである。」p.216

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